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「あの糞アマがああああああっ!」
怒声が吼え、物が壊れる音が響く。
机や椅子にロッカー。陶器や書類。部屋の中にあった様々な物が砕かれて、割られて、引き裂かれた。
まるで嵐が部屋の中で暴れ回っているようだ。
小官たちはただ黙ってその嵐が過ぎ去るのを待つしかない。
巡回騎士団、第八小隊詰所。
王都の下級区に建てられたそこは騎士と従士の拠点のはずが、今はスラムよりも余程治安の悪い場所となっている。
ここは頻繁にこうなるのだ。
小隊長の騎士ディエゴが荒れた日はいつもこう。
上司に叱責された日。部下が期待に応えられなかった日。前の日の酒が残って頭が痛い日。天気の悪い日。
少しでもディエゴの思い通りにならない事があれば、奴は物に当たりだす。
物に当たっている間はまだいい。
これが人に当たりだせば最悪だった。
何せこのディエゴという男は近衛騎士であったのに、事故で同僚を死なせてしまったために巡回騎士に降格されたという男なのだ。
また『事故』が起きてもおかしくない。
そして、その事故の相手が自分になってしまう事もあるかもしれない。
だから、小官たちはひたすらに目をつけられないよう頭を下げ、気配を殺して、ディエゴの八つ当たりが収まるのを待つしかなかった。
「俺を舐めやがってよおおおお! 糞が! 糞が! 糞が糞が糞がクソクソクソ!」
今日の機嫌はいつもより悪い。
原因は昼間の件か。
ヨーシャーク商会の事件の容疑者を捕らえると言い出して、小隊を出動させたと思えば、幼いエルフの子供たちを捕らえろときた。
もちろん、彼らが犯人ではないと小官たちにはわかっていた。
ヨーシャーク商会を襲撃したのは状況や証言から見て、最近王都で暗躍している暗殺者の仕業と断定できていたのだから。
通称『無貌の月』。
予告もなければ、要求もなく、痕跡もない。
財貨には一切手をつけず、ただ標的の命だけを奪っていく死神。
この数年で起きた犯人不明の暗殺は彼、あるいは彼女の仕業だと言われている。
犠牲者はヨーシャークの様な大商会の人間だけではない。厳重な警備に守られている貴族からも犠牲者が出ているのだから驚かされる。
確かにそこにあるはずなのに、姿の見えない暗殺者。
巡回騎士からすれば最悪の手合い。
だからこそ、ヨーシャーク商会の事件は奴の仕業だとすぐに結論が出ていた。
なのに、ディエゴは的外れな容疑者を捕まえろと命令する。
その意味はすぐにわかった。
こいつは適当な相手を犯人に仕立て上げて、事件を終わらせたいのだろう。
確かに正体不明の暗殺者を捕まえるよりは簡単だ。
ヨーシャーク商会に使われていたエルフたちには動機があり、守ってくれる保護者もいないのだから、捕まえてしまえばいくらでもやりようはある。
それだけじゃない。ディエゴの事だ。手柄だけじゃ飽き足らず、エルフを奴隷商人として売り払ってもおかしくない。
小官が知る限りでも、過去の捜査で似たような事があった。
確証はなく、誰も訴え出ないため調査すらされていないが、疑わしい事例が。
無論、巡回騎士の権限を逸脱した行為だ。真実であれば王国法で裁かれる犯罪だ。
だが、ディエゴは捕まらず、巡回騎士の地位を持ったまま。
この男にはそういう事を手配できるだけの相手と伝手があるのだ。
今回もそうすればいいと思ったのだろう。
いいや、それも違うかもしれないな。
ディエゴが持っているのは恵まれた体格と暴力だけ。本来は手柄を捏造するなんて思いつく頭もない。
となると、ディエゴを騎士に取り立てたという後ろ盾が怪しい。扱いの簡単なディエゴを便利に使っている可能性が高そうだ。
「俺の後ろに誰がいると思ってんだ!? エイチコ商会だあ!? 知るか! あの糞アマはただじゃ殺さねえぞ! 手足切り落として、奴隷商人に売ってやる! 農場の男もだ! 何が七番目の賢者だ! 賢者様を名乗った不敬罪で死罪にしてやるぞ!」
そんな皮算用がクリス嬢の登場で全て狂った。
あそこで強硬策に出ていようものなら、ディエゴどころか第八小隊自体が消されていたかもしれない。
エイチコ商会にはそれだけの価値があった。
口だけは大きな事を言っているが、実行なんてとてもできない。
ディエゴもそれがわかっているから八つ当たりに留めている。
昼の特別訓練は酷いものだった。訓練と称したディエゴの暴力。小官たち第八小隊の従士で怪我をしていない者はいない。
二人は骨を折り、五人が脱臼で、二十人以上が重度の打撲。
詰所に残っているのは比較的怪我の少ない者たちだけだった。
「はあ……」
溜息が出る。
小官が従士となって二十年。
こんなはずじゃなかった。
王都の治安を守る誇るべき仕事に就いたはずが、気がつけば上司の機嫌を伺いながら日々をやり過ごしている。
守るべき民を食い物にする輩に従い、その走狗と成り果てている。
何をしているのだか。
「……おい。お前」
過去を思い返していて、気付くのが遅れた。
いつの間にかディエゴは暴れるのを止めていて、小官を見下ろしていた。
椅子に座っていながら、立っている小官よりも高い位置にある顔は不機嫌なまま。
「はっ。騎士ディエゴ、いかがされましたでしょうか!」
「いかがした、だぁ!?」
ガンと乱暴に机が蹴られる。
重いはずのそれが紙細工みたいに吹き飛んで、床を転がっていった。
あれが自分だったらと想像してしまい脂汗が流れる。
「あのガキどもの調書だよ! ちゃんと聞き取りしてきたんだろうなあ!?」
「はっ! こちらに……」
聞き取りをまとめた書類を渡す。
ディエゴはチラッとそちらを見たが、すぐに放り捨ててしまった。
「そんなの聞いてねえんだよ」
聞いただろ。
喉元まで出かかった言葉をなんとか飲み込む。
口答えしたらさっきの机のようにされるに決まっていた。
「申し訳ありません。小官には騎士ディエゴのおっしゃる事がわからず……」
「バカか、てめえは!」
馬鹿に馬鹿と言われたくない。
歯を食いしばって耐える。
ディエゴは岩みたいに大きく固そうな拳を小官のあごに突きつけてきた。
「いいか、俺が聞いてるのはなあ! あの糞エルフどもから、ちゃぁんと俺が望む事を言わせてきたかどうかって聞いてんだ!」
「それは――」
つまり、誘導尋問してきたのかと聞かれたのか?
ありえない。
相手は子供だったが、あの場にはエイチコ商会の令嬢もいらっしゃったのだ。そんな事を見逃すわけもない。
「クリス嬢がいらっしゃったので……」
「だから、どうしたあっ!」
拳が振りぬかれた。
腕の力だけのそれで体が持ち上がり、少なくない距離を吹き飛ばされる。
振りかぶっていなかったおかげで痛みはそれほどでもなかったが、思いっきり頭が揺らされて立ち上がれない。
わかっていたが、とんでもない馬鹿力だ。
そんな小官にディエゴが近づいてくる。
「俺は俺の望む通りにしろって言ってんだ! それぐらいもわからねえ愚図だから無能なんだよ、てめえらは!」
胸を巨大な足に踏みつぶされる。
ゆっくりと体重をかけてくるにつれて、ミシミシと骨が軋む音がした。
「いいか? 明日までに書き直しておけ。んで、お前がガキどもを攫ってこい。邪魔する奴はしっかりしゃべれねえようにして来いよ?」
この男は、ここまでバカだったのか!
大方、自分が手を汚せば後が怖いから小官のせいにするつもりなのだろう。
実際に動いた小官は責任を取らされる。エイチコ商会が望む、望まないに関わらず、意を酌んだ貴族が動いて、落とし前をつけさせられる。
だが、相手は大商会のエイチコ商会だ。
それだけで凌げるわけがない。
ディエゴも部下の不始末で責任を負わされる。
後ろ盾のおかげで自分だけは助けてもらえると思っているかもしれないが、ディエゴとエイチコ商会を比べればその後ろ盾だって後者を取るに決まっていた。
こんな事は誰だってわかるだろうに、その誰もが口に出さない。
口にしてしまえばディエゴの矛先が向かってくる。
「……はあ」
なら、言ってやろう。
どうせこのまま命令に従っても責任をかぶせられて死ぬ。
従わなくても踏み殺される。
であれば、最後の最後ぐらい巡回騎士従士として誇れる在り方をしたい。
このバカに、バカと言ってから殺されてやる。
「おい。ディエゴ」
「あ?」
呼び捨てにしてやると、ディエゴの顔が怒りに歪んだ。
その足を掴み、息を吸い込んだ。
「貴様なんぞ、騎士じゃない! ただのクズだ!」
「……なにをしているんだ?」
呆れて言葉が続かない。
巡回騎士第八小隊詰所。
訪れた俺は溜息をつきそうになってしまった。
まさか、騎士と従士が仲間割れをしているとは思わなかった。
いや、これは仲間割れとは違うな。正しくは懲罰――それとも虐待だろうか。
巡回騎士ディエゴが暴れたせいで荒れた部屋にいる従士の数は昼間より少ない。
その少ない従士たちがケガをしているところから想像するに、ディエゴによる訓練という名の暴行で何人かが病院送りにでもなったのか。
今も従士が一人踏み殺されそうになっている。
王都の治安を守る巡回騎士が聞いて呆れる。
詰所の警備はあまりにもザルだった。
入り口からここまで誰も歩哨に立っていないのだから信じがたい。今ならスラムの連中が襲撃しても善戦できてしまいそうだった。
これなら権能を使うまでもなかったか。
俺は部屋の隅からディエゴと従士たちを観察しながら、眉間にしわを寄せていた。
「……偶然なのか、罠なのか」
狭い部屋にたくさんの人が詰め込まれている。
この状況は俺が苦手とする状況だった。
それが偶然の産物なのか、罠なのか判断がつかない。
俺の『絶縁』は究極の隠蔽能力。
これを使っている間は誰も俺を認識できない。
目の前にいようと、耳元で話しかけようと、気付くことは不可能。
心臓を刺され、殺されるその時でさえもだ。
とことん暗殺に適した権能なのは間違いない。
だが、この『絶縁』は絶対無敵の隠蔽能力ではない。
まず、発動条件。
誰かに見られていると『絶縁』は発動できない。
相手の視界から消えている時に発動しなくてはいけない――が、これは緩い条件だ。
一瞬でも視界から消えてしまえば発動できるのだから、その視界を布でも紙でも使って塞げばよいし、なんならまばたきのタイミングを見切って発動すればいい。
本当に問題なのは発動後。
確かに『絶縁』を使っている間は誰も俺を認識できない。
だが、この世界から消えてなくなっているわけではない。感じられなくても俺はそこにいて、触れられる。
その、触れられるというのが問題だ。
究極の隠蔽能力を得るための代償なのか、隠蔽は誰かに触れられるだけで破れてしまう。
威力はいらない。本当にただ触れるだけ。指先を掠められるだけで『絶縁』は強制解除されてしまう。
しかも、強制解除されると俺は強力な弱体化というペナルティを受けてしまうのだ。
この弱体化はかなり強力で、まともに動く事ができなくなる。
水の中に放り込まれた、手足に人がしがみついている、全身が鉛にでもなった。そんな表現をすれば少しは伝わるだろうか。
ともあれ、暗殺対象を目の前に姿をさらし、著しく弱体化などしては致命的だ。
なので、強制解除だけは避けなければならない。
本来なら深夜を待ち、ディエゴが一人になるのを待つべきなのだが、あまりに警備がザル過ぎて、様子だけでも窺うつもりだったのが執務室まで入り込んでしまったのだ。
これが誘いなら俺はまんまと敵の策にはまったわけだが。
「手練れが狭い空間に集合。俺の権能を警戒しているなら最適解……」
今回は偶然と判断する。
ここに来る前に『歌姫』から聞いたディエゴの情報から考えるに、そういう罠を張るタイプの人間ではない。
部下の従士たちも意見を口にできないようだし、策を巡らせているとは思えない。
警戒を怠るのは度し難いが、しすぎて身動きが取れなくなるのはそれ以上に愚かだ。
結論、当たらなければどうという事はないのだ。
この後に用事もあるし、無駄に時間を掛けたくない。
さあ、仕事を始めよう。
「なあ、おい。貴様、なんと言った? 誰が騎士じゃないだと? 俺がクズだと? 従士ごときが知った口を聞いたな? これは不敬罪だよなあ?」
ディエゴは俺に背を向けたままでいる。
踏みつけにした中年の従士をいたぶるのに夢中らしい。
他の従士も周りに目を向ける余裕もなく、当然ながら『絶縁』を使っている俺に気付く者は誰もいない。
あまりに容易い仕事だ。
まっすぐに近づき、ナイフを取り出し、鎧に覆われていない首筋に這わせ、一息に切り裂いた。
「なんとか言っへ――こひゅ?」
気道に穴が空けば言葉が声にならなくなる。
ディエゴは何が起きたのかわからない様子で喉に触れて、それがきっかけになって鮮血が噴き出した。
「はひゅー! ひひゅー! ごほっ! げほっ! げえっ!?」
血の混じった空気が噴き出し、血に喉を詰まらせて咳き込み、えづくディエゴ。
巨体を前に屈ませて、必死に首を押さえている。
激痛と混乱の中、意外に冷静な対処だ。
そう。ディエゴの対応は間違いじゃない。
重傷だし、このままでは致命傷になるが、こうして出血を少なくして、すぐに回復魔法をかければ傷口は塞がるだろう。
ただし、それは誰かが手を差し伸べれば、だ。
誰かが回復魔法を使わなければ、その間のディエゴを守らなければ、助からない。
ディエゴは今も懸命に訴えている。
手は伸ばせず、声も出せず、それでも目で、表情で、必死に救いを求めている。涙と、鼻水と、脂汗と、鮮血で床を汚しながら、生きようとあがき続ける。
しかし、応える者は誰もいなかった。
部屋にいる十名を超える従士たちは驚き、焦り、慌て――怯えと恐怖を経て、最後にディエゴを見捨てた。
ディエゴに踏みつけにされていた中年従士が立ち上がり、号令を上げる。
「互いに背を合わせて抜剣!」
従士たちの反応は早かった。
中央に指示を出した中年従士を囲み、死角をなくすように背を預け合う陣形を組む。
その中にディエゴは含まれず、一人として救助に向かう者はいない。
当然だ。虐げられ、罵声を浴びせられ、それでも救おうとする人間はなかなかいない。
「警戒しろ! 敵の正体がわからない!」
「何があったか、見えた奴はいるか!?」
「見えませんでした! 魔法かもしれません!」
「飛び道具の可能性も捨てるなよ!」
「防御魔法、準備出来次第に発動しろ!」
見放されたディエゴは怒りに顔を赤くするが、それも僅か。
すぐに出血で青褪めさせていく。
このまま放置しておいても勝手に死ぬが、待つ意味はない。
この男が暗躍している後ろ盾を知っているなら聞き出さなければならないが、こいつに接触した奴も警戒しているだろう。
おそらく、ディエゴは便利に使える駒という扱い。黒幕には迫れない。
なら、とどめをくれてやる。
息苦しさにうずくまったディエゴ。
どんな巨体もこうなれば隙だらけ。
金属の鎧も、筋肉の壁も、隙間を突けば意味がない。
無防備にさらされた首。
頸椎に向けてナイフを落とした。
骨の間。
神経の束がバッサリと断たれ、ディエゴの巨体が血まみれの床に倒れた。
「騎士失格のクズはお前だ、ディエゴ」
中年従士に向けていた問いに答えてやるが、もう聞こえていないだろう。
従士たちはディエゴが単純に力尽きたと思ったのか、誰もこちらに反応しない。
さて、今夜の俺の仕事は終わりだ。
俺は従士たちに背を向けて、詰所を後にした。
まだこの後に、僕の仕事が残っているんだ。早く戻らないと。




