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詩と青春  あるいは青春の燃焼  ランボーと立原道造をめぐって。(改訂版)

作者: 舜風人

私がポエムの魅力に取りつかれたのはあれは18歳くらいだったのだろうか?


誰でも一度は取りつかれるそれはハシカみたいなものだったのか?


それとも神の啓示?だったのだろうか?


青年詩人の、誰でもそうであるように


私が詩に開眼したのも、


小林秀雄訳の

岩波文庫『地獄の季節』だった。


これは圧倒的だった。


きらめく言葉の渦、


そして激越な宣誓、


すべてがまるで



祝祭日のメリーゴーラウンドみたいだったのだから。


こうしてランボーが私のポエムの女神?となったのでした。


もちろんランボーを見習って私も激越な詩をたくさん作りました。


そうして私も「足の長い」と称されたランボーにならって



放浪に強くあこがれたのです。


最後にはアフリカの灼熱の日のもとで


焼け死にたいなんて夢想したりもしました。


でも結局私は小心な少年で終わりましたけどね。


さてそんなランボー原体験が


きっかけとなって私の詩の遍歴も始まりました。


そうして詩人遍歴が始まったのです。


名前だけ列挙してもいかに


喰い散らかして?きたかお判りでしょう。


山之口獏、荻原恭二郎、


大手拓二、伊藤静雄。宮沢賢治。


ランボー、リルケ。山村暮鳥


ノバーリス、アイヒェンドルフ


八木重吉、山頭火[俳人)。


立原道造、中原中也


ロートレアモン、萩原朔太郎。




これらの詩人の中では


やはり青春を甘く郷愁こめて


詠った立原道造には傾倒しました、


堀辰雄と立原道造  四季派


この二人の作家は私が愛してやまない作家です。



堀辰雄といえば


軽井沢、そしてサナトリウム


「風立ちぬ」が代表作でしょうが


私はなんといっても、


「美しい村」ですね。


これは戦前の軽井沢の記録としても出色です。


野薔薇咲く林間の小道、


そしてそこからひょいっとあらわれる西洋人の少年。


これがメルヘン?でなくてなんでしょう?


堀辰雄に、薄汚い下町小説は似合いません。


現実離れした、これでいいのです。




立原道造と言えば




「萱草に寄す」という詩集ですね。


これは風信子叢書、第一篇になります。






・・・・・・

夢はいつも帰っていった。

山のふもとのさびしい村へ


水引草に風が立ち


草ひばりのうたいやまない


しづまりかえった午さがりの林道を


・・・・・・・・






抒情詩とは

こういうものを言うのでしょうね。


この純粋な抒情性は


けだし日本の詩にあっては稀有です。



このふたりに


土俗性やら


現実性を


要求しても意味はありませんね。


ファンタジー映画を見て、現実離れしてるから駄目だというようなものです。


現実離れしてるからこそファンタジーなのですからね。


この二人には


ひたすらな


抒情性を求めればそれでいいのです。


そしてその抒情の


世界で揺蕩えばそれでよいのです。


そしてその四季派の文学は


軽井沢という日本の中でも特異な異国性のエアポケットでしか


育まれなかった抒情なのかもしれません。


そんな調子の憧憬詩集は


私の青春の旅情にも


大きく影響しました。



さてそれ以外ではやはり甘くて切ない


八木重吉の独特の世界でしょうか。



彼の詩はすべてが断片なんですが


その尻切れトンボ感が


たまらないのですね。


また、


大手拓二の幻想詩、


中原中也のシュールな詩にも


萩原朔太郎のボードレール張りの


退嬰詩?にも


束の間引かれましたが


なんかあざとさが次第に目立っていやになりましたがね。


山之口獏の生活詩も、所帯じみていて次第にいやになりましたね。


荻原恭二郎の前衛詩は一回読めばもう充分でしょ?

再読には耐えませんよね?







さてそんな中でも、


特に


今でもあれはよかったなあと思う詩は、詩人は



立原道造の『忘れ草に寄す』です。



この透明感はなかなか出せるものではありませんよね?



そして八木重吉の純情詩も稀有のものだと思います、



最近


金子みすずが注目を集めていますよね?


バカっていうとバカっていう、


あの詩は震災後頻繁に流れましたものね。


私自身は金子みすずを知ったのはごく最近ですよ。




「太陽と月に背いて」という映画をご存知だろうか?



レオナルド・デカプリオのファンの方なら恐らく見たかもしれない。


この映画はあの、「地獄の季節」「イリュミナシオン」という二つの詩的爆弾をヂレッタントたちに投げつけて、


そのまま、俺にとって詩はもうおわったとうそぶき、はるかアフリカの灼熱の地に放浪して果てた

あのランボーの伝記映画である。


ここでデカプリオは若々しいランボーそのもののような破天荒な少年ランボーを演じている。

フランスのベルギー国境に近い片田舎の中流農家に生まれたランボー少年は友達から「足の長い男」とあだ名されるほど生来の放浪癖があったようだ。


革命下の巴里まで出奔して保護されたこともあるし、あるときは曲馬団に入り込んで東欧、ロシアまで行っていたこともあるという。


そんな彼の趣味?が詩だった。

少年ランボーの詩が残っている。世の中への抗議に満ちた詩である。

やがて彼は巴里で盛名の詩人ベルレーヌに自作の詩を送る。


その詩を見たベルレーヌは驚いて「来たれ若き詩人よ」という有名な手紙をランボーに送る。


ランボーは早速ベルレーヌの下へ出向く。

コーンパイプをふかして粗末なジャケットをはおって、ドタ靴を履いて、、、、。


ベルレーヌ亭での生活は異常だった。彼には妻も子もいたが、この若い破天荒な詩人ランボーに、

魅されてしまったのだ。つまり禁断の愛にはまってしまったわけだ。


そんな異常な生活がどうにもならなくなったとき二人はイギリスへ出奔してしまう。

ハシーシェと、酒と詩作の荒れた日々が続く。

だがそれも当然のように破綻、

ベルレーヌは嫉妬に狂ってランボーをピストルで撃って仕舞うのだ。


幸い弾は外れて、彼らの仲も終焉する。「地獄の季節」はこうした二人の地獄の逃避行の経験が元になっているのであろうか?


ランボーは「俺はもう詩ではやり終わった」と言ってやがてギリシャ、トルコを経てアフリカのアビシニアへとたどり着く。

そこで貿易商人と名乗り、現地の首長を相手に様々な商品を売りさばく。

その中には銃もあったという。


だが熱砂の国での生活は、次第に彼の体を蝕み始める。

ある日、膝に激痛を訴えた彼は土民たちによって戸板に乗せられて

砂漠を横断して、港から船でマルセーユまで送りかえされる。


病名は膝の骨肉腫(癌)だった、しかも全身にもう転移していた。


彼は妹と母に付き添われて手術を受ける。

片足切断、しかし、それも気休めでしかなかった。

全身に転移した癌は次第に猛威をふるい、彼は亡くなるのである。

まだ36歳だった。


「見つかったよ。

 何が?

 永遠が。

 それは太陽にとけた海だったのさ。」


かってそう歌ったランボーはもういない。


ランボー晩年の妹への手紙は自分の苦境を呪い、絶望の吐露の文章である。

病院から妹へ出した手紙は切々と苦しみを訴えている。

そして、その手紙の末尾ははこうなっている。


「人生とはなんと、悲惨なのだ。そうだ。かぎりなく悲惨なのだ」




この映画は恐らく初めてのランボーの伝記映画であろう。

そして良く出来ているといえる一編であると思う。



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