172 帝国とメーアブルグ
「クルーゲ様、この屋敷と仮契約を結んでよろしかったのですか?」
「……、良かったと思っている。正直私では店舗の良し悪しがわからん」
ソフィーを家まで馬車で送り、暗くなってから商会に戻ってきたら副代行が一人だけクルーゲを待っていた。
今日店舗の仮契約を結んだと告げ、契約書を副代行に見せるとざっと目を通した副代行がクルーゲに聞いたのだった。
バルクから使者が来て、すぐにソフィーの身元を調べさせた。名前と住所からすぐに身元はわかった。男爵未亡人で今は亡き夫の屋敷に年をとった使用人数人と暮らすまだ若い未亡人だ。
交友関係を探らせたが、きれいなものだった。
旧姓シムソン。実家は騎士の家で当主の兄夫婦と母親。それに文官の兄がいた。かなり年上だった夫は元美術商をしていて昨年亡くなっていた。
それなりの資産を持ちまだ若い未亡人なら、浮いた話の1つや2つあるものだが、夫が存命の時に社交界に夫と共に出ていたが、亡くなった後は貴族としての公的な茶会や新年会に数度顔を出したくらいで貴族同士の付き合いは無かったようだ。
昔からの付き合いのある女友達と、芝居や美術展にはよく行っていると報告書にあった。
遊び好きの有閑マダムであれば理由をつけて助言を聞くのを断ろうと思っていたが、報告書から身持ちは固そうだという印象を受けた。
「買い取りの予算をかなり超えているのでは?」
「ああ、だが改装費も含めて考えるとそれほどでもない。正妃様のご要望を紹介屋に伝えたら、店舗を買って改装する方が高額になった」
貴族街で屋敷の売出しの数は少ない。
金に困ってタウンハウスを売ったなどと言われたくない貴族は多いのだ。
「そう考えると、良い買い物だったのかもしれないな。夫人の話では、変えるのは厨房とレストルームの設備と壁紙とカーテンくらいで大規模な改修はしなくても良いそうだからな」
仮契約書に念入りに目を通すと、クルーゲは明日朝一番で本契約の話をつけるように副代行に指示を出して、定宿に帰っていった。
「じゃ、アンチョビの出来を見てみましょうか」
アデライーデが仕込んだアンチョビは、オレンジ色の液体に浸っていた。
イワシを取り出して清潔な布で水気を拭き取り、容器にたまっていた液体を濾してガラスの瓶に移した。
水分を拭き取ったイワシを煮沸消毒した瓶に詰め、イワシが顔を出さないように食用油を注ぐ。ローリエと赤唐辛子と黒胡椒の粒を入れて出来上がりだ。
「これは1ヶ月程したらちょうどいい具合になると思うわ」
「ふた月でできるものなのですか?」
「本当は1年くらい寝かせた方が良いんだけど、試作だからそのくらいでいいわ。アンチョビは長く保存ができるから少しずつ使ってみましょうか」
アデライーデはオレンジ色の魚醤の入った瓶をグスタフに手渡すと、グスタフはくんくんと匂いを嗅いだ。
「そして、これが新しい魚醤よ」
「匂いがほとんどしませんでしたが…それに色も違いますが」
「以前のものは、内臓も入っていたようで黒っぽくなっていたけど、これは内臓も皮も骨もとってるし、漬けた時間も少ないから色が薄いわね。匂いも以前のものに比べるとかなり薄いわね」
グスタフは魚醤の瓶をマリアに手渡すと、マリアは少し匂いを嗅いでアメリーに手渡す。
「確かに独特の香りがしますわ」
「アメリー様、こんなものじゃありませんわよ!」
「そうです。あれに比べたらこれは臭いが無いと言ってもいいくらいですよ」
かなり臭いが薄いが無いわけではない。その証拠に初めて臭いを嗅いだアメリーは「独特の臭い」と表現した。
「そう言えば、使ってない魚醤がまだあったわね」
棚の奥にしまわれていた「1番濃いやつ」と言われていた魚醤と海老から作ったと言われていた魚醤の瓶を取り出し海老の魚醤の瓶を開けると、アメリーは何も言わなくなってしまった。
そして、濃いやつを開けるとアメリーとマリアはキッチンの壁際まで後退っていった。
「これ!これですよ。私が行ったところで見た魚醤です」
どうやらグスタフは1番濃い魚醤を作っていたところに行っていたようだ。
「これだと確かに美味しいらしいんだけど、臭いになれない料理人には手にとってもらえないと思うの。それでこのアンチョビからとれる魚醤の方を出す事にしようと思うの」
「その方がよろしいかと思いますわ」
「これでアルトに唐揚げを作ってもらうわ。後で試食しましょ」
「アンチョビは、どのように料理に使いますの」
「塩気が強くて魚の旨味がぎっしりだから、チーズパンとかポテトサラダなんかに少しだけ混ぜて使うと美味しいのよ。またひと月くらい経ったら試食しましょう。そう言えば、オイルサーディンの工房の話はどうなったの?」
「そちらは仮工房ができ、メーアブルグで女性を雇って生産を始めています」
昼間に手の空いている漁師の奥さんや娘さんに声をかけて、作り始めたらしい。魚の扱いに慣れているメーアブルグの女性は丁寧にオイルサーディンを作っているらしい。
「働かせるのは明るいうちだけにしてね。家の仕事もあるだろうし、必要なら託児所も作ってあげてね。託児所は私のお金を出してもいいわ」
孤児院のフライドポテトの屋台で子供を背負って働いていた女性を思い出して、アデライーデはグスタフにそうお願いした。
「託児所…。はい、早速そのように手配いたします」
グスタフは、魚醤の瓶にコルクの蓋を締めながらそう答えた。