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「いけませんなあ」
ねちゃりとべとつく様な声。
続けてパンっと軽い音。
目を開ければ高級ソファに座った男が目に入った。
一言でいえば巨漢。
ただし、よい意味では言われない巨漢だろう。
弛んだ脂肪を体中にまとわせた不健康そうな中年だ。
脂ぎった肌。肥満した腹。太く短い手足。体型だけならドワーフに近いが、一緒にされればあいつらは怒り狂うだろう。
質実剛健な生き方を好むドワーフからすると、中年男の派手なだけの衣装なんかは唾を吐きつけられそうだ。
かくいう俺も同感だ。高い布地に、無駄に濃い色の染色をして、細かな宝石をまぶせるなんて理解できなかった。
だが、そんな男でも雇い主。今の主人であり、護衛対象だ。
ヨーシャーク商会長のヨーシャーク。
王都の材木商を支配する男。
「これは、いけませんなあ」
同じ言葉を繰り返す。
先程までは今日帰ってきた部下の報告書に目を通していたはずだが、今は笑顔を部屋の隅に向けていた。
そこに立ち尽くしているのはエルフの兄妹。
森から帰ってきてすぐに連れてこられ、ずっと立ったまま待たされ続けていた。
もう二時間ほどだろうか。
妹の方は一人で立てなくなって、兄が支えてやっている。
兄の方も限界だろうに妹想いなものだ。
ともあれ、状況は先程と変わらない。
護衛対象は無事で、害する者は何もない。
なら、気にする事も何もない。
「あなたも思うでしょう? この二人はいけないと」
目を閉じようとしたら声を掛けられてしまった。
話しかけられたのを無視しては後々面倒になりそうだ。
視線をくれてやると、笑顔が返ってきた。まったく目が笑っていない、ただの笑顔の形をしただけの表情。
「……何がだ?」
「聞いてくださいよ。儂は今回、百年物の銘木を取ってくるよう命じたというのに……」
大げさに首を振る主人。
どうやら成果を出せなかったようだ。
「そんな物、もうない!」
それに反論したのはエルフの兄。
妹の前に立ちはだかり、毅然と主人を睨みつけている。
「森の近くにあった銘木はもう全部お前らが切り倒したじゃないか!」
傭兵の自分でもわかる。
木はすぐに大きくならない。
何年も、何十年も、何百年もかけて大きく育つ。
それを切り倒していけば、そのうち『次』がなくなるのは当然だ。
だが、主人は溜息を返した。
「なら、奥に行けばいいだけですなあ」
これもわかる。
近くにないなら、遠くまで取りにいけばいい。
だが、エルフの兄は強い語気で反対する。
「言っただろ! 森の奥は聖地だ! 精霊様が霊樹で守って下さっている場所だ! そんな場所に人間なんか連れて行けるか!」
エルフならではの決まりがあるのだろう。
その決まりを破ってまで案内するか、しないか。
当然、彼は後者を選んだわけだ。
そりゃあそうだ。
現在、酷い目に遭わされている彼らなら当然の判断だ。
「そう、霊樹。それですよ。儂はその霊樹がほしいんですなあ」
しかし、主人には通らない。
欲望に塗れた目で、今度こそ心から笑顔を浮かべている。
「貴様たちが教えてくれたんですなあ。精霊とエルフが育てる霊樹。樵の間で伝説となっている銘木が実在すると。伝説の霊樹。売ればどれほどの値が付くのか、考えるだけで興奮してしまいますなあ。貴族に、いえ、王族に……いえいえ、ここはあのお方に献上するべきですかなあ。ええ。ええ。最近はなかなかお会いできてないですからなあ。ここで大きな手土産を用意すれば、あのお方も再び儂を評価して下さるに決まっていますなあ」
ブツブツと独り言を繰り返している主人。
エルフの兄妹は青い顔だ。
霊樹の存在を彼らが主人に話してしまったのか。
「こんな奴だと知っていれば……ごめんな。クウの言う通りにしていたら、こんな事に」
「お兄ちゃん……」
悔しそうな兄と、心配そうに見上げる妹。
人間社会を知らないエルフ。それも子供となれば騙すのは簡単だったろう。
兄妹の声に主人が反応する。
欲に濁った目で二人を見つめ、ソファから重たそうに立ち上がった。
「なに、儂もエルフと戦争なんぞするつもりはないのですなあ。霊樹と言っても木は木。時間さえかければ元にもどるでしょう? 長生きのエルフにとっては大した時間ではないでしょうなあ?」
果たして本当に今の言葉で安心を引き出せると思っているのだか。
まあ、思ってないのだろう。
嗜虐に酔った口元を見るに、ろくな考えではなさそうだ。
部屋の隅で逃げ場のない兄妹に近づきながら、ポケットから取り出すのは金具の様な物。
複雑なパーツの組み合わせで、見ただけでは用途がわからない。ただ、棘のような突起が不安を煽った。
「それにこれは貴様たちにとっては当たり前の協力ですなあ。親探しの手伝いの代価なのですからなあ」
兄が悔しそうに顔を歪め、妹を強く抱きしめる。
そうだ。
この兄妹は王都で行方不明になった両親を探すために主人に協力しているのだ。
真実を知る者からすると、全く無駄な協力なのだが。
行方不明になった両親が既に死んでいて、他でもない目の前の男のせいで死んでいるのだから。
それを全く表に出さないまま主人は恩着せがましく続ける。
「子供とはいえ二人も養うのは安くないのですなあ。それに、この広い王都で人探しとなれば、大変な労力が必要になりますなあ。それがエルフの夫婦なんて滅多にお目に掛かれない相手ともなればなおさらですなあ。なのに、貴様たちは満足に働きもしないのですなあ。いやはや、エルフとは恩知らずな生き物なのですなあ?」
「……世話になっているのは、感謝、している」
「している? おやおや、言葉遣いもわからないようですなあ?」
「感謝……して、います」
拳を握りしめて、悔しそうに言い直す兄。
主人は満足げに頷いていた。
親の仇の男に、そうと知らないまま飼われ、屈辱に耐え、従う子供たちの姿に嗜虐心を満たさせている。
ろくでもない趣味だ。
「ふむふむ。いいでしょう。ようやく、話ができますなあ。では、話を戻して、罰の話ですなあ。悪い事をしたら、罰を受ける。当然の話ですなあ」
見せつけるように金具のかたまりを持ち上げる。
やたらと凶悪そうな見た目をしている。しているが、凶器というわけではないか。
棘といっても武器の様な類ではない。
魔石がついているという事は、魔導具の類か? 魔石の色が黒という事は、闇の属性。つまりは精神に作用する効果だろうか。
「おやおや、怯えさせてしまいましたかな? 安心なさい。これは怪我をさせてしまうような物ではありませんなあ。子供をしつけるための道具なのですなあ」
嘘をつけ。
どこの世界にそんな棘だらけな見た目のしつけ用具があるか。
思ったが、言わない。
だが、怪我をさせないという点は嘘じゃないだろう。
エルフの見た目を将来的な商売の道具に考えている主人の事だ。
怪我をさせて商品価値を下げたりはしない。
大方、身に着けた相手に『痛み』だけを与える魔導具、といったところか? それなら体は無事なまま、心を傷つけられる。
「さあ、これを腕につけなさい」
兄も妹も動かない。
当たり前だ。
怪しすぎる。
そうとわかっていながら、主人は説明しないままだった。
自分から手に取るように促すだけ。
ただ、思い出したように付け加える。
「ああ。これは貴重な物でしてなあ。一つしか用意できませんでしたなあ。どちらにつけてもらうか迷いますなあ」
「ぼくが、つける」
「んん? 聞こえませんなあ? 口のきき方の知らない子供はしつけてもダメかもしれないですなあ。なら、ここは妹の方を――」
「やめ――やめて、下さい! ……それをぼくにつけてください」
兄の方か。
まあ、そうだろう。
妹の方はまだ幼い。
しつけという名の虐待で命を削りかねない程に。
なら、兄が身代わりになるしかない。
「お兄ちゃん……」
「大丈夫。ぼくは、大丈夫だから。お前はなんの心配もいらないよ」
泣いて腰に抱きつく妹の頭をなでる兄。
美しい兄弟愛。
真っ当な人間なら感心するのだろうが、主人は笑みを歪めるだけ。
「自分から志願されては仕方ありませんなあ。ほら、早くつけなさい」
悔しそうに、同時に怖がっているのを隠そうと、手を伸ばす兄。
子供のやる事だ。
見え見えの強がり。
それが主人を愉しませている事にも気づかない。
誰かが真実を教えてやれば解決する話だ。
だが、その誰かがここには一人もいない。
利用している主人はもちろん、内情を知っている部下たちも、詳しい事情を知らない表の家人たちも。
主人の怒りを買えば身の破滅。自分を捨ててまで他人の子供を救う奴は多くない。
もちろん、俺もだ。
別に主人が怖いわけではないが、ここのような職場はなかなか手に入らない。それを失ってまで救いたいという気持ちは湧いてこなかった。
そもそも、俺はそんな善人ではないのだから当然だ。
結果、何も知らない子供たちが食い物にされる。
彼らの未来は暗い。
エルフの知識をさんざん利用されて、数年して成長すれば美しい容姿を使ってろくでもない働き方をされ、いずれは真実を知らされて絶望しながら死んでいく。
「ただ、それだけだ」
こんな悲劇、どこにでも転がっている。
この兄妹が特別なのではない。
力のない者は、力ある者に食い物にされるというだけの話。
つまらない終わりが見えている。
やっぱり、見ていても気分が悪くなるだけ。
そうと結論が出て、仕事に戻る。
そして、気付く。
「――は? なんなんだ、これは?」
思わず声でに出してしまう。
目の前のつまらない出来事から意識を他に向けようと考えて、周辺の気配を探った。
長年の冒険者生活で染みついた気配察知――周辺の魔力を感じ取ろうとして、気付いたのだ。
いつの間にか起きている異常事態に。
「気配がねえ?」
この屋敷の警備には多くの傭兵が配置されている。
入口だけではない。庭や廊下に、階段の踊り場に、詰所の部屋にもだ。
主も自分に敵が多いとわかっているのだろう。常に五十名もの男たちを雇い、屋敷の守りを固めさせている。
そんな過剰な警備を、金に飽かせて敷き続けていたというのに、傭兵たちの気配がいつの間にか感じ取れなくなっていた。
それも一人や二人じゃない。
そうならばこうも驚きはしない。不真面目な連中ばかりだ。持ち場を放れてどこぞで油を売っているのだろう。
だが、そうではなかった。
「一人もいねえだと?」
全ての傭兵の気配が消えている。
五十名もの傭兵が一斉に消えたとしか思えない。
しかも、使用人たちの気配まで急速に遠ざかるか、気絶でもしたように薄れてしまっているのだ。
今となってはこの広い屋敷で、意識を保っているのは自分たちしかいない。
明らかな異常事態で、非常事態だ。
「おい。遊びは終わりだ」
「んん? なんだ、興味ない振りをして本当は混ざりたかったのですかな? それならそうと言ってくれればですな。いいでしょう。あなたは特別にですな……」
雇い主の言葉に頭が痛くなりながら、彼は部屋の扉を鋭く睨む。
愛剣を抜き放ち、何かがあれば瞬時に行動できるように気構えと、体と、魔力を研ぎ澄ましていった。
百言を費やすよりも理解させる濃密な戦いの気配。
それは雇い主にも伝わったのか、たわ言が止まる。
気配は、ない。
恐ろしいぐらいに。
気配察知が確かならば、五十名ものの傭兵を一方的に仕留めた何者かは、これまで一切の痕跡を悟らせていない。
何が一番の異常かといえば、これこそが最大の異常だ。
その事実に血が騒ぐ。
「いいぞ。そうだ。こうじゃなくちゃいけねえ」
彼は冒険者として生きた。
気付けば一流の冒険者になっていた。
だが、同時に熱意を失っていた事にも気付いた。
どうやら自分は戦いの中にこそ生き甲斐を見出す人間だったらしい。
Aランク冒険者となり、戦う相手は知り尽くした魔物ばかり。
それ以上の強者と言えば、伝説に出てくるようなオーバーA――Sランクの魔獣なんて与太話にしか聞けない。
それでは愉しめない。
命を賭けた、本気の戦い。
それだけが己を満たしてくれる。
だから、今までとは別の危険を求めた。
冒険者から傭兵に職を変え、敵の多い急成長中の商人に雇われたのだ。
その趣味の悪さに辟易していたが、我慢した甲斐があった。
こうなればくだらない商人の護衛など知った事か。
求めていた強者との戦いがすぐそこまで来ている。
「おもしれえ……まじで、おもしれえ!」
魔力を練る。
神経を広げる。
戦場を支配する。
大勢の傭兵を気配もなく消すなんて、単純に強い人間では無理だ。Aランク冒険者の自分でも不可能だろう。
となれば、手段は限られてくる。
相手は隠身に長けた者か、猛毒使いか、超スピードの持ち主か。
なら、この場所は守るのに悪くなかった。
この部屋に扉はひとつで、窓もない。
主人が非人道的な趣味を楽しむための隠し部屋であり、秘密の会談を行うための部屋だ。壁も厚く、生半可な魔法も防ぐ。
唯一、出入りが可能なのは目の前の扉のみ。
いくら隠蔽に長けた人間でも侵入経路が限られては本領を発揮できないはず。
毒も想定していれば怖くはない。敵の多い商人は万能薬を常備している。
超スピードも動きの『起こり』さえわかっていれば十分対処は可能だ。
問題は魔法で部屋ごと狙われる事だが、それができるなら回りくどい真似なんてせずに最初から屋敷を破壊しているはず。
なら、相手は必ず部屋にやってくる。
勝負はシンプル。こちらの攻撃が相手を捉えるか、敵がそれを掻い潜って標的を仕留めるか。どちらが早いかで勝敗が決するだろう。
さあ、来い。
扉が開いた瞬間、開幕に相応しい最高の一撃を叩き込んでみせよう。
夜に相応しい静寂が続いた。
耳が痛くなる程の静けさ。
それを破ったのは、扉が開くきぃという音。
扉が、開いた。