事故の真相
「お義母さん、元気そうで良かったね」
助手席に座っていた母が、ほっと安心したような笑顔でそう呟いた。
あの事故は確か、新年の挨拶をするために父親方の実家へ行き、帰ってくる途中で起きたんだ。日付は一月三日。2年前におじいさんが死んで、一人ぼっちになっていたおばあさんを、母はいつも心配していたっけ……。
「もう少し近ければいいんだけどなぁ」
父が、ため息をつきながら呟く。
父の実家は東京にある。僕たち家族のいる県から東京までは四百キロ以上あって、会いに行くのも一苦労だった。この日も、高速を使って片道五時間ほどかかる道のりを、車で飛ばしていたんだけど……。
「ちょっとお父さん、スピード出しすぎじゃない……?」
母のその言葉は、僕にしてみればいつも通りのぼやきだった。……この後にあんな事故に巻き込まれるなんて、想像もしていなかったと思う。
早く家に帰りたいという気持ちの焦りと、長時間に渡って運転を続けたことによる疲弊が、父の判断力を鈍らせていたのは言うまでもない。それでも、このまま普段通りに事が運べば、無事に家にたどり着けるハズだった。
あの、悪魔のトラックの後ろにさえつかなければ……。
そのとき、僕たちの車もそのトラックも、追い越し車線を走っていた。トラックの速度は多分、百三十キロほど出ていたと思う。それもあって、この時点では十分すぎるほどの車間距離があった。
そして間もなく、もう一台の乗用車が、僕たちの車とトラックの間へ走行車線から割り入ってきた。
悪夢は、その次の瞬間に僕たちを襲ったんだ。
「ち……ちょっとお父さん!! ブレー……」
覚えているのは、母の焦燥に満ちた叫び声。ただそれだけだ。
なぜか、トラックが急停止した。乗用車が入ってきた直後で車間も十分ではなかった後続の二台は、なすすべもなく次々に衝突する。車の持っていた膨大な運動エネルギーが一瞬で解放され、車は、瞬間的にぺしゃんことなった。
シートベルトで固定されていた僕の体は、信じられないような力を前方に受けた。シートベルトと椅子との間に挟まれた体の内側から、バキバキッと不気味な音が響く。喉の奥に血の味を感じた頃には、車はもう、ズタズタになって停止していた。
それでも、最後尾の車の後部座席という、一番安全な場所に座っていた僕は、かなりマシな方だったと思う。アバラは2,3本折れただろうけど、その程度で済んだのだから。
だけど、僕の両親はもう……一見してダメだということが分かるくらいに、ぐちゃぐちゃになっていた。むなしく膨らんだエアバッグも、この速度ではほとんど機能しなかったようだ。
……数十秒。ほんの数十秒の間に、父と母の全てが……奪われてしまった。
僕たちの車とトラックの間に挟まれたもう一台の乗用車は、さらに悲惨なことになっていた。……人間を中に乗せたまま、スクラップにされたようなものだ。……生存者がいるとは、とても思えない。
つまり、今生きているのは……僕と、恐らくトラックの運転手だけだ。
……事故の瞬間は、そう思っていた。だけどすぐに、そうではないことに気がついたんだ。
グシャグシャに潰れた前の車の後部座席に、助けを求める女性の姿が見えたから。ツインテールの、少し幼い雰囲気が残る女性だった。多分、高校生くらいだろう。
……僕は無意識のうちに、その子とエリちゃんを重ねてしまった。あの女性に対する情が、無闇に膨らんでゆく。……あの子が苦しんで死んでゆく姿を、想像したくなかった。
今生きているんだ、死にはしない。これ以上状況が悪化することはないハズだ。最初はそう踏んでいた僕も、車内に広がるガソリンの臭気に気づき、不安を覚え始めた。どうやら、前の車の燃料庫が破損しているらしい。
……もし引火したら、彼女は……。僕の目の前で炎に巻かれ、もがき苦しみながら焼け死んでいくことになる。いや、そもそも僕だって、無事かどうかはわからない。
あの女性は泣いていた。泣き叫んで、必死に助けを求めていた。……今僕が助けに行けば、間に合うかもしれない。
僕は自分の状況を棚に上げ、彼女を助けるために車から這い出した。痛む胸を押さえながら、血の味がする唾液を飲み込みながら、ゆっくりと、彼女のもとへ歩いて行く。
「お兄ちゃん、おにいぃちゃぁぁあんっ!!」
現場に辿り着いて初めて、後部座席にもう一人、搭乗者がいたことを知った。……どうやらその人は、彼女の兄らしい。歳はきっと、僕と同じくらいなんだろうな。
「よ……よせ、見るんじゃ……ない……」
僕は、ひしゃげて外れてしまったドアの隙間から、彼女にそう言った。血まみれになり、出てはいけないようなものが色々なところから飛び出している彼に、望みのかけらもなかったからだ。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん起きてよぉぉおっ!!」
それでも彼女は、必死に呼びかけていた。……そうか、この子は助けを求めていたんじゃなくて、兄を……助けようとしていたんだ。
「……わかった、僕が運び出す」
このままじゃきっと、この子は外に出ない。そう判断した僕は、最初に、血まみれの兄を車の外に出すことにした。どう見てもすでに息絶えている彼を、僕は彼女にバレないように……やや強引に、引きずり出した。
今考えれば恐ろしいことだけど、あの時は状況が僕の神経を完全に麻痺させていた。彼女の見えていないところで、鉄片を使って彼の肉をえぐり取り、挟まっていた部分を引きちぎったんだ。僕の手は血と脂肪分でベトベトになり、生臭い臭気が鼻を突いた。
ようやく外に出すことが出来た彼を、僕は近くの地面に横たえる。
「さぁ、次は君の番だ」
「お兄ちゃんは!? お兄ちゃんは大丈夫!?」
「うん。だからもう、心配しなくていいよ。とにかく、君も早く外へ。ここは危ないから。動ける?」
彼女がいた部分は、奇跡的にというか、上手い具合に空間が出来ていた。
「なんとか……。でも、足が……!!」
「わかった、一緒にはずそう」
僕は車の中に乗り込み、彼女の足下に手を突っ込んだ。確かに、何か金属片のようなものが彼女の足を挟んでいる。どうにかしようにも、僕の力じゃどうにもできなかった。だけど、彼女を置いて逃げることなんてできなくて、そして……
『ズドォオン!!』
何が起きたのかなんて、分からなかった。反射的に、彼女に覆い被さる僕。熱いのか冷たいのか、痛いのか痛くないのか、どうにも感知できないような感覚が全身を包み込み、同時に僕の意識も闇に包まれていった。
僕が目を覚ましたとき、そこは病院だった。色々な機械が接続された大きなベッドの上に横たわっていて、その隣では、片目と鼻、口を残して、全身のほとんどを包帯でぐるぐる巻きにされた誰かが、「痛い、助けて」と、繰り返し叫んでいた。
このときすでに、僕の記憶は失われていて、自分がどうしてこのような状況に陥っているのか、全く分かっていなかった。……恐らく隣にいたのはあの時の女性で、この時点では生きていたんだと思う。何度も夢に出来てたのは、たぶんこのシーンだ。僕も彼女と同じように、全身が包帯ぐるぐるまきだったんだろうな。
僕はその後、皮膚移植にも成功して、奇跡的な回復を見せたらしい。だけど彼女は、治療の途中で息絶えたようだ。主治医の先生から「妹さんは亡くなりました」という報告を受けて、困惑した記憶が残っている。その時の僕は、なんのことだかさっぱり分からなかった。
……話をまとめると。僕があのとき外に運び出した彼こそが、「新井和馬」くん、その人だったということ。その後僕があの車に乗り込み、彼の妹と一緒にいたので、僕が新井和馬くんだと判断されてしまったのだ。
生存者が僕しかいなかったのも、この取り違えに拍車をかけることになった。せめてあの女性が生きていれば、僕が別人だということを見抜いてくれた可能性は高かったのに……。
「……こういう……わけさ」
エリちゃんに全てを話し終える頃には、僕はボロボロと涙を流していた。母さんも父さんも、そして必死に助けようとしたあの女性も死んだという事実が、今更ながら突き刺さってくる。彼……新井和馬くんの最期の光景も、僕の心を痛めつけた。
こんなの、辛くないハズがない。正常でいられるハズがない。……だから僕の脳は、記憶を捨てたんだ。この現実から逃げ、精神を守るために……。悲しみから逃れるために……。そんな僕を、エリちゃんはそっと、抱きしめてくれた。
「大変……だったね……」
……彼女もまた、泣いていた。僕は、嗚咽が漏れないように歯を食いしばりながら、泣いた。駅に着いたのは、それから間もなくだった。