109 階段とすべり台
「今回の役目は終わったな」
アルヘルムは離宮に戻ってくるなり、そう言って居間のソファに伸びをして座った。
離宮の兵力の確認。それが終わったと安堵しているのであろう。
アデライーデがアルヘルムの隣に座ると、アルヘルムはにこにこしてアデライーデに話しかけた。
「また、面白いものを頼んだんだって?」
「面白いもの?」
「そろばんとか言うものだよ。何でも計算に使うって聞いたよ」
いたずらっ子が友達の秘密を嗅ぎつけたかのような顔をして、笑っている。大工の棟梁はどんな風に使うか全くわからないがと、アデライーデから渡された絵を書き写してアルヘルムに報告したと言う。
タクシスと二人で見ても、どのように使うか全くわからなかったようだ。棟梁から絵を渡された指物師も、絵を見て作れることは作れるが何に使うかさっぱり判らず首をひねりながら作っているという。
それはそうだ…。そろばんがあった世界の薫たちも小学校の授業で習うまで全くそろばんを知らなかった。電卓はあってもそろばんがある家は大分少なくなっていた。異世界のアルヘルム達には想像もつかないだろう。
「計算を助けてくれる道具ですわ」
どんな風にと聞かれても、口で説明はしにくい。そろばんが出来上がってきたときに実演しますと言うとアルヘルムはそれは…楽しみだなと喜んでいた。
軽い昼食が済み、アルヘルムは東屋の寝椅子に横になってアデライーデの書いた孤児院の見取り図を見ていた。
アルトと夕食の打ち合わせをして、少し遅れてアデライーデが東屋に入ると、アルヘルムはアデライーデを抱き寄せ頬にキスをする。
--う…慣れないわ。ヨーロッパに行った時もだったけど、挨拶にキスはいらないと思うわ。
根っから日本人な陽子さんはそう思いながら頬を赤らめる。
アルヘルムはそんなアデライーデを可愛いと思うのか、くすりと笑いアデライーデの書いた孤児院の見取り図を差し出した。
「聞きたいことがあるんだ」
「はい…」
「この非常階段と非常用すべり台ってなんだい?」
「へ?」
「あと、内側から出られるけど外から入れない扉って…何かのなぞなぞ?」
これは…
どこから説明すべきか…
前世の常識は今世の非常識と言うか…まず概念が無いわよね。
陽子さんは、見取り図に薫達が通っていた幼稚園の建物の非常階段とすべり台を参考に見取り図を書いていた。
棟梁は初めて見取り図を見た時から、とても気になっていたが仮にも大工の棟梁。当たり前のように言うアデライーデにこれは何かと聞けなかったらしい。アルヘルム達に見取り図の写しを渡したときにこれは何かと聞かれ、実は私にもわからないのでアルヘルム様から聞いてほしいと頼まれていたのだ。
「あの…火事になったらどうなりますか?」
「どうって…」
「一階は窓やドアから出られますが、二階の方はどうするのでしょう?」
「男性は…二階なら飛び降りるかな…女性や子どもは、はしごを持ってきて誰かが助ける」
「その時、外に誰もいなかったら?」
「……そうだね。誰もいないと助けられないね」
「火が出やすいのはキッチンと、暖炉のあるリビングですから二階には2ヶ所逃げられる場所をつくるといいと思います。子どもは怖がると足がすくむし逃げるのが遅いのですべり台を滑らせて避難させるのですわ」
「ふむ…」
城には不寝番が居て寝ずに城を見回るので、仮に火が出てもボヤ程度で済む。そもそも火を出さないのが大前提なのだ。
確かに孤児院ではそう言う不寝番とかはいない。せいぜい寝る前に火の元を確認する程度。過去城下町で大火になった時も、家から出られずに大勢の死人が出たなとアルヘルムは考えていた。
「最悪、すべり台の上から突き落としても下に砂場を作っていれば怪我は少なくて済みます」
「突き…落と… まぁそう言う事がないのが一番だけどね」
「ええ、月に一度くらい避難訓練をするつもりですわ」
にっこり笑うアデライーデに、アルヘルムは呆気にとられていた。子どもの安全を考えていると思えば、いざとなれば突き落とすなどと淑女らしからぬことをさらっと言う。
「それに普段はすべり台として遊具に使っていれば良いですしね」
「あ…あぁ、そうだね」
あっけらかんと言うアデライーデに、そもそもすべり台とは何かをアルヘルムは聞けないでいた。自分が知る子どもの遊具はブランコしかなく絵の形と話から滑るものだとわかるが、いまいちピンとこない。
--出来てから聞いてもいいかな…
気を取り直して、内側から出られるけど外から入れない扉の事を聞いてみた。
「だって、外から知らない人に入られたら困るでしょう?でも中からは子どもでも出られないと逃げられないですわ」
「確かにそうだが、どうやって?」
「え?外にドアノブをつけなければ良いのですわ」
「………………ぷっ。確かに!」
確かにそうだ。ドアノブが無ければ扉は開けられない。こんな簡単な事なのにと、アルヘルムは見取り図をもって大笑いをした。
「貴女は面白い事を考えるんだね」
「そうですか?」
「あぁ」
孤児院と言えば、広いホールがあれば良いと思っていたアルヘルムは面白い事を考えるものだと見取り図を見ていたのだ。
「孤児院は子供たちの家ですから、できるだけ安全な家を作れたら良いと思うのです」
「安全な家か…」
建物を建てる時に重要なのは、その外観と内装だ。
持ち主の財力や権力を誇る象徴の建物は、時に生活する利便性を無視して建てられることが多い。アデライーデの言う安全性は今まで考えられる事が無かった事だ。
孤児院も「収容する」と言う目的のために1番効率の良い広いホールがあれば良いと考えられてきた。家と言う考えはそこに無い。
「良いんじゃないかな、棟梁にもその辺を話しておくよ」
アルヘルムはアデライーデに任せれば、面白い建物を作るのではないかと思うのと同時に、これからどのような変わった事をしだすのか楽しみになってきた。