8
奥宮のみならず王宮全体がまるで蜂の巣をつついた騒ぎとなった頃。
学院から馬で走れば十数分。
「エリスフレールのラキュリスと見ればわかるだろう」
検閲の兵士は牙の王子とその後に彼の三つ又の矛を預けられている護衛の姿を見てひれ伏す。
王子の姿は少し前に黒髪の少女と歩く姿を見たばかりだが、戻りは少女と王子は馬に乗っている。
「帰りは馬ですか?」
という兵士の問いに曖昧な笑みで答え再び馬を王宮に走らせる。
「正殿で騒ぎになっていそうだから、私の使っている区画から裏に回って奥宮に行くぞ」
「あの鷹はどこに行ったの?」
「マリウスのところだ。こういう場合に役に立つとは思わなかったな」
「本当に三人は仲良しなのね」
本当は四人だがな、というのは控えておいた。とにかく現状が知りたい。
王宮の来客用の区画でエリスフレール王に宛がわれている廊下を外から馬で走りこんだおかげで屋敷の女官達が慌てふためいている。
「時間短縮だ。このまま馬で入るぞ」
「嘘でしょう?」
そこから王宮までの回廊は表正面からに比べれば人の通りは少ないが、明らかにその回廊を馬で疾走する人間は過去にいたとは思えない。
「通った跡ぐらい掃除すれば元通りだ。馬の蹄ごときで砕ける廊下ではない」
時間短縮的見解でみればまっとうな意見だが、常識的見解ではクロエだったら絶対そんな真似は出来ない。
想像よりも無茶なことをする王子様だ。
このあと掃除する王宮の使用人達に心の中で懺悔する。
(廊下を馬で走ってごめんなさい)
高い音を立てる蹄の音がどんどん奥へ走りこむ。
予想通り王宮の奥宮は兵士達が必要以上に集まり蜂の巣をつついたような騒ぎになっている。
馬が走りこむ姿に驚く人間も多くいたが、大半は奥宮の一室での人だかりに目を奪われているようだった。
「お前、馬で廊下走るなよ」
馬の脚を緩めて間もなく、呆れた顔のマリウスが現れる。
事件の知らせで彼も休み返上で慌てて出てきたのだろう。
役人の制服は辛うじて羽織っているが、髪は結っておらず、ひげが生えたままだ。
「すまん。学院にいたから急いだ。三人の容体はどうだ?」
馬を廊下だというのにそのまま回廊の円柱に繋ぎマリウスに話を聞くラキュリス。
ラキュリスは時としてさすが王族、傍若無人に振る舞うことが分かった。
「婆さんの判断で命に別条はないらしいが、今まだあの部屋だ。
まさか、王宮で白昼堂々とは思っていなかったな。犯人を追って今、茶を用意した女官は一人残らず王宮付きの憲兵が捜査している。
医者が呼ばれたが、婆さんがずっとお嬢の名前を呼んでいる」
渋い顔でマリウスが、表情がこわばっているクロエの顔を覗き込んだ。
育ての親が倒れた、しかも毒を飲まされたと聞けば青くなって当然だ。
マリウスはクロエに内心詫びた。
帝都に呼ばない方がよかったのかもしれないと。
「連れていくのか? 彼女の存在が分かったら狙われないか?」
「俺もそう思ったが、婆さんは連れてこいの一点張りだ。
俺は皇帝一族に逆らえる勇気はあるが、あの婆さんに逆らえる度胸がない」
まっとうに聞けばある意味皇帝への不敬罪とも思える発言だが、彼の性格と昨日会ったアルマのことを思えばラキュリスは苦笑いするしかない。
クロエはしばらく考え込んだ後、「行きます」と決意を伝え、マリウスとラキュリスも共にアルマの許に案内された。
「ちょっと待て」
何を思ったのか、ラキュリスは自分がまとっていた何枚かの布の一番上の薄い一枚を剥いでクロエの頭に覆うように被せた。
今更かもしれないが、部屋の中に誰がいるか分からない上に、なるべくクロエまで狙われないように顔は知られない方がいいという彼なりの今日の朝の状況から鑑みた配慮だ。
このようなことが起こったら異国の王子などまずは部屋に入れてもらえないのが常識だが、そこを入れてしまうのは今までのエリスフレール王国の王子と皇太子の付き合いの深さによるものなのだろう。
天幕がかかった部屋から倒れた三人がいる部屋へ入っていく。
部屋にはアウシュリッツの青年騎士の二人、イーヴとハインツが難しい顔をして顔色が悪いイリアスの傍に付き添い、皇太子の傍にカレンデュラ王国の皇太子の養育係で今は皇太子の腹心である内務大臣ダリルと王宮付きの典医が、アルマの傍らに宮廷の女官が控えていた。
そして数名の「精鋭部隊」と呼ばれる緑の制服を着た皇太子直属の騎士たちが中の様子を見に来る外の人間たちを追い払っていた。
アルマが横たわっている姿を見て、さすがにショックだったのかクロエはギュッと傍にいたマリウスとラキュリスの服の端をつかんだ。
「さっき皇后陛下がいらっしゃって、気絶なさった」
内大臣ダリルの言葉に三人はさもありなんと同情をおぼえる。
夫が毒を盛られ、そして次は息子に毒を盛られたのである。その衝撃は計り知れないだろう。
「毒は?」
「成分が分からぬが、アルマ殿の機転ですぐ水を飲み吐いたのが良かったようだ。
それにアウシュリッツのあのお二人が大量に水を飲ませたことが良かった。
おそらくお三方ともすぐ症状は和らぐだろうが」
典医の言葉に陰謀に慣れているはずの男二人も足がすくむ。
身分を越え、国境を越えた友二人が殺されたとなってはたまったものではない。
「お、お婆ちゃん、クロエだよ」
女官はクロエがアルマの傍らに行くと気を利かせて傍を離れた。
浅い息のアルマの傍に行ってクロエが声をかけると、アルマははっきりと目を開けクロエに傍に寄る様に手を差し出した。思ったより症状は軽そうだ。
「クロエ、いいかい・・・・・・」
クロエの頭を抱え込むようにして小声で話すアルマ。クロエは耳に囁かれた言葉を聞いて耳を疑った。
(いきなり、何言い出すの?)
それはクロエには初めて行う作業であり、足がすくむ話だった。
――薬、おそらく毒の一種の分析をしろ――
それがアルマの指示。だが、アルマの今の姿を見たら、怖い、なんて言っていられない。自分がやらなくてはいけない。という気持ちになってきた。
――お前を巻き込みたくはないが、相手は思いもよらない速さで手を打ってきた。やられる前に手を打たねばならない――
アルマはクロエに毒の成分分析以外で、薬草で他の湿布薬や植物の精油を幾つか抽出するように指示した。他からの目をごまかすためだ。
さっき学院の中庭に生えていた薬草が頭に浮かぶ。
――道具はアマルーテ学院の部屋にある。教務課であたしの名前を言え――
――分かったよ、お婆ちゃん。それでどんな薬を作るの?――
ぼそぼそと他に聞こえないようにやり取りしながら、指示されたことをしっかり記憶の回路に焼き付けようとを頭を回転させているとき、止める兵士の声を振り切って、すらりと背が高い一人の若い女性が入って来た。
イリアスと同じ金色の髪。
でも、瞳はカレンデュラの人のように青い。きらびやかで、華やかな、年の頃は二十歳くらいだろうか。金糸の入った豪華なエンパイアドレスをまとった女性。
「ヘルネ様」
ラキュリスとマリウスは彼女を見たとたん、ただちに跪いて相手に貴婦人に対する最上級の礼をした。彼女はそれを当然のこととして受け流した。
「オスカー様もイリアス様も何てことでしょう」
彼女は涙を浮かべてオスカーやイリアスの方を見、瞳に涙が浮かぶ。
「わたくしも傍で看病していいかしら?」
という優しい言葉には無情にも
「姫様に何かあったら殿下に顔向けができません。
万が一、ということがございますので、お引き取りをくださいませ」
「ダリル、でも」
「お願いでございます。
皇太子殿下は以前からそのように万が一のことがあった場合はと指示を出しておいででしたので、こればかりは皇族であられる姫様の言うことは聞き届けられませぬ」
「ああ、なんてこと。わたくしは皇太子殿下の許嫁なのですよ」
泣き崩れる姿はとても見るに忍びがたい。
(ヘルネ、ああ、ヘルネ・アウグスタ様かしら。
村にも伝わった大陸一の美女と言っても過言ではないお方だという噂は本当ね)
華やかな皇太子の許嫁の美しさに呆然と見惚れるクロエ。
皇族の末端として数えられている家系のアウグスタ伯爵様の娘で、母親がミラルール公爵家の当主の妹。身分も申し分なければ、姿も親のいいとこ取りして生まれた姫君。見た目も美しければ、教養も深く、ただ、高貴な生まれなのに残念な趣味が、お菓子作りだと年配の人間には言われている。
一昔前まではそれなりの地位の人間は台所に立ったり、畑を耕したりしないという暗黙のルールが上流階級にはあったのだ。
ただ、彼女の場合はその料理の腕は料理も宮廷料理人が舌を巻くほど上手く、自ら選んだ料理人を雇って、貴族や富裕層への市民への啓蒙活動でお菓子作りの講座を主宰していて、その講座の参加者も多く人気が高いという評判だ。
またお菓子作りの趣味が高じて材料の小麦粉の論文を発表しており、婦女子の地位の向上に一役買っているという。
(皇后陛下が彼女の母君の出身地ミラルール公爵領の名菓、蜂蜜のパウンドケーキの焼き方を習ったという話もあったというし)
金髪碧眼の美しい姫君で、皇太子殿下を始め、ラキュリス王子も去年かその前に恋人相手に名乗りを上げたという話が村にも伝わっていた気がする。
(本当に、美人画の絵画から抜け出たかのように綺麗な人。きっと皇太子殿下と相思相愛で心配なんでしょうね)
「これ、クロエ、聞いておるか、ああ、なるほど。
クロエ、顔をもっと布で隠せ。彼女に比べたらお前は見劣りするだろう」
木っ端微塵。粉塵玉砕。
はっきりとアルマに容姿の差を言われては涙も何も出ない。「はい」としょんぼり頷いてラキュリスから被せられた布を再びベールのように被りなおす。
本当にこの人は毒を飲んで倒れたのだろうか、というくらいしっかりしている指示内容を聞いてかれこれ数分。
毛布の中のアルマの手から小さい巾着袋も渡された。
「中身を顕微鏡で調べておくれ。使い方は分かっているだろう?」
「うん。大丈夫だよ」
クロエはゆっくりと頷いた。
渡された袋を懐にしまい、部屋の様子を窺う。
今なら現れたヘルネ姫のおかげで自分への注目度は薄い。
クロエはこっそりと回廊に出ようとしたところを後ろから捕まった。
「キャッ」
「しーっ、お嬢さん、私だ。一人での外出は禁止だよ。しばし、お待ち」
何のことはない。追手はラキュリスであった。
体格差では明らかに捕まえられたら逃げられない。
ラキュリスは彼女に被せた自分の薄衣を再び彼女に被りなおさせる
「こんなことが起こった以上、今後、私たちから離れてはいけない。
いいな?」
念押しをされてカクカク頷くクロエ。
だが、そのクロエ達一連の動向をじっと見つめるもう一つの目が他にもあった。