取り戻した記憶
「うそ……だろ……?」
僕の手から、スープの材料の入った袋が、ストンと落ちた。
脳内が真っ白に染まってゆく。だけどその頭の片隅で、「やっぱり……」と納得する自分もいた。
……全部思い出したんだ、カナちゃんは。恐らく、昨日の晩に。だからずっと泣いていた。薄々分かってはいたけど、僕には、何をすることも出来なかった。分かっていても、どうにも出来なかった。何も言えなかった。
……記憶を取り戻したかと思うと、怖かったんだ。その時点で僕はもう、他人になってしまったような気がして。
リビングにあるテーブルには、昨日作ったケーキがそのまま置かれていた。この気温だから腐ってはいないだろうけど、上に乗ったドラゴンフルーツはカピカピになっていた。
昨日の寝不足に追い打ちをかけられて、何が何だか分からなくなっていた僕は……。テーブルの前にどかっと座ると、素手でケーキを鷲づかみにしてちぎり取り、口に運んだ。
「……うめぇ」
ケーキは美味しかった。すごく、すごく美味しかった。僕の手は止まらなくて、次から次へとケーキを貪り食い、気がつけば……完食していた。
……だけど、僕は空っぽだった。何も満たされなかった。……その時。
「……なんだこれ」
僕の目に、茶色い封筒のようなものが映った。それがあったのは、ケーキを乗せていた皿の下。完食した後に何気なく皿をどかしたら、下から出てきたんだ。
封筒を開けると、中には現金10万円と、手紙が一枚、入っていた。僕は何も考えずに、その手紙を開いた。
『新井和馬様。今まで、本当にありがとうございました。突然の退去をお許しください。全く足りないとは思いますが、今までの生活費として十万円を同封します。コレが私の精一杯です、ごめんなさい』
……僕の心は、もはや何も感じなかった。そのまま、続きを読み進める。
『昨日の夜、私は……全てを思い出してしまいました。あの日、私が自殺しようとして、それを和馬さんが助けてくれたことも。そして、どうして死のうとしたのかも。何もかもです』
そんなこと、言われなくても分かってる。心の中でそう呟くも、余計にむなしくなるだけだった。
『私には、大切な人がいました。苦楽をともにし、青春を、夢を語り合い、結婚まで考えていた、大切な人が。……その方に、先立たれてしまいました。耐えられなかったんです、私は。彼なしの生活に』
……そうだと思った。……完全に、僕が推理した通りじゃないか。
『私は衝動的に身を投げました。自分でもよく分かってなかったと思います。あるいはもう、その時から記憶は無かったのかもしれません。気がついたら、私は和馬さんの腕の中にいました』
……あの日の出来事が、僕の脳の中で鮮明に再現されてゆく。
『私は記憶を失っていましたけど、彼のことは……覚えていたんだと思います。和馬さんと初めて会ったとき、私は多分、彼と和馬さんを重ね合わせていました。無意識のうちに』
確かにそうだった。黙ってずっと、僕の方を見ていたっけ……。
『どうして初対面の方にそんなことをしたのか。……今なら分かります。そっくりだったんです、声が。私の大好きな彼と。その声に私は居心地の良さを感じて、一緒に暮らそうと思い始めたんです』
声……。彼女が親近感を抱いていたのは、僕の「声」だったのか。道理で、こんな顔でも良かったわけだ。
『今思い返すと、和馬さんは……仕草や性格まで彼にそっくりでした。記憶が無い間も、心のどこかでそれに気づいていたと思います。全てを思い出した今も、あなたと一緒にいたいと思う気持ちはあるんです』
だったらどうして……。どうして、君はいなくなったんだ……?
『でも……。私が好きなのは、和馬さんではなくて「彼」です。彼の代わりに和馬さんを好きになるという行為も、それをする自分も、許せません。和馬さんにも申し訳ない。……だから私は、消えます。和馬さんは、「和馬さんのことを」好きになってくれる方と、結ばれてください。私が愛しているのは、これからもずっと、「彼」だけです』
「君以上にしっくりくる人間が、他にいるわけないだろう……!? 僕は代わりで良かったのに……!! 代わりで十分だったのに……!! なんで……」
僕はくしゃりと手紙を握りしめて……。ようやく、泣き始めた。
『その人が生き返ったら、私は振られるってことじゃないですか、つまり。あくまでも好きなのは私じゃなくて「その人」で、私は代わりってことですよね? 死んだ人は生き返らないけど、それじゃあ悲しいです』
蘇る、カナちゃんの言葉。僕はよくても、彼女は許せないんだ。誰かの代わりに誰かを好きになる、という行為そのものが……。
「もう、会えないのか……」
僕はテーブルに突っ伏して、力なく呟いた。会えないだろうな、もう二度と。半年も一緒に住んでおきながら、僕は……彼女の名前すら知らないんだもの。もうあの声も聞けないし、あどけないあの笑顔も見ることはできない。
買ってあげた服や絵の具を見る度に、カナちゃんとの日々を思い出す。この「記憶」だけが僕の中に残り、永遠に僕を苦しめ続けるんだ。今となっては、存在したかどうかすら分からない「過去」のくせに。
……そう。全てが過ぎ去り彼女が消えた今、僕たちの過去を証明するものは何も無い。あるいは全部、僕の妄想だったのかもしれない。……この絵も、この手紙も。「彼女」という存在を生み出すために、僕一人で作り上げたものかもしれないんだ。……そう思うと、苦しくてたまらなかった。
……もはや、夢に出てくるあの少女と同じだ。カナちゃんが実在したのかどうかさえ、今の僕には確認する手段がないのだから。
「……記憶が消えるって、幸せなことだったんだな」
もう一度記憶喪失になれば、この苦しみからも解放されるのだと思うと……。いままでの記憶を、消したくて仕方なかった。今、この瞬間のことだけが理解できれば、それで十分なのに。どうして苦しむことしかない記憶を、人は持ち続けるのだろう……。
いても立ってもいられなくて、僕は再び外に出ていた。……この苦しみから逃れる手段が記憶喪失以外にあるとすれば、それは……彼女を取り戻すことだけだ。
あの自殺が衝動で行われたということは、彼女の家がこの付近にある可能性は高い。最悪、彼女はもう一度……。……遠くの方で、救急車のサイレンがこだましている。……僕は走った。
いるかどうかも分からない彼女。あるかどうかも分からない過去。残っているのは僕の「記憶」だけ……。実際は全てが不確かなものなのに、僕の中の「確信」は消えなかった。
彼女と一緒に過ごした日々が存在したという、「確信」は。
町中を駆け回った僕は、最終的に……彼女と初めて出会った「あのビル」の前に来ていた。……そこにも、彼女の姿はなかった。ビルの周りをくまなく調べても、彼女の姿はない。僕はひとまず安心して、けれど同時に万策尽きた。途方に暮れ、アパートに戻る。
相変わらず、アパートには誰もいなかった。……当然、夕飯も出てこない。何を作る気にもなれなくて、疲労困憊となっていた僕は、畳んである布団の上に倒れ込んだ。倒れ込んで、泣いた。
嫌いになったわけでもなく、喧嘩したわけでもないのに。記憶を取り戻したというだけで、なんでここを出て行かなくちゃいけなかったんだろう。
だって、彼は死んだんだろ? 彼が待っていてくれているのなら諦めもつくけど、ここを出て行ったところで、君は悲しむしかないんだぞ? お互いに辛くて苦しいだけなのに、どうして離れなくちゃいけない?
私が愛しているのはこれからもずっと彼だけだ……って、じゃあ、君は一生一人でいるつもりなのか? ……あるいは既に、彼のところへ行ってしまったのか?
……そんなことは絶対に考えたくなかった。身の置き所の無い苦しさに襲われて、何度も体勢を変えたけど、どんな格好をしても楽にはならない。
……体は寝ようとしているのに、眠りたくないという気持ちが必死にブレーキをかけてくる。……夢の中で少女に会い、全てを思い出してしまうことが怖くて。
……カナちゃんという大きな支えを失った今、妹のことを思い出してしまったら。あの事故のことを思い出してしまったら。家族のことを思い出してしまったら。……僕は絶対に、乗り越えられない。
今更気づいても手の打ちようが無いけれど、カナちゃんという切り札は……諸刃の剣だった。そいて、ついに睡魔に抗うことが出来なくなった僕は、その目をそっと……閉じたのだった……。