216 ワイングラスとペルレ島
「これを貴女に…」
翌日はゆっくりすれば良いと言われて、何も予定が入っていなかったのだが、昼下がりにアルヘルムの私室に呼ばれていくと、立派な黒いビロードの布張りの箱を渡された。
そこには、クリスタルガラスのワイングラスが2つ入っていた。
「まぁ…」
手に取ると懐かしい前世の薄い厚みのワイングラスである。そっと弾くと、きぃんと高音のきれいな音がした。
ついこの間クリスタルガラスのシャンデリアができたばかりなのに、もうこのような前世と変わりないほどのワイングラスを作れるようになったかと、陽子さんは驚きながらグラスをくるくるとひっくり返しながら眺めていた。
睡蓮の蕾のような形で花びらのよう薄さと、すっと細い脚。
前世でも触った事のない高級品なのはすぐに見てとれた。
「素晴らしいですわ。このようなグラス。いただいてもよろしいのですか?」
「もちろんだとも。その為に作らせたのだからな。貴女が欲しかったグラスになっているかい?」
子犬のような目でアデライーデが本当に気に入ったかどうかと伺うアルヘルムを、かわいいなとアデライーデは思った。人目がなければ頭を撫でてあげたいくらいである。
「ええ、思っていた以上ですわ。ありがとうございます。とても嬉しいですわ。大切にしますね」
うっとりワイングラスに見入っているアデライーデを満足そうに見て、アルヘルムは後ろに控えていたナッサウに目配せをした。
「アデライーデ様、失礼いたします」
ナッサウはそう言うと、アデライーデからグラスを受け取りナプキンで清めると二人の前に置いて、ワゴンに用意しておいたワインをとくとくと注いだ。
透き通ったガラスの中にはルビー色の赤ワインが揺れる。
「きれいだな。光に透けるワインの色がこれ程鮮やかだとは思わなかった」
「ええ、ワインの本来の色ですね」
本当は掲げるだけなのだが、今日は特別に軽くグラスをあわせ高音の音を楽しむと、アルヘルムはその薄いグラスの口当たりに驚いた。
「ほう…こんなにも口当たりが違うのか…。ワインの味まで違うように思える」
飲み慣れている銘柄のワインもグラスが違うと雰囲気が変わり楽しめると感心しきりだった。
ワインを楽しみながら、アルヘルムはこれからのクリスタルガラスの事をアデライーデに話し始めた。
今まで板ガラスが主な輸出品であったが、これからはクリスタルガラスに力を入れてシャンデリアを始めとしたガラス製品を出してゆく事、当面は帝国と国内向けであるが南の大陸との交易の主力製品にしてバルクを豊かにしたいと、熱く語り始めた。
「南の大陸とですか?」
「あぁ、クリスタルガラスがあれば、補給の品だけでなくシャンデリアやガラス製品を主力に直接交易ができるようになるからね。そうそう、ペルレ島の開発も進んでいるんだよ」
アルヘルムは書棚の中からペルレ島の地図を取り出しテーブルに広げてアデライーデに見せた。地図を見ると商船が停泊できる港の側に倉庫が5つと少し離れた所に大食堂が2つ。並びにいくつか建物が記されていた。
あれからペルレ島の開発はかなり進み、倉庫と大食堂だけでなく酒場と大浴場も船員の希望で建設したという。
アルヘルムとタクシスの考えでは、その奥に商取引のできる商館を建てて、バルクの特産品を揃え商船の会頭に見てもらうつもりだった。いずれ商人を接待する為の豪華なホテルも建てるつもりだという。
地図は前世の古地図のように描かれてあり、眺めていると港から少し離れたところに大きな建物の印がつけてあった。
「これがホテルですの?」
「あ…うん。そう…ホテルだね」
思いっきり濁した口調になったアルヘルムは、目を泳がせ始めた。
ピンときたアデライーデがにっこり笑い「船員の方のホテルですか?」と聞いたら、そうだとぎこち無く笑ってワインを口にした。
そこは、娼館だった。
どの港にも船員が通う娼館がある。それは前世でもこの世界でも同じらしい。大食堂ができ船員達の胃袋を掴んだあとに船員達と建設作業員やメーアブルグの娼館からの強い要望があり、もうすぐ完成するのだ。
船員達はともかく、メーアブルグの娼館にとってペルレ島の開発が進みだしてから商船の船員達がメーアブルグに来る機会が激減し死活問題になっていた。
陽子さんは否定はしないが少し考えを巡らせていた。
「ペルレ島へは誰でも入れますの?」
「? 商船の船員は誰でもだな。ペルレ島で働く人間はヴェルフの審査を受けたもの達だな」
審査と言っても名前や年を聞かれ病気にかかってないか確認するくらいだ。
「お風呂と医師の検査をペルレ島への上陸許可の条件にしませんか」
「それは、どういうことかな?」
アルヘルムは、グラスを置いてアデライーデを見つめた。




