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「うぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
元Aランク冒険者の全力が、壁ごと扉を切り裂き、轟音を立てて吹き飛ばした。
さらに剣閃が煌めく。
一つ、二つ、三つ、四つ、五つ。
連続して五度。
鋭い風切り音は嵐の豪風を連想させる。
その一つ一つが必殺の威力を秘めながら、速度も、角度も、繋ぎも、どれもが一流の域に達していた。
まさに達人の本気の剣。
素人どころか、かなりの使い手であっても抵抗の間もなく、瞬殺してのけるだろう猛攻。
それでも剣士は手を緩めない。
更に続けられる連撃は十を超え、二十に届いた。
しかし、その猛攻の主に余裕はない。
「手応えがねえ、だと!?」
むしろ、剣を振るうごとに焦りが加速しているのだろう。
汗が流れ、眉間が苦し気に歪み、知らずに舌打ちを漏らす。
そんな焦りをようやく自覚した剣士は、一息で飲み込んだ。
「――ひゅううぅぅぅ」
一呼吸。
動揺を飲み、精神を整え、空気を取り込み、魔力を溜め、練り上げ、瞬時に解き放つ。
ズンッと重い踏み込みが地面を揺らした。
「これで、どうだっ!!」
裂帛の気勢と共に放たれたのは横薙ぎの一撃。
大木の幹さえ断ち切りかねない剛剣。
事実、その軌道の内側にあった物は全てが断ち切られていた。
テーブル。ソファ。書類棚。並べられていた食器やワイングラス、額縁に飾られた絵画のような調度品まで。
素人目でも高級とわかるそれらが無残に斬って捨てられ、軽重様々な音を立てながら絨毯に転がっていく。
いや、それだけではない。
破壊は太刀筋の外側にまで達していた。
まるで剣先から見えない刃が伸びたかのように、三方の部屋の壁が抉られる光景には驚く他ない。
まして、剣の威力は壁さえも超えて、廊下の向こう側までを切り裂く程。
その軌道の先に在った全てが例外なく上下に断たれ、崩れ落ちている。
剣閃は館を抜け、夜の闇の向こうまで切り裂き、触れる全てを断ち切って消えていった。
剣腕。魔力。魔剣。
それらを高レベルで身に着けた者だけが放てる一撃。
Aランク冒険者の証。
破壊を逃れたのは僅か。
剣士の背後。
彼の守るべき対象がいる空間だけ。
そこには三つの影があった。
「は、はははは、はははははっ! すごい! 素晴らしい! これは想像以上ですな! これが元Aランク冒険者の実力ですな! 高い金を払った甲斐がありましたな! 実に素晴らしい!」
嬉々として笑い、唇を歪める小太りの中年。
剣士の力を実際に見たのは初めてだったのだろうか。
破壊しつくされた部屋の光景に声を失っていたのも僅か。すぐに哄笑を上げ始めた。手を打ち鳴らして歓喜に震える。
興奮した様子には狂気の欠片が覗いた。
「お兄ちゃぁん……」
「大丈夫だ。ぼくがついているから」
そして、残るは幼い兄妹の姿。
今にも泣きそうな妹を抱きしめた兄は怯えながらも、なお強い眼差しで逆転の隙を探し求めていた。
未熟かもしれない。
だが、強くて、優しい子だ。
そんな背後から聞こえる声に剣士の男は揺らがない。
残心の構えのまま辺りを睨み据え、僅かな敵の兆候も見逃すまいと警戒を続けていた。
だが、それも十秒、二十秒、三十秒と無為に時間が過ぎるまで。
「……やったか?」
ようやく構えを解いた。
それでも剣を鞘に納めず、次の襲撃に備える姿勢は強者の証だろう。
だが、今の声には迷いがあった。
勝利を確信したのではない。ただ、自らに言い聞かせるための声。
不安を、不吉を、不幸を少しでも遠くに追いやれればという怯えの感傷。
だから、きっと答えはこれに決まっていた。
「いや、やっていない」
声の出どころは男の懐。
囁くような呟きは、耳元という近さから。
だが、その声に男は反応しない。
反応できない。
届いてなくてはおかしい距離での声が、彼には聞こえていないのだ。
それどころか、直近に佇む声の主の姿さえ捉える事ができていなかった。
だから、続くそれを防げるはずもない。
懐。
直近。
男の胸。
その真中。
心臓の位置。
そこに武骨なナイフが突き立てられて、ようやく男は自らが殺されたと気づくのだった。
「終わりだ」
ナイフが抜かれる。
傷口を抉るような動作。
同時に、離れる。
剣士の男の胸から大量の鮮血が噴き出し、柔らかな絨毯を赤黒く汚した。
「――は、あぁ?」
末期の声。
そこには最期まで戸惑いが消えていなかった。
無理もない。
なにせ、彼は最後の最後。
死の直前どころか直後であってさえ、自らを殺した相手を目にできなかったのだから。
耳元で告げられた死刑宣告も、自らの心臓を抉ったナイフでさえも、まるで彼には感知できていなかった。
彼にとっての死神は彼の目の前にいたというのに。
最初から最後まで。
振るわれる剣をかわしながら、だんだんと入口から彼の近くにやってくるまでの間、ずっと、ずっと、ずっと俺は彼の正面にいたのに。
彼は俺に気づけなかった。
息が触れるほどの距離まで間合いを詰められても、なお。
「―――」
最早、声もなく沈む。
自らの血だまりに倒れこみ、動かない。
既に事切れている。
彼が自らを殺めたものの正体を、その絡繰りを知る事は永遠にない。
剣を閃かせ、剛剣を薙ぎ、部屋中に破壊の渦を巻き起こした剣士。
元Aランクの冒険者。
世間では一流と呼ばれる強者。
同業者からは尊敬と嫉妬を、子供たちからは勇者のように称えられるべき存在にあるまじき、あまりに呆気ない最期だった。
「冒険者のままでいればよかったのにな」
届かないと知っていて一言。
俺は剣士の男を一瞥し、呆然と立ち尽くす三人へと歩を進める。
「ひひひっ……。ん、どうし――ひ、ひいっ! し、死んでる!?」
唐突に倒れた護衛と、そこから広がる血だまりの臭気。
それに気づいた男は哄笑から一転して悲鳴を上げる。
小太りの男は後ろに下がろうとして、近くで同じく驚きに硬直していた兄妹にぶつかって、そのまま尻もちをついた。
兄妹には目もくれない。
がくがくと膝が震えている。
カチカチと鳴り続けているのは歯の根が合わないためか。
脂汗に塗れたか顔で、ぎょろぎょろと動き回る血走った目で、見つめる。
俺としっかり目が合っているのだから、当然だ。
たった今、己の護衛である剣士の血で濡れたナイフを持った男が目の前にいて、ゆっくりと近づいているのだから。
「は? ……え? ええっ!? な、なにが、どうなったのですかな!? おい……おい! おいいいいいぃぃぃぃぃぃぃぃっ! 何を遊んでいる! 起きろ! 戦え! 儂を守らんかあああああああああああっ!! だ、誰か! 誰かああああっ! 儂を助けろっ!」
叫ぶが、応えはない。
死者は動かない。
そして、誰もやってこない。
深夜の屋敷。
豪邸と呼ばれる規模。
その内で現在、生きている者はこの部屋の四人だけ。
住み込みの使用人はとうに逃げ散っている。
そして、部下も護衛も既にいない。
この部屋に来る前に、俺が一人残らず殺した。
「お前、お前えええっ! 貴様には金貨百枚もくれてやったんだぞ!? その分、働くんだ! 死んでる場合か! 働け! 尽くせ! 儂を守る義務が――ひいっ!?」
それでも小太りの中年は叫び、怒鳴り、奇声を上げつづけ、唐突に罵声を止める。
どうしたのか?
少し考えて、ようやく気付いた。
彼は俺に睨まれて怯えたのか。
睨んでいた事実に軽く驚く。
どうやら俺は剣士の男が貶められて、不快に感じているらしい。
縁もゆかりもなかったどころか、殺した俺が同情するのは妙な話だと思いつつも答える。
「金貨百枚分の仕事はしただろう」
ただ、金貨百枚程度ではどうにもならなかっただけだ。
言外の事実に気付いたのか、あるいは単に俺の殺気にあてられたのか、男はさらに怯えを酷くした。
顔面を汗か、涙か、つばか、鼻水か、よくわからない液体で濡らしている。
彼の心の安寧を慮る理由は微塵もない。
だから、容赦なく間合いを詰める。
遅くも速くもない、ただ自然の歩みで、淡々と、確実に。
血塗られたナイフを手に。
「どうして! どうしてどうしてどうして! どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして!?」
彼の脳内では様々な疑問で溢れているのだろう。
どうして自分がこんな目に遭うのか?
どうして護衛の男が為す術もなく殺されてしまったのか?
どうして……。
「どうして、貴様はいきなり現れたんだあっ!?」
その疑問への答えは簡潔に済む。
剣士の男には見えなかった。
俺が見えないようにしたから。
彼には俺が見えた。
俺が見えるようにしたから。
それが契約によって発現した俺の権能――『絶縁』。
他者から一切認識されなくなる究極の隠蔽能力。
目に映らず、耳に聞こえず、鼻に香らず、肌に感じず、空気の味さえ消え失せる。
だが、それを懇切丁寧に教える義理はない。
人に教えを与えるのは素晴らしい事だが、知識を送る相手は選ばなければならない。
だから、彼の疑問には一言だけ送る。
「それをお前が知っても意味がない」
冷徹なナイフの煌めきが赤い軌跡を描いた。
ただし、刃は使わない。
柄尻で頬を打ち据える。
「げひゃああああ!?」
大げさに痛がって床を転がり回る男の腹を踏みつけにし、その顔にナイフの切っ先を突きつける。
血の雫がぽたぽたと落ちると、ようやく暴れるのをやめた。
真っ赤になっていた顔がすぐに青褪めていく。
「ひ、ひいぃぃぃ。なんで、どうして、儂がこんな目に……」
それは簡単な疑問だ。
「やりすぎたからだ」
商売も、趣味も。
だから、目につけられた。
だから、罰が下る。
さて、後は始末するだけだが、その前に聞きたい事がある。
「……これは?」
近くに落ちていたそれに気付いた。
様々な金具を絡めてできた腕輪みたいな物。
魔石がつけられているのだから、魔導具なのだろう。
「あ」
今まで黙っていたエルフの兄が声をもらした。
目を向けると、ビクッと震えた。
だが、すぐに妹の手を握りしめて、睨み返してくる。
強気な事だ。
しかし、意地の張りどころを間違えてもいる。
おそらく、人間に対して悪感情を自然と抱いてしまうのだろうが、ここは無害を装うか逃げるべきだろうに。
正体不明の暗殺者を前に、興味を引く様な言動はよくない。まして敵対的なものは論外だった。
ともあれ、今は関係ない話か。
「これはなんだ?」
「そ、それは、その男が用意した魔導具だ。ぼくをしつけるために使うって」
しつけ、か。
得ているヨーシャークの情報から想像すれば、ろくでもない意味にしかとらえられない。
「そうか。その情報の代わりに見逃してやる。どことなりにでも消えろ」
「え?」
命拾いしたというのに、エルフの兄妹は動かない。
驚いた顔で俺を見ている。
「どうした?」
「見逃すのか? ぼくたちを」
逃げようと背中を向けたところを襲われる。
そんなふうに警戒している様だ。
「構わん。消えろ」
「ぼくは、お前の顔を見ているんだぞ?」
探るような言葉。
じっと俺の顔を見つめる視線。
そうか。顔を見られた暗殺者からすれば、目撃者の始末は当然だろう。
ただし、それは普通の暗殺者ならば、だ。
「消されたいなら残れ。生きたいなら消えろ」
「お兄ちゃん。行こう? きっと、だいじょうぶだよ」
「けど! ……いや、うん。わかった。行こう」
兄妹の間で何やら納得できたらしい。
兄が早足に、でも警戒しながら妹の手を引いて部屋を出ていく。
妹は俺に小さく手を振っていたのだが、大物なのか、頭のねじが緩いのか判断が難しいところだ。
あの二人が大森林にあるというエルフの隠れ里に帰るのか、それとも以前に使っていた住み家に帰るのか、それは知らない。
後は兄妹の運命に任せるしかないだろう。
当初の目的は終わった。
後は俺の用事だけだ。
屋敷から逃げ出した人たちが騎士の詰所に駆け込んで、巡回騎士が駆け付けるまで時間はあまりないだろう。
それまでに聞きたい事を聞き出さなくてはならない
拾った魔導具を主人の胸の上に落とす。
「つけろ」
「え、いや、それは……ですな?」
「黙れ。つけろ」
「で、でもぅ、これ、これ、これはぁ」
三度目はない。
ナイフで片耳を斬り落とした。
「ひゃぎゃああああああああああああああああああああああっ!? 痛い痛い痛い痛い痛いいいいいいっ! 血が、血が出て! 死んでしまうぅぅぅぅぅ……」
暴れるのを踏みつけ、見下ろした。
「十、九、八、七、六……」
ゆっくりと数える。
静かに、淡々と。
「ひぃぃぃぃぃぃ。やだ、いやだ、やだやだやだ」
「五、四、三……」
ナイフを再び持ち上げる。
主人の目がこれ以上にない程に見開いて、涙があふれだした。
「ああああああああああああああ。つける。つける! つけるから! つければいいんだろう、つければ!?」
わめきながら、震えながら、自棄になって叫ぶ主人。
よろよろとした動きで魔導具を腕につけた。
「その魔導具はどうやったら発動する?」
「そ、それは……」
胸を踏みつける足に力を入れる。
ミシミシと骨が軋む音がよく聞こえたのだろう。
圧迫感に主人の顔色が青を超えて、白くなっていく。
泡を吹く寸前で力を抜いた。
「ひゅー! ひゅー! ひゅー! ひゅ、ひゅぅぅぅぅ……」
「言え」
「はっ、はっ、はっ、はあっ。はあ、はあ……やだ、いやだ。それだけは、許してくれ。どうか、許してくれぇ」
再び足に力を入れる。
今度はゆっくりと、ゆっくりと、しかし、確実に――十を数えるように。
「や、やめてえええええ! マジックワードだ! マジックワードを唱えると発動する! マジックワードは古語で『痛み』――!」
わめき声が止まった。
主人は限界まで目と口を開き、声にならない絶叫を上げている。体を弓なりに反らして、息もできずに彫刻のように固まっていた。
どうやら今の言葉に反応して魔導具が反応したらしい。
魔導具の輝きが止まるまで三十秒、ずっとだ。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!」
痛みから解放された主人が床を暴れ回りながら叫ぶ。
あらゆる体液をまき散らしながら、のたうち回る姿に人の尊厳はどこにもない。
しつけどころではない。尋問用ではなく、拷問用の魔導具だったようだ。
痛みの後遺症が収まるまで待ち、手足を投げ出して痙攣している主人に俺は告げる。
「俺の質問に答えろ。黙っても、騙しても、それ以外に余計な言葉を口にしても魔導具を使う」
「た、たしゅけ、たしゅけて、たちゅけて、くだちゃい……」
「『痛み』」
一気に老け込んだように見える主人に容赦なく告げる。
再び体を跳ねさせる主人を眺め、痛みから暴れ回り、小康状態に戻るまで待って告げる。
「命乞いも余計な言葉だ。ただ、聞かれた事だけに答えろ」
沈黙が下りる。
主人――だった男がガチガチと歯を鳴らす音だけが残った。
やっと準備ができたか。本職ではないからうまくいかないものだ。
「さあ、教えてもらうぞ」
俺はヨーシャーク商会の黒幕について尋ねるのだった。
三十分後。
商会員の通報で駆け付けた巡回騎士が目にしたのは、屋敷の入り口に積み上げられた書類の山だった。
ざっと目にしただけでもヨーシャーク商会が働いていた悪事の証拠である。
騎士に同道していた商会員の青褪めた顔色から、それが致命的な情報だと知れた。
そして、肝心の被害者、あるいは現時点で別件の容疑者になった商会長ヨーシャークを探して屋敷に踏み込んだ騎士は見つけるのだった。
この世の終わりを見たような壮絶な形相のまま絶命しているヨーシャークを。