私の大切な人
「色々ありがと。じゃあ僕、そろそろ行くよ。また今度」
篠原くんに軽く挨拶をして、僕は食堂を出た。午後の講義を終えたら、まっすぐアパートに帰ろう。……僕がいない間にカナちゃんが記憶を取り戻してしまったらと思うと、気が気じゃない。
ちなみに、こんな調子で受けた午後の講義は、ぜんぜん集中できなかった。何一つ頭に残っていないことに気づいて、少し焦る。このままじゃ大学生活が破綻しそうだ。どうしたらいいのか……。
「あ、和馬さんお帰りなさい! お夕飯、出来てますよ!」
アパートに帰ると、カナちゃんが満面の笑みで迎えてくれて、ほっと安心した。まだ知り合って一日しか経ってないのに、ずっと一緒にいたような気がするのは、多分妹の記憶が奥底にあるからなんだろう。
だけど、「それ」でいいのか。カナちゃんは、妹じゃないんだぞ?
こんなの、カナちゃんに対して失礼だ。こうやって健気に料理を作って、僕に笑顔を振りまいてくれているのに、その笑顔で僕は、妹のことを思い出している。それだけで、酷い罪悪感に襲われてしまう。
「……カナちゃん」
重い気持ちに耐えられなくなって、僕は小さく切り出した。
「あのさ。例えば、カナちゃんのこと好きだって言う人がいたとして……」
……続きを話していいのかどうか、迷う。この時点でもう、「僕はカナちゃんが好きだ」と、言っているようなものかもしれないけど……。
「どうして好きなのかって聞いたら、『死んだ彼女に似てるから』とか、そんな理由を言われたら……、カナちゃん、嫌だよね?」
余計なこと聞くんじゃない……という僕の気持ちとは裏腹に、言葉が止まらなかった。
……そんな僕の台詞を。カナちゃんは、妙に冷静に受け止めていた。そして……
「はい。嫌、ですね。そんなこと言われたら」
カナちゃんはキッパリと、そしてハッキリと、そう言ってのけた。
「その人が生き返ったら、私は振られるってことじゃないですか、つまり。あくまでも好きなのは私じゃなくて『その人』で、私は代わりってことですよね? 死んだ人は生き返らないけど、それじゃあ悲しいです」
その言い方は、いつもの穏やかな彼女のそれではなかった。なんとなく、彼女に責められているような気がした僕は、小さく縮こまってしまう。
「……だけど」
彼女は続けた。
「気持ちは、分かります。多分私も、同じですから……。……私も、誰かを思い出しています。……和馬さんを見つめながら」
最後の一言にハッとなって、僕はカナちゃんに目を合せた。カナちゃんは笑っていた。
「……今された話、和馬さん自身のことですよね? 私を見ているとき、妹さんのことが頭に浮かんでるって意味ですよね、きっと。……実は、私もそうなんです」
予想外の展開に、戸惑う僕。
「私も、和馬さんとお話したりしながら、『誰か』を思い出しています。……誰なのかは分かりません。私に兄弟がいたのかも、恋人がいたのかも、確かな情報はないので……。少なくても、会って一日しか経ってないとは思ってないです。だから……」
カナちゃんは、もう一度僕にしっかり目を合せてから、微笑んだ。
「……お互い様ですよね?」
あどけない彼女の笑顔は、少しだけ不気味でもあった。お互い好意を抱いているように見えるけど、実はいつも、「全然違う誰か」を相手に重ねていたんだ。それも、お互いに。
複雑な気持ちになる。きっと僕もカナちゃんも、徐々に過去を取り戻してきているのだろう。そして恐らく、記憶を取り戻す速度は、一人でいたときよりも加速している。
「それより、早くご飯食べちゃってください! 冷めちゃいますよ?」
カナちゃんにそう急かされて、僕は食卓に着いた。
夕食も、どれも僕好みの味で本当に美味しかった。……だけどこの料理だって、本当は僕のために作ってるんじゃないんだ。
「……カナちゃんが思い浮かべてる『誰か』って、やっぱり恋人なのかな」
食器を片付けながら、我慢できなくなった僕はついに尋ねてしまった。
「それは、きっと記憶が戻らない限りわかりません。わかりませんけど……。たぶん……、もう会えない人だと思います」
カナちゃんは、とても悲しそうな表情をしていた。
「……その人と記憶喪失と……、何か関係があると思う?」
「……思います」
……なんとなく、シナリオが見えくる僕。
今日は、僕が先にお風呂に入ることになった。さすがに、二日連続で入らないのはマズイからね。お風呂上がりのカナちゃんは、男として我慢できないほど艶やかだから、彼女が風呂から出る前に寝てしまおうという計画を、僕は立てていた。
湯船に肩までつかりながら、さっきまでの話を整理してみる。
カナちゃんには多分、大切な恋人がいた。間違いないと思う。そしてその恋人は恐らく、もうこの世にはいない。
カナちゃんは、彼と同棲していたに違いない。彼のためにご飯を作り、洗濯をし、掃除をして……、完璧な家事をこなしていたんだろうな。だけど彼が何らかの原因で亡くなって、一人ぼっちになってしまったカナちゃんは……
「……孤独に耐えきれなくなって、身を投げた……か」
……多分、大筋はこんなところだろう。その場面に偶然出くわしてしまった僕は、寸でのところで彼女を救出。彼女は記憶を失ってしまったけれど、無意識に彼の面影を僕に見いだして、今に至る……。
……何の矛盾も無く、話が繋がった。
なんだよ、もう解決しちゃったじゃないか。やっぱり、彼女に記憶が戻っても辛いだけってことだ。別に、僕は彼の代わりでも構わないから、このまま記憶を取り戻すことも無く、一緒に暮らせればいいのに……。
そう思いながら、そっと目と瞑る。すると、幼い少女の姿がまぶたの裏に浮かんだ。……そう、結局僕だって同じ。僕の手を引っ張ってはしゃぎ回る、青と白のワンピースを着た彼女の笑顔……。そのぼやけている顔に、カナちゃんの笑顔を重ねているんだから。
しばらくまぶたを閉じているうちに、微睡んでいく僕。今日も疲れた……。このまま何事も無く……、何事も……
「『助けて!!』」
……!?
不意に覚醒した僕は、慌てて手足を突っ張った。バシャァンという水しぶきが上がって波立った水面は、間もなく静けさを取り戻す。
な……なんだ今のは!? クソ、もう少しで溺れるところだったぞ……!!
激しい動悸を手で押さえながら、荒い呼吸をなんとか整えた。微睡む僕の脳内に突然現れたのは、グシャグシャに潰れた車の中で必死に助けを求める、血にまみれた少女の姿。まるで戦場のような光景だった。近くでは、火の手が上がっていたような気もする。
今のは、僕の「記憶」なのか?
もしそうだとすれば、あれが妹の最期……? 壮絶すぎる……。事故の夢は今までにも何度か見た気がするけど、ここまで精神的なショックを受けたのは初めてだ。いわゆる、フラッシュバックってやつだろうか……。
「……カナちゃん、お風呂……空いた……」
いつも以上に湯船に浸かりすぎた僕は、ゆでだこのように真っ赤になった顔で、リビングに戻った。
「だ……大丈夫ですか!?」
「……うん。ちょっとのぼせただけ」
驚くカナちゃんを意に介すこともなく、僕は布団に倒れ込む。……なんだか、すごく疲れた気がする。とてもじゃないけど、あんなシーンを鮮明に思い出したくなんかない。
……しかしあの後、妹はどうなってしまったんだろうか。
事故に関連する夢を見てしまうのが恐くて、しばらく睡魔にあらがっていた僕だけど……。精神的にも肉体的にも疲れていた僕は、なすすべも無く眠りについてしまった……。