二人の故郷で
僕は未だに、記憶が消えれば過去も消えると思っている。記憶がなければ、思い出を証明する手段もないのだと思っている。
もしかしたら過去なんて一切なくて、あるのはこの瞬間だけなのかもしれない。この記憶を埋め込まれた状態で、たった今、僕はこの世に生を受けたんじゃないだろうか。
……仮に。その考えが正しく、過去というものが幻想だったとしても。
「この駅……懐かしい……。改めて思うよ、実在したんだな……って」
「もぉ、実在してるに決まってるじゃん!! ほら、私だっているんだよ!?」
……今はこうして、記憶を共有できる相手がいる。……大切なのは、過去が実在するのかどうかとか、そんなことじゃなかった。
……昔こんなことがあったね。あぁ、そうだね、そんなこともあったね。懐かしいね……。こうやって、思い出を語り合える相手がいるということ。……それが何より大切なんじゃないか。
過去を証明する証拠がどんなにあったとしても、どんなに実在することを示されても、懐かしみ合う相手が誰もいないんじゃ……意味がない。
……そんな当たり前なことを、僕は今更学んだ。
寂れた駅の改札で、駅員に切符を渡す。自分たちの生まれ育ったこの町に、僕たちが帰ってきたのは……記憶を取り戻して以降、初めてだった。
この町の駅は、小高い丘の上にある。一応有人ではあるけど、ぶっちゃけ……券売機が取り付けられただけの、しがない小屋だ。
駅を出るとすぐ、僕は景色を眺めながら大きく深呼吸した。白く染まる吐息。土の上には、先日降った雪がまだそこかしこに残っている。ふるさとの空気を味わいたくて、もう一度深呼吸をしようとした僕に……
「ばぁっ!!」
背後から突然、首元にしがみつくような形でエリちゃんがくっついてきた。
「ばぁ、じゃないよ、驚いたなぁ……。どうしたの?」
「なんか、いちゃいちゃしたくなってきた!」
「……ここ、駅」
「あははっ! じゃあ、押しくらまんじゅう!! 押されて泣いちゃえっ!!」
「うわっ、ちょっと危ないって!! どうしたっていうの急に!!」
「……なんかさぁ、ちっちゃい頃はよくこんなことしてたなぁって思うと、懐かしくてね……」
彼女のその言葉に、僕は不覚にも哀愁を感じてしまった。
あの頃は毎日のように、こんなことしてたんだよな。どろんこになるまで二人で走り回って、おじいちゃんと一緒に畑の作業手伝ったりしてさ。川じゃドジョウもすくったし、夏はカブトムシも捕った。
……だけどそんなこの町も。
「……変わったね」
……エリちゃんが、そっと呟いた。
「うん。いつの間にこんなに建物が増えたんだろう。……ほら、あそこ」
「ん?」
「あそこは昔、栗林だったのに。コンビニになってる」
「ほんとうだ」
「もう、あそこで栗拾いできないのかぁ……」
「あはは、そういえばリンちゃん、イガの上で思いっきり尻餅ついてさ。お尻にめっちゃトゲ刺さったんだよね! 私が抜いてあげたの、覚えてる?」
そういえばそんなことも……って、それは僕の黒歴史じゃないか!!
「ば……バカ!! 余計なこと思い出すなよ!! しかも、抜くの下手くそだったしエリちゃん!! まだ残ってたらどうしてくれんの!?」
「えー、なにその言い草!! ギャン泣きしてたくせに!! わかった、もし残ってたら今抜いてあげるから、見せろっ!!」
「えっ、ちょ、だから止めろって!!」
結構本気で、エリちゃんから逃げる僕。……そうだった、エリちゃんってもともと、こんなやんちゃな性格だったんだ。地元の空気吸って、化けの皮が剥がれてきたな……。カナちゃんだった頃とは、まるで別人じゃないか。僕的には、カナちゃんの方が良かったんだけど。
「リンちゃん待ってよぉー!! 冗談だよぉー!! そんなに本気で逃げないでってばぁ!!」
……いや、やっぱりエリちゃんの方がいいかも。エリちゃんの方がいいな。あの夢の女の子の通りなんだもん、エリちゃん。当たり前だけど。
そのまま僕たちは、思い出を回収してゆくように、子供の頃お世話になった道を歩き続けた。
町は、変わっているところと変わっていないところがあった。遠くにそびえ立つ山々はもちろんそのままだし、おじいちゃんと一緒に作物を育てた広大な田畑も、およそそのまま残っている。でも、僕たちが遊んだ思い出の場所は……
「……いづも商店、無くなっちゃったんだね」
……多くの場所が、その面影を残していなかった。
「うん……。リンちゃんがこの町を出て少ししてからかな、都市化計画で道路を増やすことになってね。ばあちゃんの親族が、土地を売っちゃったんだって」
鬱蒼と生い茂った竹藪の中にぽつんと佇んでいたその店は、見渡しのいい大きな道路へと、いつの間にかその姿を変えていた。
「……切ないな」
「そうだね」
……目の前に広がる現実をぼんやりと見つめたまま、しばらく言葉が出ない僕たち。
「……とっておいてくれてたの」
少しして、エリちゃんがぽつりと呟いた。
「……え?」
「いづもの……ばあちゃん。私があげたガラクタを、全部……とっておいてくれてたの。綺麗な小物入れに入れて」
「……そう……だったんだ」
いづものおばちゃんが亡くなったのは、僕が高校一年生のときだった。
さすがにその頃には、僕もエリちゃんもいづも商店からは足が遠のいていて……。最後に行ったのがいつだったのかも分からないくらい、おばちゃんには会っていなかった。
きっとおばちゃんは、僕たち二人が再び訪れる日を、ずっと待っていたに違いない。高齢になって、過疎が進んで子供もほとんど来てくれなくなったのに、おばちゃんはいつも……店に立っていたそうだ。
そんなおばちゃんは、店のレジの前で、その最期を迎えていた。いわゆる、孤独死だった。おばちゃんがそんな状態で発見されたと聞いて、僕もエリちゃんも、溢れる涙を止めることができなかった。
「……あの後ね、親族の方が……私に尋ねてきたの。綺麗な白い小物入れに、エリちゃんの宝物……っていうメモと、ビー玉だの歯車だのどんぐりだの、色々入ってたんだけど、身に覚えありますか? ……って」
エリちゃんの頬には、一筋の涙がこぼれていた。
「嬉しかったなぁ、私。成長してからはずっと、『迷惑なことしてたな』……って思ってたからさ。……なんだか、急にばあちゃんに会いたくなってきちゃった。……ばあちゃんもいづも商店も、……消えちゃったのにね」
ハンカチで涙を拭いてから、彼女は空を見上げる。そして……
「うーさーぎーおーいしー……かーのーやーまー……」
おもむろに口ずさみ始めたその曲は、「ふるさと」だった。
「ゆぅーめーはーいーまーもー……」
その美しい歌声は、おじいちゃんと僕とエリちゃんの3人でいづも商店に通った日々を、心に蘇らせる。無邪気で、素直だったあの頃……。
「わーすーれーがーたきー……ふーるーさーとー……」
……そしていつからだっただろうか。彼女がこの曲を歌わなくなったのは。
「……久しぶりに聴いた」
歌い終わってもなお空を見続ける彼女に、僕は言った。
「……ちっちゃい頃は、恥ずかしげもなくいつも歌ってたのにね。ばあちゃんの前でも歌ったなぁ。今はリンちゃんの前で歌うのも恥ずかしい。……大人になるって、寂しいね」
そうして再び、いづも商店があった場所を神妙な表情で見つめるエリちゃん。
「もう二度と、あの日々は戻ってこないのかな。思い出の場所も、時の流れとともに消えてしまうのかな……」
「……思い出を証明してくれるものが残っていても、僕たちが覚えてなければ意味がない。……大切なのは、僕たちの記憶だと思う」
僕はエリちゃんに、僕の出した結論を語った。
「過去は、僕たちの記憶の中にしか残らないのかもしれない。でも、記憶の中にあれば十分だ。その過去は、記憶とともにあり続ける」
だから、と僕は続けた。
「もう二度と、この記憶が無くならないことを祈ろう。苦しかったことも、嬉しかったことも、楽しかったことも。全部含めて、僕たちの思い出だ」
「……そうだね」
ニッコリ微笑むエリちゃん。彼女につられて、僕も笑った。
「それに、僕たちにはまだまだこれからがある。今のこの瞬間も、未来の思い出になる。だから、歩こう。色々な思い出を作りながら、いつまでも」
「……うん!!」
笑顔を取り戻したエリちゃんは、僕とともに再び歩き始めたのだった。……「ふるさと」を口ずさみながら。
お昼は、これまた子供の頃によく訪れたうどん屋さんで食べた。店内は改装されていて、ずいぶんと近代的な雰囲気になっていたけれど。
「……結局、おじいちゃんはいづものおばちゃんのことが好きだったのかな」
ごくりとうどんを飲み込んでから、僕は尋ねた。
……いづものおばちゃんが亡くなってから、その後を追うようにして肺炎で亡くなったおじいちゃんのことを……思い出しながら。
「じいちゃんは……」
エリちゃんが続けた。
「戦後の焼け野原で、いづものばあちゃんと出会ったんだって。ばあちゃんは徴兵で彼を亡くしていて、その時は小さな息子と二人だけだった」
そこまで言うと、彼女はうどんをズズッとすすった。
「そっか……。おじいちゃんも確か、奥さんと死別したんじゃなかったっけ?」
「……うん」
ゴクリと、うどんを飲み込むエリちゃん。
「奥さん……ってか私のばあちゃんは、私のお父さんを山の中で産んで、感染症にかかって亡くなったらしいよ。……町に焼夷弾が落とされて、逃げてる最中だったとか……」
「そうだったんだ」
僕も、うどんをすすった。
「戦争が終わって、焼け野原で出会って……。しばらくは、一緒に暮らしてたみたい。一時、本当に夫婦みたいな生活をしていたことがあったって……ばあちゃん言ってた。でも……」
そっと箸を置いて、寂しそうにため息を吐くエリちゃん。
「やっぱり、お互いにお互いの相手が忘れられなかったみたいで……。結局、結婚しないまま別れちゃったんだって」
「……なんだか、記憶が戻る前の僕たちみたいだね」
「……うん」
そのまま、しばらく無言になる。「いらっしゃいませー」という店員の声が、店内にこだました。
「だけどね」
エリちゃんが再び、口を開いた。
「……じいちゃんもばあちゃんも、本当は……結婚したかったんだと思う。……私だってあの時……、出て行きたくなかったから。だから、分かる」
あの時というのは、記憶を取り戻したときのことだろう。
「……いづも商店に行くと、じいちゃんは本当に嬉しそうだった。ずっと好きだったんだ、ばあちゃんのこと。ばあちゃんだってたぶん……」
あの時、どうしてエリちゃんは家を出て行ってしまったのか。
僕に対して申し訳ないから――。本当に、それが動機だったんだろうか。おじいちゃんが結婚しなかった理由と、エリちゃんが出て行った理由は、……ひょっとしたら……同じなのかもしれない。
「……さて、帰ろう」
僕は立ち上がった。
「えっ、もう? だって電車はまだしばらく……」
「何言ってんの、アパートじゃないよ。家だよ。僕たちが生まれ育った、あの家に。挨拶しなくちゃ、二人に。色々なことをね」
「……あ、そか。私たちの家、この町だったね。まだ記憶が……」
「ちょっと! 本気で言ってる!? エリちゃんのお父さんとお母さん、泣いちゃうよ?」
「……驚くかな、二人とも。驚いて泣いちゃうかも」
僕たちは、新たなスタートを切るために。僕たちの、スタート地点へ戻ってきた。
「……お母さん、お父さん、ただいま。絵梨佳だよ。それから……」
この日に起きた奇跡を。僕たちは、死ぬまで忘れないことだろう。
「隣にいるのが、……磯本凛太朗くん」