186 帰国と報告
「帝国は楽しめたか?」
予定より10日以上遅れて帰国したタクシスを、アルヘルムはにこやかに執務室に迎え入れた。
すでに山間は初秋の趣きになりつつある。
「……、楽しんでいたとでも?」
「報告書は楽しげだったぞ。『瑠璃とクリスタル』は大盛況。商会からは引っ張りだこ。夜会の誘いもひっきりなしだったそうだな」
「どれも仕事だ。それに滞在を延ばせと指示してきたのは陛下ですが?」
「それは大きな商機だったからな」
ふん、と鼻で答えてタクシスは座り慣れたソファにどっかりと腰を下ろした。
予定では『瑠璃とクリスタル』のオープンに立会い、数日帝国でメラニアとゆっくりしたら帰国の予定であった。
ところが、予想以上の盛況とメラニアが『瑠璃とクリスタル』を気に入りオープン翌日も顔を出したら、夫人方に捕まって夜会と茶会に招かれたのだ。
帝国の公爵夫人達の熱心な誘いを断りきれず、滞在を数日延ばしたいと早馬を走らせたら、すぐに「商機を逃さず掴んでこい」とアルヘルムから返事が来た。
メラニアは社交でタクシスはクルーゲと商談と、気がつけばあっという間に5日近く滞在が延びた。帰国の挨拶の為に謁見の伺いの手紙を出せば、謁見の許可と共に「カフェがとても人気だそうね。お忍びで楽しませてもらってもいいかしら?」と真っ青になるような返事が皇后から返ってきた。
手紙を見て一瞬返事ができずにいたタクシスに、使者は「すでにアンバー公爵夫人の名前で、ご予約済みでございます」とにこやかに告げたという。
「それで皇后陛下はお忍びで、いらっしゃったのか」
「あぁ、変装されて実家のアンバー公爵家の遠縁の夫人としてな」
「周りにバレなかったのか?」
「化粧は怖いな…別人に見えたぞ。瞳の色以外全くわからなかった」
どうも皇后は非常時の脱出用の技術を、お忍びにも活用しているらしい。
「『瑠璃とクリスタル』を甚く気に入られてな…。これからも、時々お出で下さると言われていた」
「それは…光栄だな。この事は…」
「支配人と料理長以外には伝えていない。どこで漏れるかわからんからな。警備は帝国でされるそうだ」
そう言ってタクシスは飾り棚からワインを取り出すと、グラスに注いでアルヘルムに渡した。
「忙しくなるぞ。夫人方の宣伝力は凄まじくてな。カフェに来ていない貴族や商会からも取引の打診が来ている」
「あぁ、急ぎ文官をクルーゲの元に派遣したよ」
「工房の方はどうだ」
「どの工房も増産に入っているよ。そう言えばお前の屋敷につけるシャンデリアの話がしたいとヴィドロが言っていたぞ」
「あぁ…そうか。後で話そう。それとひとつ相談なのだが」
「うん?」
「『瑠璃とクリスタル』をバルクでもやらないか?」
「ふむ…」
「メラニアが乗り気なんだ。帝国でこれだけの評判が良いのであれば、本国バルクに無いのはおかしいと言い出してな。まぁ…確かに帝国であれほど人気になるのであれば、出しても良いと思うんだ」
元々メラニアは、美術品に造詣が深く自身でも何人も有望な美術家を支援している。芝居も好きで大抵の公演の招待を受けるほどだ。そんなメラニアがソフィーと話が弾まないわけがない。帝国滞在中ソフィーと意気投合し自身でもカフェを手掛けたいと思うようになったのだ。
「それにミュラー男爵夫人と妙に話が合うらしく、バルクにカフェをつくるなら夫人を相談役として呼びたいようだ」
「『瑠璃とクリスタル』の影の立役者か…。良いのではないか。夫人は帝国での成功の実績がある。夫人の協力がなければ正直ここまでの反響はなかっただろう」
「そうだな。料理と給仕の教育以外は夫人の演出力と言っていい。しかし…給仕の人選といい芝居の演出といい、あれをすぐに思いつくのは凄いと思うよ」
すぐにではない。
給仕の人選にしても、子爵邸の内装にしてもソフィーが少女の頃から憧れ続けていた理想なのだ。
何度も何度も空想しスケッチブックに描きため、アメリー達と語り合った究極の理想。叶うはずのなかった理想が『瑠璃とクリスタル』で花開いたのである。
「王都で適当な屋敷を探させよう」
「メラニアに任せてもいいか?」
「あぁ、頼む」
「ところで、島の方はどうだ?」
「順調だよ。そうだ島の名前が決まったよ」
「ほぅ、なんて名だ」
「ペルレ島だ」
「真珠島か。良い名じゃないか。バルクの真珠…あの島を開発するきっかけも真珠だったからな」
「アデライーデは、自分の名が付くのを嫌がるからな。カフェの名も島の名も縁のあるものから名付けたよ」
「アデライーデ様らしいな。ところでアデライーデ様は今は何を?」
「離宮でのんびりしているんじゃないかな」
「まだ帝国での話はしてないのか」
「あぁ、今度訪ねて話そうと思う」
「ご自身が、帝国でもバルクでもこれ程話題になっているのは知らないのか」
タクシスは苦笑しながらワインを口にした。
どれもこれもアデライーデが言い出した事が発端にも関わらず、言い出した本人はその大きな成果を知らずにいるのがおかしくてたまらない。
「へっくしゅ!」
「まぁ…アデライーデ様。ストールもかけずにこのようなところでうたた寝などしてらしたら、お風邪を召しますよ!」
「ふぁい…」
離宮のベランダの寝椅子で本を読んでいて寝落ちをしたアデライーデは、マリアに叱られベッドに連行されていっていた。