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緑深き森の中。今はまだ朝晩が冷える春の訪れの時。
咲き乱れる花々、濃い緑から新芽の若い命を思わせる柔らかい黄緑まで豊かな色合いを見せる木々。
緑が濃い森の上には天高く上った太陽光が木漏れ日のシャンデリアとなって光の雨を降らしている。
柔らかな春風に、臙脂の頭巾をなびかせ、森で取れた薬草をかごに入れて歩いているのは、森の近くに住む腕はいいが口が悪い薬草の調剤士、通称「薬師」の老婆アルマ・ツヴァイクの家に住む幼いころに親を失った見た目が若干変わった娘。
その娘の本来の名前はクロエ・エーメ。
今は訳あってクロエ・ツヴァイクとよばれる薬師の助手のような存在だ。
大きな琥珀色の瞳で、髪の毛は射干玉色。しかももう大人だというのに背はこの地方の大の大人の女性より頭一つ小さい。
この付近でクロエは誰かと問えば、皆誰だか知っている。まず髪の色が珍しいからだ。
この地方の人間は金髪、それより西に行くと白金、銀、といった髪の色。
けれどクロエは黒髪。この地方から山や多くの国を超えた遠く彼方の大陸の東や東南の国々の特徴だ。
だが、クロエが遠方の人間の特徴をしていても何も問題はない。なぜならこの地に流れ着いた彼女の母が流れ者だったからだ。
ただしこの地へ流れ着いた当のクロエの母親イレーヌ・エーメ自身は見事な金髪の持ち主だが瞳は東方の人間らしい青みがかった紫だった。
クロエはその容姿のお陰で幼い頃からからからかいの対象になったものだが、今ではもう、薬師アルマの直伝の弟子という立場ですっかり村に馴染んでいる。
この村はカレンデュラ帝国皇帝の第一の家臣と名高いアウシュリッツ公爵領の北の端ののどかな村。森と広大な丘陵が広がる地帯。
酪農と農業が盛んで、チーズやバターなどの乳製品、葡萄の木から採れる葡萄酒などが産地の一帯だ。
この地方は隣の国との国境とも接しており、地図で見ると南北線をきっちり分けたように西隣に「水の国」と謳われる強国のエリスフレール王国がある。
アウシュリッツ公爵領はエリスフレール王国との交易のお陰でかなり豊かな地帯である。
この村は、アウシュリッツの都からは渓谷で隔てられ、エリスフレール王国国境からは深い森で隔てられているため辺鄙な土地だが、村人たちは穏やかに暮らしている。
クロエは今日、森に流れる小川のせせらぎを楽しみながら、アルマに頼まれた香りが強い薬草の葉を摘んでいる。
草独特の鼻につんとくる香りがする。
(今日も森は薬の材料になる植物がいっぱいでありがたいなあ。
この葉っぱ達を干して、煎じてから・・・・・・)
家に戻ったら、香りのいい薬用の効果の高いお茶にしよう。そのためには籠いっぱいに積まなくてはいけない。
薬草取りの基本は生えている葉っぱを全部取らないこと。
一部だけ植物から分けていただく、という気持ちで摘むこと。それが薬草で生業を営む薬師の心得、と小さい頃からの育ての親のアルマから耳にタコができるほど言い聞かせられた。
「これだけ摘めば一週間大丈夫かな」
この量ならしばらくの間、村人用の薬草茶が賄えるだろう。
少し疲れた。
屈みこんで行う作業はいくら十五歳でも足腰に負担がかかる。
「クロエ、クロエ、お嬢っ」
薬草摘みの手を止めて、しゃがみこんで川の水面を眺めていたクロエに甘く低い声がかかる。
「マリウス?」
水面に映った男の姿を見て振り向く。
どうして今頃? と思うよりも久しぶりに会えた嬉しさが勝った。
「久し振りだな」
クロエのびっくりした顔を見て破顔する灰色の髪の逞しい大男。
役人の制服の灰色の乗馬服。
「もっと先の、夏の頃にしか来れないんじゃないの?」
籠を放り出して抱きついたクロエをがっしりと抱きあげたマリウスと呼ばれた男。
「こっちに来る用事があったからな」
齢は二十代後半と言うべきか。正確な年はクロエも知らない。
「永遠のハタチ」
と、いつも誤魔化されてしまうからだ。
男はクロエを川べりにある切り株の上に彼女を座らせると、自分もクロエの横に座った。
背はおそらく平均の男性より頭一つ高い見目麗しい男。
クロエは実際見たことはないけれど、アウシュリッツ公爵の主であり友人であるカレンデュラ帝国の今の皇太子が作ったという大陸中で随一の実力と容貌の精鋭と評判の「精鋭部隊」にいてもおかしくないと思っている。
灰色の髪を無造作に伸ばして一つに結っている。
深く澄んだ濃い青の瞳は鋭くも美しい。意志が強そうな眉に高い鼻梁、血色のいい形のいい唇はどこか大人の色気が漂っている。
きっと多くの女性が彼に群がっているのだろう。まだ自分はそんな年ではないが、容易にそういうことは想像できる、マリウス・イングウェイはそんな男だ。
三年前の夏、この森の入り口で怪我した馬を介抱しているマリウスを見かけ、薬草をそっと渡してあげたのが知り合ったきっかけだった。
その後マリウスがクロエの見かけを村で聞きだしアルマの館に現れた。
それからというもの、マリウスは村に滞在する間、ちょくちょくアルマの館を訪れるようになった。
マリウスはカレンデュラ帝国の首都、通称「帝都」と呼ばれる都の王宮内の役職を持つ軍人で、ここ数年間はアウシュリッツ公爵領を彼の友人である公爵の手助けをしながら隣のエリスフレール王国と国境を見守るという仕事をしている。
元来飄々(ひょうひょう)として自由奔放。
取り立て厳しいわけでもなく、かといって悪いやつでもない人間臭い男。
とても帝都の役人には見えない無頼なところが少し気難しいアルマも気にいっているらしい。
小柄だが金髪に琥珀の瞳のアルマは、この地方で一番の、噂では国一番と言っても過言でない腕利きと評判の薬草の調剤士、通称「薬師」だ。
彼女の許には風邪をひいた人、腹を壊した人など具合の悪い人が何かと薬を貰いにやってくる。
調剤士の中で「薬師」と呼ばれる人たちは自然にとれる薬草を使って、患者の症状に合った薬を出すのを生業としている。
一応医者に準じた職業とこの大陸では認識されている。
学校を出て免許を持った薬師も医師に劣らず、簡単な施術を行うこともできる社会的に身分も保証されたかつては憧れの職業であった。
だが、ここ最近医学は二分化し科学療法という新しい学問の発達で、薬草をそのまま使った民間療法的な薬草学が廃れているのが現状だ。
だが、地方や年配者の間では「薬師」という地位は一目置かれている。
少し前までの帝都の学校を卒業した免状を持った薬師は特に優遇されていた。
その中の一人がクロエの育ての親のアルマだ。特にアルマはこの大陸内で最優秀の者が集うと名高いカレンデュラ帝国の最高学府のアマルーテ学院を卒業した数少ない女性。
村から馬で一時間もかからない少し離れた小さな町のモリゲンに行けば医者もいるのだが、よほどの重病や大怪我でない限り、村人達はアルマのところにやってくるのはクロエには不思議で仕方がない。
だが、そう思う反面、アルマの腕がいいのだと誇らしげな気持ちにもなる。
しかし帝都の皇帝陛下の役人のマリウスが、国境の監視以外でこんな田舎に何の用事があるのだろう。
「実はちょっとアルマ婆さんに用事があってな」
綺麗な見かけとは裏腹に「下町育ち」と言い切るマリウスの喋り口調はガラが悪い。
口調だけでなく結構はっきりものを言うけれど、村人達にも嫌がられないのは、彼の人徳だろう。
村人達はこの地域を治める公爵様を敬愛する気持ちが強い分、帝都の役人という者に対して警戒感が強い。
というのは、帝都の役人という者は「貴族の領地で不正がないか」を見回るのが大抵の仕事で、今まで何度か村人達も辛酸を舐めさせられたことがあるからだ。
お上品で、まるで「おくるみ」に包まれたような物の言い方をして笑っている間に、重箱の隅をつつくように「この場所は道であって牧場の敷地ではない」など、こと細かく調べてくるからだ。
しかし三年前からやってきたこのマリウスという男は、そのような細かい事の大概の事は目をつむり、村人の家の屋根が崩れたと聞けば手伝いに行き、牧場の柵から山羊や牛が逃げたと聞けば我先にと探しに行く。
話してみればとても気さくな若者で、灰色の髪という変わった見かけにも関わらず、村人はマリウスを喜んで迎えるようになった。
「お婆ちゃんに用事?」
それもちょっと意外な答えだった。
アルマは確かにこの辺では腕のいい薬師と評判だとクロエは分かっているが、帝都なら腕のいい薬師は他にもいるだろう。
口の悪いきつい薬師を求めているのなら話は別だろうが。
「そうだ、実はちょっくら帝都に出て来てくんねえかなあと思って」
帝都とは、公爵の仕えるカレンデュラ帝国の皇帝の王宮があるところ。
この大陸一の規模を誇る巨大な都だといわれていて、何事にも最高のモノがそろっている場所だ。
クロエも機会があれば行ってみたい憧れの都。
「帝都? そ、そんな遠くに?」
なぜお婆ちゃんが? と首をかしげる。
クロエは記憶にある限り村から出たことがない。せいぜい近くのモリゲンの街までだ。
「公爵様のお城のあるアグレイアでも遠いのに」
アグレイアは公爵家の城下町で、この大陸の古い伝承に出てくる光の乙女アグレイアの名前にちなんだ大きな街だ。
この世の栄華を集めたカレンデュラ帝国の帝都ほどの賑わいはないものの、大陸有数の街。
「ああ、ちょっと婆さんにどうしても帝都に来てほしいってことがあってさ。
王宮で婆さんの知恵を借りたい人間がいるんだ」
「王宮?
じゃあ、あたしはお留守番ね」
「いや、お前も同伴。
これは俺の意見を上に通したんだ。
婆さんはお前一人をここに残して動く性格じゃないと思ってるし、お前も今は薬師を目指してんなら、今はすたれた学問の薬草学でも一応帝都の学校で薬草学の勉強をした方がいいだろう。
特に帝都ならアマルーテ学院がいいだろうな。
あそこ以外の学校卒業の薬師は今じゃ誰も相手にしないから。
去年、婆さんも「そろそろ帝都にやった方がいいかな」って言ってたから、ちょうどいい機会だと思ってな。
それに、王宮でアルマ婆さんの名前と俺の話をどっかで聞いた爺さんがいてな。
それがさあ、しつこいんだよ。
俺が婆さんとこに毎年アウシュリッツ行く度に会ってるって誰かから裏付け聞いたんだろうな。
まあ、毎回毎回耳が腐るほど「絶対連れて来い」って頼まれて、終いにその爺さんがその話を王宮で仕切りだしてまあ、煩いのなんの」
「それは大変。
マリウス、そういうの駄目そうだもん」
「そうさ、さすがお嬢。俺のことをよくわかってるな」
出会って三年経っていれば子供でもそれ位は分かる。
「お嬢、ところで、公爵の城下町のアグレイアや帝都に行ったことは?」
「ないよ」
「そうか、アグレイアや帝都に興味はないか?」
「いつかは行ってみたいと思ってるけど・・・・・・」
行かせてもらえるのか分からないとは口に出さなかった。
孤児の自分を育ててもらっているだけでもありがたいのだから。
「アグレイアでもいいが帝都なら薬草学は別にして、一流の勉強ができるぞ。
お前の父親の手掛かりが何か見つかるかもしれない」
「父さんの手掛かり?」
それはクロエの心をつかむもう一つの最大の言葉。
なぜならクロエが生まれた時には、父親はいなかったからだ。
母が七つの時に死に、身寄りがないクロエは育ての親となってくれたアルマの「ツヴァイク」姓を名乗ることとなった。
色々な意味で評判のアルマは変わり者だったが、クロエを厳しくも愛情深く育ててくれている。
「いずれお前の父親を捜すためにも、知識だけは必要になる」
村の学校にやるだけでは知識が足りないと、村の教師をこき下ろし、彼女が与えられる知識を吸収させ、まるで自分の孫のように育てた。
クロエは記憶力がことのほか優れており、一度見たこと聞いたことをほんの些細なことでも覚え、今では見習いの身分なのに、村ではクロエを「小さい薬師」と呼ぶ者もいるほどだ。
「ちょうどさっきこの村に着いたところで、まだ婆さんの家に行っていないから、一緒に行かないか?
もうあれだけ薬草が籠に入っていれば問題ないんだろ?」
「うん。いいよ。ブロンテスと一緒?」
「ああ、森の入口近くに置いてきた。
あいつも久し振りにお前の顔が見れたらうれしいだろう」
ブロンテスと言うのはマリウスの黒毛の愛馬。クロエと彼が仲良くなるきっかけの怪我した馬だ。
薬草が詰まった籠を拾い、マリウスと一緒に歩いてブロンテスの傍に行くと、黒馬は嬉しそうに目を輝かせ、鼻をすりつけてきた。
「さあ、行こうか」
クロエを鞍の上に乗せ、自分もその後ろにまたがり、鐙を蹴った。
「やっぱ、子供は成長が早いなあ」
馬上で風を感じていると、頭上からしみじみとしたつぶやき。
「なに?
どうしたの?」
顔をあげてマリウスの顔を見るとにやにやした視線とあった。
「背は伸びなくてもいつの間にか女らしい体型になって」
「スケベッ」
思いっきり肘鉄を腹部に喰らい、マリウスはしばし無言となった。
読んでくださってありがとうございます。