148 湖畔の食事と前触れ
離宮の書斎の机の上に両肘を立て両手を口元で組んで、ジッと1点を見つめるアルヘルムの額にじわりと汗が滲む。
今日は今夏、最高に暑い日だった…。
やっとの思いで仕事に区切りをつけたが、いつもより長く離宮に顔を出せなかった。帝国から来る高位貴族の使者の対応と日常実務と社交で目が回るほど忙しかったが、そのかいあって、この夏のアリシア商会の売上は去年のバルク国の輸出額の半分に迫ろうとしていた。
そして純利は去年の10倍以上…、高級品として出しているが炭酸水の原価は0なのだから驚くように商会の金庫に金貨が貯まってゆく。この商機を逃すまいとアルヘルムはタクシスと頑張ったのだ。
出荷にまつわる用品の需要もあり、王都でも経済が回りそれに伴う税収も上がってきている。
そのせいで手紙もなかなか出せなかったので、ナッサウに王宮の庭園の季節の盛りの花を定期的にアデライーデに贈るようにしてもらっていた。
レナードの報告書に「とても喜んでいらっしゃいます。散り際には、花びらを湯船に入れて楽しんでいるようでございます」とあり、自分が贈った花をそこまでして慈しんでくれるのに表情が緩み、タクシスに気持ち悪がられたが気にせずにいた。
結局前回と同じくタクシスと同伴で離宮に来るハメになったが、今の状況では仕方がない。なにせバルク建国以来初めての好景気なのだ。今後の事も含めて色々決めなければならない事は多く、タクシスも同伴に頷いた。
タクシスも口では渋々と言うが、離宮に行くのは嫌ではないようで必要な書類を手早く纏めている。
昼少し前に離宮に着くとアデライーデはにこやかに2人を迎え、少し早いのですが…と試食を兼ねた食事をしようと湖畔のテントに誘われた。
テーブルの上には、夏野菜を使ったサラダが並べられコロッケやソーセージドッグ、魚醤を使った唐揚げや塩唐揚げ、ドーナツと次々にガーデン用のフライヤーでアルトが手際よく作ってゆく。
それぞれ出される度にアデライーデが、料理の説明をしてくれるのだが、どれも素材自体は庶民でも手に入りやすいものであるが目新しいメニューである。
専用のキッチンを造ったお陰で、新しく出てくるメニューの量が増えてるのだろうとアルヘルム達は思っているようだが、陽子さんにしてみれば手に入りやすい素材で作れるものを思い出しているだけである。
試食を満喫し、湖畔の涼しい風が入るテントの中で甘さを抑えたレモネードを飲んでいた時に、孤児院へフイッシュアンドチップスを含めたこれらのレシピを教えてもいいかとアデライーデが2人に尋ねてきた。
「これらのレシピをですか?またなぜでしょうか」
貴重なレシピを教える事にタクシスは難色を示しながら尋ねる。
「フライヤーをフライドポテトだけで使うのは、もったいないじゃないですか」
「もったいない…」
道具は専用で使うというのが貴族の考えだ。使う用途にあわせ、それ専用の物を沢山持っているのは貴族のステータスである。フライヤーもフライドポテト専用調理器具としてバルクの国内で順調に売上を出してきていた。
「メーアブルグでは、手軽にお魚が手に入るのですからそれを使って作れるものを売れば、孤児院の収入も増えますしお魚が売れれば漁師さんたちも喜びますわ。それにフライヤーを買ってくれた方々も作れるメニューが増えるのなら喜ぶと思いますわよ」
前世でも、スチームオーブンや電子レンジを買ったときにはレシピ冊子が付いてきた。全部作ったわけではないがその中のレシピのいくつかは、陽子さんちの定番メニューになったものもある。
「つまり、フライヤーを売る時にレシピを付ける…と言うことでしょうか」
「ええ、いくつかレシピを載せた小冊子を付けると良いかなと思います。お料理の幅が広がりますわ。それに買ったところでレシピをアレンジすればもっと作れるメニューも増えるでしょうし」
「………」
タクシスは、すぐに返事ができなかった。
貴重なレシピを付けるとあれば、フライヤーは今より確かに売れるだろう。しかし貴重なレシピを公開してしまえば価値は無くなってしまうからだ。
「貴女は、それで良いのかい」
「陛下!」
「ええ、構いませんわ。レシピって秘密にしていても食べたら同じ味を作れる人はいますもの」
陽子さんは知っている。
某有名フライドチキン店のビスケットや、某ファミレスのソースをレシピを見ずに舌だけで再現している主婦達がいる事を。彼女達は日々試行錯誤を繰り返し限りなくオリジナルに近い味を生み出している。
陽子さんが作ったコーラのレシピも、再現レシピの1つなのだから。
「わかった。しかし公開するレシピは私が選んでも良いかな」
「ありがとうございます!ええ、選定はお任せしますわ」
「孤児院には、アデライーデが教えたいレシピを教えてもいいと思うよ。でも、他には教えないように約束してもらえるならね」
「ええ、お願いしておきます」
「!……」
アルヘルムが快く同意してくれた事にホッとしたアデライーデは、レシピを書き溜めているマリアに後で清書を頼まなくてはと、心を踊らせていた。
アデライーデが手洗いに中座した時に、タクシスがアルヘルムに本当に良いのかと確認した。
「良いんだよ。元々アデライーデのレシピだ」
「確かにそうだが…」
「炭酸水で、今年バルクは莫大な利益を得ている。炭酸水の余波で税収も上がった。そのくらいは彼女の望むようにしてやりたいんだ」
「わかった。好きにすればいいさ」
そういってタクシスはレモネードを一口、口にする。
アルヘルムまでそう言うなら、自分が止めることはできない。止めたところでアデライーデは、貴重なレシピをなんとしても教えようとするだろうなと、自然と笑いがこみ上げてくる。
「ん?」
「いや、アデライーデ様らしいなと思ってさ」
「あぁ、そうだな」
アルヘルムもレモネードを口にしながら笑った。アデライーデが輿入れしなければ、アルヘルムはこの炭酸水を思い出すこともなかっただろう。忘れられていた炭酸水が今バルクに多大な富をもたらしている。
「まるでアデライーデのようだ」
ぼそりと呟いた呟きは、湖上からの風にかき消されタクシスの耳には入らなかった。