207 月とバスケット
「じゃ、まずは乾杯」
マリア達は、村の酒場の隅のテーブルでアメリーを囲んで白ワインのスプリッツァー(炭酸割り)で軽く乾杯をした。
思いがけないアデライーデの申し付けで夜に自由時間ができたので、マリア達は揃って村の酒場に繰り出した。一応村の中とはいえ夜の外出なのでレナードに届けを出したが、揃っての外出にレナードはなにも言わなかった。
「コーエン様のところに今から行ってみない?」
「今から?約束もなく夜に男性の家に行くのは…」
「あら、だってまだこんなに早い時間なのよ。夜の散歩のついでにちょっと寄ってみましたと言ってもおかしくないわ」
エマはそう言うと、スプリッツァーをくいっと飲んだ。
庶民の夕食の時間はまちまちだ。仕事にもよるが商店勤めの家の夕食は遅く農家や漁師の家は早い。アデライーデは日没と同時に晩餐を済ませたので、酒場も半分くらいしか席が埋まってなかった。
「でも…」
渋るアメリーを説得している途中に、マリア達の顔見知りの兵士達が酒場に飲みにやってきて、次々に声をかけていく。
「珍しいな。揃ってここに来るなんて」
「えぇ、たまたまね」
「あっちで一緒に飲まないか?その…そちらのお嬢さんも良ければご一緒に。お嬢さん、ここにお泊まりですよね」
照れた顔で誘う兵士に、ミアがあっさりと断りを入れた。
「残念。今日は女子会なの。今度誘って」
「そうか。お嬢さん、今度ぜひご一緒に」
「え?ええ」
ミアに断られると、さっとアメリーに手を降って兵士は離れていった。
「ミアさん達、人気があるのね」
アメリーがボソリとつぶやくと、ミアが軽く手を振りながらアメリーの言葉を否定した。
「私達じゃなくアメリー様がですわ」
「え?」
「私達はだしにされているだけで、アメリー様を誘いたいのですわ」
アメリーは食後も仕事をするために、普段は席が混む前に早めの食事を済ませる。ここでアメリーを見かける兵士は食事を済ませ部屋に帰るアメリーか飲み物を頼みに降りてくるのを見かけるくらいだった。
「何度かあの美しいストロベリーキャンドルの髪の方は誰だと、聞かれたことがありますわ」
「まさか…」
「バルク人はみんな濃いか薄いかだけの茶髪ですから、他の色の髪の女性は人気なんですよ。マリア様のダークブロンドもアメリー様のストロベリーキャンドルの髪も」
そう言ってアメリアはにっこりと笑った。
--この髪が美しい?
アメリアの言葉に戸惑っていると、お手洗いに行ったエマがなぜかバスケットを抱えて帰ってきた。
「それどうしたの?」
「女将さんが、急に混んできてコーエン様のとこに夕食を持って行くのが遅れるって困っていたから預かってきちゃった」
バスケットの中には、チキンと卵のサンドイッチと炭酸水の小瓶が入っていた。エマが「女将さんに頼まれたから行きましょう」とアメリーの手をとって席を立たせる。
「でも…」
「断れないんですよ」
「え?」
「だって、お駄賃の代わりにスプリッツァーを奢ってもらっちゃたんですもの」
アメリーが厨房の方を振り返ると、目線が合った女将さんが運んでいる木のジョッキをちょっと掲げて忙しげにホールへ運んでいく。
「じゃ、行かないといけないわね」
「そうね!頼まれてしまったから仕方ないですわ」
「そ…そうね。頼まれたから…」
マリア達に囲まれて酒場から出ていくアメリー達を女将さんは目の端で見送ると「やれやれ、お膳立ても一苦労だよ。じれったいんだから、全く」とつぶやきながら持っていたジョッキをテーブルに置いた。
村の端の方にあるコーエンの家は、湖の近くで静かな場所にある。酒場からは少し歩くが、今日は満月で道は明るいのでランプは持たなくとも困らなかった。
マリアはコーエンの家に来たことがあるが、エマ達は初めてなので道中をちょっとした探検のように楽しんでいる。
「ここを曲がってすぐの家よ。前庭にたくさん花が植えてあって素敵なのよ。ほらあの家」
マリアがそう言って指差したコーエンの家から何か人の声がかすかに聞こえてきた。
誰か客が来ているのだろうか。
アメリーはそう言えば職人が増えるとコーエンが話していたと思い出し、今日は夕食を渡すだけにして帰ろうとコーエンの家の門に手をかけようとした時に、その声はコーエンと若い女性の声だとわかった。
皆は思わず生け垣に隠れ、葉の間からコーエンの家の庭を覗くとコーエンと若い女の子が話している。
アメリーは胸がずきりと痛むのを感じていた。
こちらからコーエンは後ろ向きで、若い女の子は手で顔をおおい泣いていた。コーエンは優しくその子を慰めているようだった。
「出直しまし…」
「愛しているの!」
アメリーがマリアに囁やこうとしていた時に、その女の子は顔から手を離しコーエンに向かってそう叫んだ。
目は2人に釘付けになり、耳からその声が離れなかった。
「小さな頃から好きだったわ」
「…知っていたよ」
そう言って、コーエンはその子の髪を優しく撫で始めた。
「お父さんに反対されても、ずっと好きだったの。諦めようと思っても諦められなかった。愛しているのよ」
「結婚すると、苦労するかもしれないよ」
「一緒になれるなら、どんな苦労だって耐えてみせるわ」
「レーア…」
そう言って、コーエンは優しくその子の名を呼び抱きしめた。
--いやよ!見たくない。聞きたくないわ!
2人の会話がぐるぐると頭を駆け巡り、ここから少しでも早く離れたいと震える足で後ろに一歩を踏み出した時、足が滑ってアメリーは後ろに転んでしまっていた。
「誰だ?」
物音に気が付きコーエンが門の閂を外すと、ひっくり返したバスケットの中身が散らばった中にアメリーが尻もちをついていた。
転んだ拍子に、緩くまとめていたバレッタが外れ髪が乱れている。
「アメリー様…なぜここに」
呆然として問いかけるコーエンの後ろから、艷やかな髪の可愛らしい女の子がコーエンの腕を取り「アメリー様?」と自分の名を呼んだときにアメリーは顔から火が出るような恥ずかしさで声が出なかった。
コーエンには想い合う人がいたのだ。
そんなコーエンに横恋慕をし、その恋人同士の前で泥だらけでみっともなく転んでいる自分。それを見られて消えたくなるほど恥ずかしくて、目の奥から涙がじわりと溢れてくる。
「こ…こんばんは。その…こんな格好で失礼を…」
顔をあげることも出来ず、目を合わせれば涙を止められないとアメリーは急いで起き上がり早足でその場を逃げ出した。
ただただ息の続く限り、この場を離れてできるだけ遠くへと。




