10 王宮大書庫と文官
マリアと騎士に天井までの大きな扉を開けてもらい、王宮大書庫室に入ったアデライーデは目を見張った。
書庫と言っても小学校の体育館のような広さのある大書庫には、高い天井まで壁一面に本が詰まっていた。天井の中央には2列に並んだ灯り取りの天窓がいくつか開けられている。
キャットウオークのように中二階がぐるりと配置され、所々に上段の本を取るためにはしごがかかり大きな窓には本の日焼けを防ぐためにレースのカーテンが掛かっている。
広い室内の床には、湿気を防ぐためか30センチほどの足のついた2メートルくらいの高さの書架がいくつも並べられその棚の端には文字の付いた小さな垂れ旗が下がっている。
色で分野を分けているのか、入ってすぐの書架の垂れ旗は朱色で奥の方の書架の垂れ旗は黄色だった。
たくさんの本の匂い。時を超えて人に知識や娯楽を与えてきた本の匂いだ。
今はお天気もよくほとんど風もないので窓もカーテンも開けられている。大書庫室前の庭のからの若葉の香りと混ざりなんとも落ち着く雰囲気となる。
それは、王宮の大書庫の名に恥じない素晴らしい光景だった。
アデライーデは中に入り、壁を見上げてぐるりと見回す。
陽子さんは、小中高と学校では図書委員をしていたくらいに本好きなのだ。
素敵だわ!写真集でみた海外の昔の図書館そのままだわ。
なんてたくさんの本なの!それに革表紙の本なんて初めて触るわ!
ぐるりと大書庫を見回したあと、ドキドキしながら一番近い書庫の革表紙の本に触れていると後ろから声がかかった。
「これはこれは、我らが王宮大書庫にようこそおいで下さいました。アデライーデ様」
振り向くと白髪に白く長いヒゲの老人がいてこちらを向いてにこにこしている。
アデライーデは、その老人を見つけると流れるような所作で美しい淑女の挨拶をした。
所謂、カーテシィだ。
驚いたのは陽子さんだ。
日本人として真行草のおじぎくらいは理解しているが一度として淑女の挨拶なんかしたことがない。
それなのに、ごく自然に淑女の挨拶をしたのはきっとアデライーデの体が覚えているのだろうと考えた。
条件反射で自然な動きができるなんて、きちんとした教育だったのね。
「いやいや、堅苦しい挨拶は抜きでお願いできますかな。この年になりますとどうも堅苦しいのは苦手になりましてな」
わかるわー。貴方ほどじゃないけど私もその気持ちよくわかるわ。
陽子さんは本好きという共通項以外でも話が合いそうだと一人激しく同意していた。
ほっほっほっと笑いながらアデライーデに近づくと、軽く胸に手を当て
「この老いぼれは、グリフォン・カレンベルク。大書庫室の長をやらされておりますのじゃ。どうぞグリフォンとお呼びくだされ」と挨拶をした。
「アデライーデと申します。本日はこの大書庫に入る許可をいただきましてありがとうございます」
「何を言われる。読んでもらってこその本。どうぞ好きな時に好きなだけお使いください」
そう言うと、死にかけなのにこき使われているからと笑いながら大書庫室を、出ていった。
アデライーデは垂れ旗の項目を見つつ帝国の地図と風土を書いた本を数冊選んで書庫内のあちこちにある一人がけのソファの1つに陣取った。
椅子の隣には本を置いたりメモをとったりするのに丁度いいサイズのサイドテーブルがある。気の利くことにメモ用紙と筆記用具も添えられている。
早速、持ってきた地図や風土記を読み、必要なことをせっせとメモに書き留めていた。
そんなアデライーデを書架の棚の陰から爛々と見つめるたくさんの目が…
アデライーデは、そんなことに全く気が付かず本を読み込んでいる。
「こらっ!いい加減に仕事に戻らんか!」
入室からずっとアデライーデを見つめていた者たちに静かに叱責が飛ぶ。
アデライーデを棚の影から見つめていたのは約20名ほどであろうか、みなここ王宮大書庫勤めの者たちだ。
仕事もそっちのけで棚と同化して、本を読むアデライーデをうっとりと眺めていた。
いつもはこの王宮の中で1番静かな場所なのだが、今朝は朝から蜂の巣を突いたように騒がしかった。
この大書庫に皇女様がやって来るのだ。
大書庫始まって以来の事である。
皇帝陛下や皇太子殿下が禁書や保管している持ち出し禁止の外国との密約の書状を見に来ることはある。
各大臣の書記官達もやって来る。
しかし、皇女様たちは未だやってきたことがない。
大抵は皇女様たちの侍女や女官が仕える皇女達の好みのものを見繕って借りていくのである。
しかし今朝、そんな大書庫にマリアがここにアデライーデが来るからと先触れを出してきた。
掃除だぁ! 手に取る本に埃が積もって失礼があっていけない。
換気だぁ! 空気が淀んで咳でもしたらいけない。
整理整頓・分類には自信があるが、掃除や換気にはちょっぴり自信が無い。
文官達は大慌てで掃除と換気をし、ガーディナー達に間引きされたミントをもらいに走った。
分けてもらったミントを手分けして大書庫の窓の外にばら撒きタップダンスをするように踏みしめる。前世の消臭剤のようなものだ。
踏まれたミントは風に乗って大書庫の中の空気を清めた。
タップダンスが終わる頃、大書庫前でアデライーデ達が来るのを見つけたら知らせる様に配置されていた文官が転がるように大書庫に入ってきた。
「いらっしゃいました!」
その声を聞いて文官達は気づく。
どうやって出迎えたらいいのかと。
陛下や殿下の時は、大事な本を抱えていることもあるのだからと道を開けて軽い黙礼にしておくようにとの慣例がある。
しかし皇女様を出迎える事など今まで一度もないのだ。
並んで出迎える?順番は?挨拶は?
まかり間違って声をかけられたら、口上はなんと言えばいいのだ。
文官達の喉がゴクリと鳴った。
その時、大書庫のドアがゆっくりと開き始めた!
「散れっ!」
年嵩の文官の小声の一言で、書架の影に蜘蛛の子を散らすように隠れる。
「俺は今、分類-帝国の歴史書棚なんだ」
「私は今、分類-帝国の偉人書棚だ」
心を無にして隠れた書棚になりきる文官達。
それでも目だけはアデライーデが入ってきた扉に釘付けになる。
そんな文官たちのことなど知る由もないアデライーデは、入って来るなり驚きの眼差しで大書庫を見回す。
感動した様子で歩を進め中央でくるりと大書庫を見回した。
中央の明り取りの窓から落ちる光がスポットライトのように、若草色のドレスのアデライーデを浮かび上がらせる。
!!!!!
春の女神様のようだ!
書棚になりきった文官たちが見つめる中、アデライーデがすぐ近くの本をうっとりとした目で手に取ると何人かの文官が意識を失いかける。
あれは私が分類した本だ!
あれは俺が修繕した本だ!
あれは俺が埃をはたいた本だ!
そして全員が思った。
あの本に生まれ変わりたい!




