126 職人と独立
「コーエン、菜箸をありがとう。おかげで卵焼きをちゃんと作れたわ」
試食が終わり、アルト達が菜箸の追加注文をしたのをみてから、アデライーデ達とコーエンは広間に移動した。
「お気に召していただけて良かったです」
コーエンは勧められたソファに座ると、鞄からそろばんが入った木箱を取り出しアデライーデの前に置いた。
「こちらが今回の試作となります」
木箱から試作のそろばんを取り出すとアデライーデはパチパチと計算を始めた。
珠が以前のように跳ね返らない。きちんと止まるようになっていた。
「素晴らしいわ。ちゃんと止まるわ」
「ありがとうございます」
コーエンは、アデライーデの手元を見て思う通りの動きをする珠に、ホッとした笑顔をこぼした。
「このそろばんを纏まった数で注文してもいいかしら?もちろん納期は急がせないわ」
「纏まった数と申しますと、どのくらいでしょうか?」
「とりあえず10台。王宮に納めて欲しいの。その後は少しずつ注文があると思うわ」
「王宮に…でございますか。しかし、私もですが師匠の工房も王宮御用達の許可を持っておりません」
王宮に商品を納めるには、審査がある。
既に王宮御用達の資格を持つ工房か商会の推薦と、納品先の部門の推薦だ。その2つの推薦があって宰相からの許可が降りれば王宮御用達工房や商会となるのだ。
「それなら、離宮に納めてくれる?私から王宮へ贈るわ」
「それであれば、おまかせ下さい。ただそろばん製作は私1人しか携わっておりませんので1月ほどお時間を頂きたく思います」
「ありがとう。無理しないでね。王宮へ納品したらそれとは別に10台欲しいの。孤児院で子供達に教えるのに使うから」
「承知致しました」
「あと…特大のそろばんが1台欲しいのだけど…」
「特大…?」
「子供たちに教えるのに、見やすいようにこのくらいの大きさの…」
昔、小学校でそろばんの授業の時に、教卓で先生が使っていた大きなそろばんが欲しかったのだ。
コーエンはアデライーデの要望をメモに取り、暇の挨拶をして待たせていた馬車に乗った。
王都の端の工房につくと、師匠がノミの手入れをしながらコーエンを一人待っていた。
兄弟子達は、既に仕事を終えて工房には師匠しかいなかった。
「ただいま戻りました」
「おう、どうだった」
「お気に召していただけたようで、菜箸もそろばんも今回の試作が完成品となりました。箸はお渡しして後日またお伺いする予定ですが」
「そうか」
「それで、追加の注文を受けてきました」
「ほぅ」
師匠はノミを研ぎながら、離宮での経緯を黙って聞いていた。
研ぎが終わり、道具をしまうと工房の端の棚から蜂蜜酒を取ってきて、木のコップをコーエンの前において並々と注ぐと飲めという。
師匠は自分にも蜂蜜酒を注いでパイプを取り出し、火を付けて深くタバコを吸うとコーエンに言った。
「お前、この仕事で独立しろ」
「はっ?」
師匠の突然の言葉に蜂蜜酒を落としそうになり、コーエンは慌ててコップをテーブルに置いた。
「な…、なんでですか。自分はまだやっと1人前になったばかりで」
「1人前をこれ以上雇ってられんからな」
師匠はそう言うと、蜂蜜酒をぐびりと飲んだ。
「それに独立するなら兄弟子の皆さんが先では?」
コーエンの上には、師匠の娘さんと結婚した工房の跡継ぎの兄弟子の他に3人の兄弟子がいる。自分は1番年若なのだ。
順番から言えば、3人の兄弟子達が先だろう。
「工房を持つのに腕以外で、必要なことはなんだと思う」
「腕以外…ですか?」
「そうだ。腕以外だ」
コーエンは考え込んでしまった。自分はこの工房でずっと働いて独立しようなど考えた事はなかったからだ。
「工房を持つには、腕だけじゃやっていけねぇ」
そう師匠が言うと、パイプを燻らせた。
「客と色んな事をちゃんと話せなきゃなんねぇ。お前は今回正妃様相手にちゃんとそれをやってご希望のものを作り、王宮への納品を断り納期の事もちゃんと交渉してきたじゃねぇか」
「………」
「一流の職人と言うだけじゃ、難しいんだ」
親方は、パイプの煙を吹き出すとポツポツと話しだした。
「職人とは、因果な生き物でな。良いものを作る為に利益を度外視したり納得のいくものを作る為に納期が伸びがちだ。一流の職人とは往々にしてそういうもんだが、工房を持つとなると話は違う。交渉をし仕事をとってきて決められた納期を守り、弟子を育てて食わせていかにゃならん」
「弟子って…まだ」
「お前はできるさ。お前は他の奴らと違って、人を育てられる器量がある」
工房には預かり弟子という制度がある。
他の工房の跡取り息子を預かって、基礎を叩き込んで実家の工房に返すという制度だ。
師匠の工房にも何人も来た。中堅になってからコーエンは預かり弟子の世話役としてずっとやって来た。本来、3人の兄弟子達の役目だが人に教えるのは苦手だと早々にコーエンに押し付けられてしまったのだ。
「しかし…」
「他の奴らは職人としてはそこそこだが、人を育てられねぇ。それが悪いわけじゃねぇが、工房を持てとは言えねぇよ。お前は預かり弟子達の兄弟子になる。工房を持つなら、工房同士横のつながりも必要だ」
「……」
「それにな、お前は計算もできるじゃねえか。女房や娘の手伝いもやっていたろう?」
この工房の営業と帳簿は師匠の奥様と娘さんがやっている。工房同士の仕事は師匠が仕切るが、貴族や裕福な奥様達の注文のほとんどは奥様達がとってきているのだ。
コーエンは、営業に忙しくなり奥様達の手が回らない時に帳簿付けを手伝っていた。
「女房も娘もお前を褒めていたぞ。字もきれいだし計算に間違いがねぇ丁寧な仕事をしていたって」
コーエンの頬が赤くなる。
自分はただ言われたから手伝っていただけだった。だが仕入れ値と売値を知ったのも帳簿付けの手伝いからだった。
「女房達もお前が工房を持つ事を賛成している」
「え…」
「お前が嫁を迎えたら嫁を連れてこい。女房達が得意先を紹介すると言っている」
「師匠…」
声を殺して泣くコーエンを見ながら師匠は黙って蜂蜜酒をコーエンのコップに注いた。
――お前があと5年早く弟子入りしていたらな…。
娘婿に不満はない。娘との夫婦仲もよく職人としての腕もいい。ただ、コーエンを惜しいと思っていた。
職人としての腕だけでなく工房を持てる力量も持っているがこの工房は継がせられない。
いずれ時期をみて独立させようと思っていたらスタンリー棟梁からの話が来てコーエンは立派に依頼をやり遂げさらに仕事もとってきた。コーエンが独立するには良い潮目だ。
――まぁ、弟子である事に変わりないしな
師匠は誰にも言えない思いをパイプの煙とともに吐き出した。
後日、コーエンはレナードに願い出て村に一軒の家を借りた。昔大工が住んでいたと言うその家は、一階が広い工房で建具を持ち出しやすいように大きな観音開きのドアがついていた。1人で暮らすには少し広いが、材木を置くには丁度いい。
工房とキッチンとトイレを丁寧に掃除し、バスルームと寝室はそれなりに掃除をして外に出るとお昼が近かった。
午後には材木が運ばれてくる。
コーエンは工房の入り口に「指物工房 コーエン」と小さな看板をかけて村の食堂に出かけていった。