155 芽吹き始めた技術とヴィドロ
「ちょっと、いいか?」
「ん?どうした」
「ガラス工房長が来てる。会えるまで待つと言ってな」
「……わかった。少し待ってもらってくれ」
離宮から帰って数日した午後にアルヘルムは、ヴィドロ工房長の突然の訪問をうけた。
アデライーデから「きれいなガラス」のことを聞き、王宮に戻ってすぐに工房長宛に「酸化鉛を3割混ぜたガラスでワイングラスを作ってくれ」と手紙を使者に持たせていたのだ。
「ヴィドロ、待たせたな」
「突然の訪問をお許し下さりありがとうございます」
タクシスを伴って小謁見室に入ると、少し薄くなった髪を短く切り赤ら顔のガラス工房長がそこに居た。年中火の前にいる顔の赤みは火の前を離れても薄くはならないらしい。ヴィドロは落ち着かない様子で2人を迎えた。
この小謁見室は主に商人や職人、庶民の代表者が王と謁見する為に使われる小部屋で、木製の飾り気のないテーブルがあるだけの装飾のないシンプルな部屋だ。
「何用だ」
「こちらをご覧ください。先日ご指示のあった酸化鉛を混ぜたガラスでございます」
タクシスが尋ねるとヴィドロはソファの横に置いた大きな鞄から箱を取り出し、テーブルの上に黒い布を広げると5枚の細長いクッキーのようなサイズの板ガラスを並べた。
「こちらは従来のガラスで、こちらから酸化鉛1割、1割5分、2割、2割5分…。仰せの3割はこちらでございます」
並べられた5枚のガラス板は酸化鉛の含有量が増える毎に透明度が増していった。
そして最後に工房長が取り出した1枚はまるで何も手にとっていないかのような透明度であった。従来のガラスと比べるとその差は歴然としている。
「こちらは同じ配合のもので丸く作り、磨いたものです」
そう言ってヴィドロは幼児の拳程の大きさの少し歪なガラス球を取り出し、それぞれの板ガラスの横に置いていく。
霧が少なくなるように段々と透明になっていくガラス球。
「これは…」
まるで澄んだ水を丸めたようなガラス球にアルヘルムとタクシスは言葉が出なかった。ここまで透明になるとは思ってなかったのだ。
ガラス球を手にとり透かして見ても、一点の曇りもない透明さがそこにあった。バルクの宝物殿にある玻璃の宝玉と比べても遜色がない。
タクシスもガラス板を手に取り無言でそれを見つめている。
3人とも何も言わないが、これがどれだけの価値になるかだけはわかる。
「陛下。大変申し訳ございません。私の技術が足らず仰せのワイングラスは満足のいくものが作れませんでした。今は板とこの様に丸めたものだけでございます」
そう言ってヴィドロはアルヘルムに詫びた。
ヴィドロはこのバルクで屈指のガラス職人だ。ヴィドロの父親も腕の良いガラス職人で先王の指示で板ガラスの質を上げ輸出量を増やした功労者の1人だった。その父親の元で修行をしたヴィドロは今バルクで1番のガラス職人と言われている。
そのヴィドロですらこのガラスを扱うのは難しかった。
「陛下……。ガラス職人としてお聞きしてもよろしいでしょうか。この事をどこからお知りになられたのですか?」
「…………それは言えぬ」
詮索しすぎている事は十分承知していたが、それでもヴィドロはアルヘルムに尋ねずにはいられなかった。色ガラスもだが透明度のあるガラスを作る為に今までどれだけ試行錯誤を繰り返してきたことか…。
それなのに、ある日王から伝えられた事であっさりと出来てしまった事に職人としては納得がいってなかった。
そしてあっさりと出来てしまったこのガラスが、今まで扱ってきたどのガラスより扱いにくく、グラスどころかなに1つ満足いくものが作れない事に、悔しさを覚えていた。
「出過ぎたことをお尋ねしました…どうかお許しを。しかし、これは大発見です…このようなガラスは今まで見た事も聞いたこともありません。こちらをご覧ください」
ヴィドロが懐から取り出した革の小袋から、細石ガラスを布の上に広げると窓から入る光にキラキラと輝く。
「宝石のようでございましょう。磨く前からこの様に輝いてます」
--これか…アデライーデが言っていた宝飾用のガラスと言うのは…
「この事を知る者はお前の他に誰がいる?」
「私と息子のヴィダだけでございます」
「この事は秘匿とせよ。口外を禁ずる」
「御意」
「それからお前の工房を王のガラス工房とする。このガラスを作る工房をすぐに直轄地の中に造るから準備せよ。信頼のおける職人を選び必要なものは言え、用意させよう」
「承知しました」
それではと、ガラスを残しヴィドロは小謁見室から下がって行った。
「これか…アデライーデ様がおっしゃっていた宝飾用のガラスと言うのは」
「あぁ、そうだと思う」
「これ…とんでもないことになるぞ」
「あぁ。炭酸水どころではなくなるな…」
「工房をどこに作るつもりだ」
「メーアブルグの端の廃村があっただろう。あそこに作らせ警備の兵を置くように手配してくれ。あと口の硬い宝飾職人を呼んでくれ。これを加工させる」
「わかった、早速手配しよう。しかし…」
「しかし?」
「とんでもないのは、アデライーデ様だな。なぜこんな事を知っていたんだ?」
「本で読んだらしいのだ」
「本で?しかし帝国でもこんなものはないぞ。帝国が知っていれば真っ先に生産させるだろう?」
「帝国の図書室で古いノートの様なものを見たらしい。帝国は征服した国の本や技術書を接収するからな。その中に紛れていたものを目にして覚えていたようだ」
あちこちで新しい技術の芽は芽吹くが、それがすべて世に出るわけではない。技術が安定して発展するには平和と言う大地が必要なのだ。
そして王や貴族が技術者や職人を保護し技術研究を進めさせる。それが出来なければその技術は花咲かず終わってゆく。このガラスもそう言った類のものとアルヘルムは思っていたのだ。
「そうか…。港の建設と同時にガラスの事は進めさせる」
タクシスはそう言うと、部下に手配させるために小謁見室を出ていった。