13
アルマの研究室。
とってつけたようなありきたりの名前だが、その誰も使わない、誰も開けない巨大な一角をマリウスもラキュリスも学生当時は別名「一階の開かずの間」と呼んでいた。
まさか中がこんな実験室になっていることを、卒業して今更知ると男二人は思わなかった。
長年開けられたことがないだけに、空気がよどんで強烈に埃っぽかったが、クロエが部屋に入ってすぐ、空気の入れ替えとばかりに窓を一気に開けて、棚やテーブル達に被せられた布をはがすと部屋の中は様変わりした。
布の下に隠れていたのは巨大な棚、並べられた数々の実験道具に、おそらく学食の厨房にありそうな流し台に「調理台」といって置いても過言でない大きな実験台、そして竈。
そしてガラスの衝立で仕切られた書斎のような書斎机と本棚。
「婆さん、きっと当時の学院長にもぶいぶい言わせていたんだろうな」
一端の教師にあてがわれると思えない、普通の教師の専用個室の三倍ほどありそうな部屋。
簡単な掃除を終えた三人は、窓を閉めて机の上に採ってきた薬草類を並べる。
そしてクロエは今日の夕方までに終わるようにやることを書きだした。
(まず腰痛の薬と、精油作りと)
内心、自分よりはるかに身分も上、そして年も上の彼らにこんなことを頼んでいいのか、という気持ちもあるが、アルマの命令には逆らえない。
「何書いてるんだ?」
アルマの書斎机の上にあった紙に何やら書きだしたクロエのメモ書きを覗き込む二人。
「あの婆さんは本当に人使い荒いな。
お嬢、お前本当の孫だったらきっと今頃、窯雑巾状態だぞ」
窯雑巾状態、というのはこの大陸での言い回し。
普通の雑巾は使っていくと汚れて、そのうちぼろ雑巾になる。だが、窯雑巾というのはいきなり高温の竈を拭くから新しくてもすぐ焦げて見るも無残な形になってしまうことから、ぼろ雑巾の状態よりひどい、最悪の状況を指すことを意味している。
「そ、そんなことないよ。お婆ちゃんはちょっと人より変わっているだけだよ」
ちょっと、じゃなくて大分だろう、とラキュリスは突っ込もうかと思ったが止めた。
簡単に挨拶した程度の仲の老婆に対してあまり失礼なことは言えない。
だがしかし、過去の噂話といい、マリウスに聞く話といい、かなり強烈な個性であることは言うまでもない。
やることの手順を書いた紙を恐る恐る二人に渡したクロエに二人は顔色を変えることなく動き出した。
というよりも、書かれた内容が昔の科学実験授業などを思い出させて面白そうだな、と思ったからにすぎない。「分担」と書かれたクロエの説明書を読みながら男二人が右往左往している。
ラキュリスが触っているのは「蒸留機」という葉や花の精油を作る装置だ。
その紙には
一、蒸し器に取った葉っぱを入れる。専用の竈の火を付けて十分火をおこすこと。
二、蒸気を発生させ、しばらく葉っぱを入れた器を加熱し、花や葉を蒸気の中にあてて、成分を気化さること。
三、蒸気を冷却させるために水蒸気を筒状の水の中を通るチューブに通していくこと。
四、出てきた油分は瓶に入れる。
五、水分は別の瓶に入れる。
六、危険なので精油に直接触れてはいけない。
と丁寧に彼女の可愛い画付きで描かれている。
蒸留機に使う道具は全て部屋にあり、流し台の傍にあった蒸し器にクロエに渡された薬草を入れて蓋をし、植物の油分が通るチューブの外側を冷やすための水を樽一杯に入れて、その中にチューブを通して、チューブの先に瓶を置いた。
そして今、ラキュリスは蒸し器の下の竈で火を起こしている。
「士官学校の野営以来だぞ、蒸し器なんてものを触ったのは」
ラキュリスは扇で火種に風を送りながらクロエの説明書きを読んでいる。その手際の良さはそんなことはやりそうもないとても高貴な「王子」には見えない。
クロエが手際の良さを褒めると、得意げに「何事も出来る才能の持ち主だからだ」という返事が返ってきた。
その得意げな表情に、王子がマリウスと仲良しなのって、類は友を呼ぶって原理からからかしらと、痛感したクロエだった。
秤で葉を指示された分量だけ用意して水で洗い終えたマリウスは、すり鉢とすりこぎにその物を入れた。
「俺の仕事って地味じゃねえか? まあ、俺も久し振りにゴマすりやるかあ」
「ゴマをするわけではないだろう」
「うるさい、細かいところに突っ込むな」
なんで俺がすりこぎ? と厭な顔は見せず、楽しそうに請け負うのがマリウスのいいところだ。
ラキュリスと冗談を言い合いながらゴリゴリとリズムよく音を立てて作業するマリウス。やがて、その大きなすり鉢には濃い緑色というか黒っぽい緑に変色したペースト状の物体として物凄い異臭を放つようになる。
「鼻がッ、きっとしばらく鼻がおかしいぞ」
すればするほどどんどん強烈な芳香を放っていくハーブとその他諸々が入った葉。そのすった葉に指示された量の油を入れる。
少し離れた場所にいるラキュリスもその匂いの強烈さに目を瞬かせている。
「この匂いは一気に目が覚めるぞ」
クロエといえばその匂いは慣れた物なので、平気な顔で同じこの部屋で自分の作業に没頭中。頭を抱えながら大理石の一枚岩が載る大きなテーブルの上で取ってきた葉や花を種類ごとに分けて、顕微鏡にプレパラート、ビーカーにアルコールランプといった機材と格闘している。
「本当にこんな臭いやつが腰痛に効くのか?」
さっきから黙って眉間にしわを寄せているクロエに声をかけるマリウス。
「効くよ。肩こりにも効くんだから。
今から覚えておけば、おじいちゃんになった時に困らないよ。
それまんべんなく混ぜたら瓶に入れて、マリウス」
「誰がおじいちゃんじゃ!」
「え? だって、マリウスは男でしょう。おばあちゃんにはなれないよ」
真顔での返事。年寄りだと暗に言われたのだと思って突っ込むと天然の返事が返ってきた。
「ま、まあ、そりゃそうだ」
何言ってるの? とばかりに見つめるクロエ。
そんな二人のやりとりについに、見ていたラキュリスが噴き出した。
「ふっ、ははははっ、面白い。
イリアスの奴、こんな楽しい場面に参加できないなんて可哀想な奴」
「それを言うならオスカーもだろう。ったくよ。
ラキュリス、お前一人楽しそうだな」
「何を言うんだ、いくら小さくてもこの窯の傍は熱いんだぞ。汗が止まらんのだから」
何で二人が笑っているのかさっぱりわからないクロエ。
なにはともあれ、男二人は楽しそうだ。
とりあえずクロエはそんなことにかまっていられない。
二人から離れた一角に簡単に作ってある無菌室のように仕切られた机に移動する。
マスクをして手袋をはめて慎重に袋を開ける。万が一、その毒が触れただけで死ぬものであった場合に備えてだ。
そして中身や作業の詳細はラキュリスとマリウスには内緒。
彼らにも危険が及んではいけないし、万が一彼らがその持ち主に通じている可能性もあるからだ、とアルマは言った。
(二人が犯人の一味とは思えないよ。この様子じゃ)
この作業の名目はアルマに言われた通り、彼らには腰痛の薬を至急作る様に頼まれたと言ってある。頼まれた調合作業で慣れない匂いで気分が悪くなるといけないから離れたところで作業をすると付け加えて。
クロエが倒れたらどうするんだと二人は心配したが、もし、三人同時に気分が悪くなったら助けも呼べないから自分が倒れたとき助けてと言っておいたので大丈夫だろう。
クロエが渡された巾着袋。
アルマがオスカーからもらったというその毒薬。
二人には見えないように袋を取り出す。中には丸薬や粉薬を携帯する市販で売っている木の筒。
その蓋を取って中を覗くと中に黒い粉末が見えた。
どこかで見たことがある物かも。
じっと見つめて、予想通りだったらいいけれど、と慎重に、かつ手早く顕微鏡にプレパラートを作って覗く。
「やっぱり、麦角菌」
麦角菌。イネ科の植物がかかる病気の中に、子房内に黒紫色の菌核を形成させる「麦角病」という植物病がある。その麦角病の菌核には毒素が多量に含まれている。しかも、この麦角菌が体内に入ると、体の末端部分の壊疽や極度のしびれ、精神錯乱といった中毒症状を起こす。
クロエが住んでいた田舎ではその黒い麦粒は誰もが知っている毒物だ。
それを見つけたら絶対口にしてはいけない、収穫してもいけないというのは村の、いや農村ならどこでも鉄則だ。
ただし、その菌は地方によって若干種類が違っており、それによって症状が多少違う。
それについてアルマの書斎に膨大な資料があって、クロエはそれを覚えさせられたのはかなり昔だ。アルマは麦角菌などを含め食用植物の毒の論文を発表したことがあるからだ。
今見る菌はアウシュリッツ公爵領のある地方にはない。
確か、これはアウシュリッツよりも東のもののはずだ。
この解毒薬は普通の医師は持っているはず。
でも、今日の毒はそれとは限らない。
(あたしにもっと知識があったら、おばあちゃん達が飲んだ毒が何かわかったのに)
悔しさをかみしめながら、慎重に毒が入っていた筒をしまい、作ったプレパラートの菌は熱湯で死ぬので沸騰した湯で洗い流す。
入っていた木の筒は万が一、何かの拍子で開く、という厭な可能性を考えて、研究室の中にある銀色の鉄製の大きめのピルケースに入れる。
このピルケースに入れるというのもアルマの指示でもあった。
とりあえず頼まれた一番大事なことは終了した。
一息ついて次の場所に移動し、頼まれた薬草の名前が書かれた瓶を探す。
(次は、お婆ちゃんの研究室の棚にある「ナツシロギク」の乾燥した花と葉をすった粉を研究室にあるピルケースとかに入れて持って帰るんだっけ。
でも、なんでナツシロギクなんだろう。確かに関節炎にきくとかきかないとか)
埃をかぶった棚の綿埃をとりを払って、引き出しの奥に並んでいた中のその名前の瓶を取り出す。
「うわ、くっさい」
蓋をあけると今まで嗅いだ事がない強烈な臭いが漂った。
「うわ、それも強烈な臭いだな」
懐紙を使って棚にあった細長い木製のピルケースに移しているときにマリウスが傍に寄ってきた。クロエは慌てて毒の入った銀色の鉄のピルケースを引き出しに入れ、間違えてナツシロギクと、さっきまで麦角菌が入っていた筒にもナツシロギクを入れてしまった。
マリウスはどうやら作業が終わったので、道具を片づけたらラキュリスを手伝っていいかと尋ねてきた。
今はその筒を彼らに見られて怪しまれては困る。
今は仕方がないや。あとで取り出そう。
間違えて入れてしまった筒を巾着袋に入れて、帯の間に入れる。
すりこぎとすり鉢を流し台で洗ったマリウス。
作業台には瓶に入れられたねっとりとした黒緑のペースト。打ち身、ねんざ、腰痛に効く湿布薬代わりの物。
ラキュリスの方も精油が順調に採取されているようだ。
とりあえず頼まれたことは無事今日終了しそうだ。
「ちょっと、あの、お手洗いに行ってもいい?」
作業が終わって緊張が解けたのも手伝って、急に催してきた。
一人で行動するなと言われた以上、お手洗いは一人で入るところだし、恥ずかしくてもとりあえず行き先を告げなくては。
正直に言うと、当り前の生理現象には二人はさすがに文句も言わず、部屋を出てすぐ左の突き当たりだ、と教えてくれた。
扉を開けて、廊下に出る。
さっきの休み時間とは違ってまだ昼からの授業中なのか人気は全くない。何とか一仕事終えたと思ってホッとして伸びをした。
お手洗いからの帰り道。廊下を曲がってすぐ自分の体が不自然に宙に浮いた。
読んでいただいてありがとうございます。
このお話は架空のものです。
植物や作業の詳細等もフィクションですので、軽く読み流してくださいませ。