138 メゾンとマリアの画策
アルヘルムが離宮に泊まった翌朝、朝食を済ませたアルヘルムは、レナードと書斎に来ていた。
この数カ月の離宮の収支を記した台帳に目を通す為だ。
「本当に、お忍び用の服しか仕立ててないのだな」
「はい、離宮にいらっしゃってからはお輿入れの時のドレスをお召しになっていらっしゃいましたが、最近は暑いからとお忍び用の庶民の服を愛用されております」
ドレスは下にコルセットを付けるために夏は暑い。夏の夜会が日没から始まるのはクーラーが無いため少しでも涼をとるためでもある
日本の湿度の高い夏に比べ、バルクの夏はヨーロッパのようなカラリとした気候だがやっぱり夏は暑い。
自宅用のドレスはコルセットを省くが、庶民の服に比べたら暑いので、最近アデライーデはもっぱら庶民の服を愛用している。前世の夏の自宅ではゆったりティーシャツに某メーカーのステテコを愛用していたが、この世界ではそれは下着姿になるのでできないのだ。
レナードの報告を聞きながら台帳から顔を上げ、ため息をついた。
使用人が増えたため以前より全体の経費は増えているが、アデライーデに関する費用が全く使われていない。
使われているのは、持参したドレスの手入れに使う僅かな薬品と、メイドたちの為にと王都や帝国から取り寄せている流行りの恋愛小説や、庭師達が庭園に植えたいと願った帝国の花の苗のお取り寄せ代金くらいだ。
いくら社交をしないと言っても、あまりに少ない。
使者の旅費を除けば、子供のお小遣いレベルだ。
もう一冊の台帳を開くと、アデライーデがマデルたちに依頼した品の試作代と製品の支払いや孤児院の細々した購入品の支払いが記帳されていた。
こちらはアデライーデの個人資産の支払い台帳だが、貴婦人の必要経費のドレスや装飾品、化粧品の記載は全く無く、まるで商会の支払い台帳のようだった。
確かにテレサには、婚約時代や今でも大きな晩餐会や国賓の客が来たときなど折に触れ王妃として相応しいドレスや宝飾品を贈った。
アデライーデが輿入れしていた時に着ていたドレスは、全て帝国で仕立てた物だ。最初に会った時もその後貴族達から初見の挨拶を受けた時も、アデライーデが着ていたドレスはバルクで仕立てるより遥かに洗練された帝国のドレスだった。
バルクのドレスで満足してくれるのかと、少し気後れした自分がいた事は否めない。
アデライーデを知れば、昨日の「必要ない、着ていく先がない」と言うのは野暮ったいドレスを着たくなくて体よく断っていたのではなく、本当に必要ないのだろうと言う事はわかる。
そして、何を贈るより孤児院を贈る方がアデライーデが喜ぶはずだと思って建てさせたら、思っていた以上に喜んでくれ大変感謝された。
昨日の夜もタクシスを帰したあと、2人でグラスを傾けながらこれからの孤児院での教育の事や独立後の問題点なんかを遅くまで話して大いに盛り上がったのだ。
アデライーデがドレスを必要としていないのはわかっている。わかってはいるが…
「ドレスを贈らないのも問題でございますが…、ドレスを仕立てていなかったのに気が付かなかった…と言うのが夫として問題なのですよ」
「う……」
何年ぶりかのレナードのお小言をアルヘルムは神妙に聞く。
「報告書は出しておりましたが…」
「読んでいた」
それも結構楽しみに見ていたが…
「購入品は理解しているぞ」
アデライーデの個人資産の支払い台帳の中身は把握している。何を造らせたかもだ。
レナードは小さくため息をついた…。鍋釜の購入を覚えていてどうするのだ。そんなものより貴婦人が喜ぶものを贈るべきだろうと思うが、アデライーデならそちらを喜ぶかもしれないとちらりと思ったが、すぐにその考えは押しつぶした。
「貴婦人としてのお買い物は、お子様たちへの贈り物のお洋服代くらいなものでございましょう? 後はどこの商会の支払い台帳かと思う程でございます」
アルヘルムは返す言葉も無かった。
レナードの言うとおりだ。アデライーデの支払った金額はそのままアリシア商会の支払いに付け替えるようにレナードに頼むとアルヘルムはレナードに聞いてみた。
「…アデライーデにドレスを贈りたいのだが、彼女の好みはわかるか?」
「残念ながら存じ上げません。アデライーデ様は1度もドレスの好みを口にされた事はございませんので…。しかし、アデライーデ様付きのマリア殿であればご存知かと」
レナードにアデライーデに気付かれないようにマリアを書斎に呼ぶように頼むと、マリアはしばらくして書斎にやってきた。
「お呼びと伺いまして…」
マリアがそう言って淑女の挨拶をすると、アルヘルムはすぐに顔を上げることを許した。
「尋ねたい事がある。アデライーデのドレスの好みを教えてほしい」
「アデライーデ様のお好み…でしょうか?」
「あぁ、君なら彼女の好みを知っていると思うのだが」
「アデライーデ様にドレスのお好みはございません。私がお選びしたものをお召しになります。お選びした物を嫌だと言われたことはありませんし、私がお仕えしてからドレスを作られた事はございません」
「好みがない…」
初手から詰んだ。
頼りにしていたマリアは、アデライーデはドレスの好みはないと言う。
「でも、マダム・シュナイダーがバルクにメゾンを持ったと聞きます。マダムにご相談されては如何でしょうか。マダムはグランドール様や皇帝陛下からアデライーデ様に贈られたドレスをお作りになってます。きっとアデライーデ様がお気に召すドレスを仕立てていただけると思いますが…」
「あのマダムか…」
アルヘルムは、アデライーデの婚礼衣装の調整にと挨拶をした小柄な老女を思い出した。そう言えばアデライーデと結婚した後、子供たちにアデライーデからの贈り物だと服を仕立てにやってきていた。
その時にテレサもテレサ付きの女官もドレスを頼んでいたはずだ。
王族のドレスや礼服を仕立てるには、各国共通の暗黙のルールがある。それは王族は自国のメゾンを持つデザイナーに頼むことだ。
「マダムはバルクにメゾンを持っているのか?」
「はい。こちらでもメゾンを持たれたと聞いております。バルクでは子供服がメインのはずですが、マダムは帝国御用達のメゾンのオーナーでございました」
「ならば問題ないな。レナード、マダムにドレスの依頼を」
「承知致しました」
「マリア、これからアデライーデが気にいるようなもの…ドレスや宝飾品だけでなく、化粧品や香水…何でもいい気に入ったものがあるのならすべて私に報告してくれ。贈り物にしたいのだ」
「承知致しました」
書斎から辞して、一人廊下に出るとマリアは頬が緩むのを抑えられず、にんまりとした。
これで思い切りアデライーデを着飾らせる事ができる!帝国ではなかったがドレスを仕立てるのなら、今度はそのドレスのお披露目に夜会にでも誘うようにアルヘルムに進言してみようとマリアは画策していた。