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それから数日後、アルマは確実にアマルーテ学院で教鞭をとる方向になり、今、田舎の暮らしとどうするかで学院側と交渉するという。
また、皇帝の容態がアルマの調合した薬で回復してきたということを、今、公爵邸の応接でクロエに会いに来たオラセフ学院長の口から聞いた。
どうやらクロエのお尻を触ろうとしたことをラキュリスかマリウスからアルマが聞いたようで、離縁状を再び叩きつけられた、と泣かれたのだ。
夫婦の問題は口を出したくないクロエだったが、知恵は働く。
今後、触らないって約束すればアルマに機嫌を治すように話してもいいと言うと長いまゆ毛の下からつぶらな瞳を潤ませて、「ありがとう」とクロエの手を握りしめてきた。
運悪くそこに「このエロ爺が」と、たまたまやってきたラキュリスに見つかり、邸から蹴りだされる哀れな学院長であった。
事件解決の日から久しぶりに会うラキュリスは、ゆったりした白の長衣に今日は色鮮やかな緋色の帯をしている。
「疲れはとれたか?」
エロ爺こと学院長を公爵邸の王宮門扉まで送りだした後、戻ってきたラキュリスはさっきまで学院長が座っていた場所に座り、相変わらず美しいアクアマリン色の瞳でクロエを見つめた。
前と同じように見つめられるとどこか居心地が悪い。
あの厩の一件からほとんどラキュリスと話していないからだ。
「はい。ありがとうございます」
ラキュリスに失礼がないようにお辞儀して礼を述べると、ラキュリスは少し困ったような苦笑いをして視線を伏せた。
「なんか、初めて会った時と同じような口調になっているな。
今日は別れを言いに来たんだ」
「別れ?」
思ってもいない言葉を告げられて言葉が出ない。
伏せた視線のラキュリスがクロエを再び見つめる。
「ああ。明日国に帰る。
イリアスと急に今回の事件の解決のために帝都を訪問した訳だから、もう滞在理由がない。事件も予想以上に早く解決したから国に戻らないといけない」
そうやって言われると、確かアグレイアで先の公爵夫人がラキュリスと街道で待ち合わせして、と言っていた記憶が蘇る。
となると滞在は一週間も満たないのではないだろうか。
「それは、大変でしたね」
何かうまく言葉が出てこればいいのだが、上手く言葉が出てこなくて、クロエはとりあえず無難に浮かんだ言葉を口にした。
「いや、それほど大変じゃない。
ところで風邪は引いていないようで良かった」
「風邪?」
どうしてあたしが風邪を引いたって思ったんだろうと首をかしげると、ラキュリスは真顔で答えた。
「君はあの夜、ここの中庭でうたた寝していただろう?
いくら帝都は温かいとはいえ、まだ春先だ。
朝晩は花冷えもする。
昨日一昨日とイリアスも「休ませてる」って言ったから、てっきり風邪をひいたのかと思った」
「どうしてうたた寝してたのを知ってるの?」
あの日、気が付けばクロエはいつの間にか部屋の中のベッドに寝ていた。
「私が運んだから知ってる」
「えっ、王子が?」
てっきり、イリアスかマリウスだと思っていたクロエは顔を真っ赤にした。
あの日の翌朝、イリアスに真っ赤になって礼を述べると否定もされなかったから、てっきりそうだとばかり思っていた。
「離宮での厩での自分の態度を謝りたくて探していたら、庭で眠っていたから運んだ」
「ごめんなさい、運んでもらってすみません。
てっきり、公爵様かマリウスかと思っていました」
言い訳がましく謝るとただでさえ恥ずかしくて居たたまれないのに、ラキュリスは席を立ってクロエの許にやってきて間近で顔を覗きこんだ。
「イリアスが運んだ方が良かったのか?」
どこか声が不機嫌である。
「そ、そういう訳じゃありません。」
(顔が、顔が近いって。馬に乗っているときは頭の上だったけど、真正面って)
「そう、嫌われたわけではなかったか。良かった」
にこっ、と微笑まれてクロエはきっと今の自分は耳どころか全身真っ赤だろうと思った。
「厩のことなんて気にしないでください。
きっと殿下の心情を慮って、辛かったのだと思ってますから」
「君は優しいな。ありがとう。
ああ、そう言えば君は地元に恋人か想う相手はいるのか?」
「え? いませんよ。
いつかそんな人が現れればいいですけど」
どうして今そんなこと聞くかなと思った時に、またラキュリスと間近で目が合った。
「なるほど。
じゃあ、しばしのお別れの挨拶をしよう」
「え?」
お別れの挨拶って何?
その瞬間、マリウスの声が遠くから聞こえてきた。
「おーい、クロエ。
いるのか?」
その声にちっと舌打ちしたラキュリスは人さし指でクロエの唇に触れた。
真っ赤なクロエのことなどお構いなしで入ってきたマリウスは、二人の様子に気が付くことなく「元気か?」と話し出した。
「お前、今年の秋から学院に入学って決まったぞ」
それは初耳だった。
あの夜から少し燃え尽き症候群で、ぼうっと過ごしていたクロエに学校へ通う話題もあまり熱心に聞いていなかった。
「勝手に決めて悪いが、婆さんもお前が秋から通うなら、秋から学院で教えてやるって話になって、お前には事後承諾って形で決めさせてもらった。
ほら、それにお前、薬師の免状取りたいって思ってただろう?
アマルーテ学院に入試なしで入れるチャンスは事件解決したっていう今しかないと思って俺もちょっとこう、なんていうか、親心みたいな。
大臣とか、学院のうるさい教授達も今なら黙っているだろうと思って」
両手を合わせて詫びるマリウスにクロエは、とんでもない、と手を横に振り慌ててマリウスの前に行った。
「そ、そんなことないよ。お婆ちゃんがいいって言ってくれるんだったら、あたしはアグレイアでも帝都でも薬師の免状が取れればうれしいんだから。
ほ、本当なの?」
まさか、自分を入れるためにそんなことをしてくれるオスカーや周りの人間の気持ちがうれしくて、事件の後からどこか虚ろになっていた薬師へのあこがれが再び蘇ってきた。
本当に自分はなんて恵まれているんだろう。
「ああ、本当さ。
何日かぶりにお前のいい顔が見れたな。
良かった、良かった。
ついでに教えてやるよ。
俺達四人も特別聴講生で半年くらいは受講するからよろしく」
「は?」
訳が分からず間抜けな顔をする。
「おいおい、俺ら四人。
俺とここにいるラキュリスと、今居ないイリアスとオスカーだって。
俺らも今回の件で薬草知識の必要性を感じたんだ。
毒を盛られた際の対応とか処置とかな」
すぐに分かれよ、とおでこをつん、と人さし指でつつく。
薬草の知識の必要性は分かる。でも四人ってなんで? それにさっき王子は用事が済んだから帰国するって言ったのに。
「だって、王子は明日帰るって、さっき」
「ああ、帰るっていうのは本当だな。
再び留学する準備が必要だから。だろ?
ラキュリス」
クロエの肩に両手を置いてたラキュリスは満面の笑みで答えた。
「ということで、クロエ、秋から同じ立場だ。宜しくしてくれ。
今度会うときは「王子」と他人行儀には呼ばせないぞ」
「そんな!」
薬師になる前に色々な試練が待っていそうだ、とクロエは天を見上げようとして、再びラキュリスのアクアマリン色の瞳に捕まった。
―― 完 ――
これで完結です。
読んでいただいてありがとうございました。