第7話 春陽と美羽
…鼻をつく薬品臭。
薬品の匂い? 先ほどまでこの身に染み付いていた血の匂いはどこに消えた?
それどころではない! お母様!
起き上がった拍子に落ちた掛け布団を無視してお母様の姿を探す。
……待って。
掛け布団? 私はいつの間に気絶していたと言うの、いえ、そもそも、私はあの後ルディオンと幾度か戦った記憶がある。
…かの神を斬り伏せた記憶も。
「兄さん! 目が覚めたのね!」
あまりに多くの断片化された記憶の処理に頭痛を覚えている私を呼ぶ声。それが懐かしい妹の声だと自覚して気付いた。
私は私じゃない。確かに今の私はアナスタシア・ルートセイムの姿をしているけど。
違う、この私の記憶は、姿は、かつての私のもの。
今の私は天城春陽。俺はすでにアナスタシアじゃない!
自分の中で前世と現世の区別がついた…、と自覚した途端に頭の痛みが引いた?
まだ少しだけ風邪に似た鈍い痛みは残るもののそれもじきに治まるだろうと確信する。
「……ええと、おはよう。でいいかな? 美羽」
「…もうおはよう。じゃないわよ! 兄さん!
アウト・コールかもしれないと連れて来られた兄さんが【方舟】に触れて気絶したと聞いた時は本当にビックリしたんだから!」
「【方舟】?」
「聖堂にある黒い石よ。
十河教授先生の静止を無視して、心の準備もしないで触ったって聞いたわ」
どうやら、あの奇妙な石の事で間違いないらしい。それにしても何か妙な違和感が…。
「何であれが【方舟】何て言われているんだ?」
「ああ、兄さんは今日連れて来られていきなりだったものね。
私達は1週間位前から事前説明を受けていたんだけど。
正式には【魂の方舟】と命名されているわ。由来はまるで前世の魂を運んで来るように見えるからだって」
「あれはそんな良いものじゃない気がしたんだが?」
あの時の嫌悪感を思い出してゲンナリする。
「…そういう受け取り方をする人って珍しいんじゃないかしら?
私もそうだけど大抵は厳かな気になると思うわよ。
まあ兄さんは精霊との感応力がなかったからそういう受け取り方をするのもしょうがないかもしれないけど」
! 今、美羽は何て言った? 感応力がなかったからと言わなかったか?
先程の違和感の正体がわかった。この妹は【方舟】に触れて気絶した事を驚いたと言った! 普通はアウト・コールとして殺されるかも知れなかった状況を心配するのが先じゃないか?
なのに、そこには一切触れていない。
…仮に俺なんかさっさと殺されれば良いと思っていたなら、ともかく、そうでないなら、そして実際にその可能性が高いと言う事は。
この事実が示すのは…。
「天城美羽。お前は何者だ?
いや、この言い方は適切じゃないか?
お前の前世はアナスタシア・ルートセイムと深く関わりがあるのじゃないか?」
俺の問い掛けに一瞬驚いた顔をしたもののすぐにそこには笑顔が浮かぶ。と同時に美羽の輪郭が歪み、目の前に座っているはずの美羽へ焦点を合わせられなくなる!
なんだ! これは…。
「さっすが、姉様!
たったあれだけのヒントで私の前世、そのおおよその正体を見破ったんですね」
再び焦点が合った先にいたのは、黒い髪を腰位まで伸ばした整った顔立ちの少女。
美羽も整った顔立ちをしているが、美羽を可愛いと表現するならこちらは美しいと表現すべき見た目。
その中にあって、1つだけ美しいではなく可愛いと印象を与えるだろうものに目がいく。日本犬を彷彿させる獣耳だ。
あの耳は見ていて弄くりたくなるけどあまりやると怒るんだよな…。
などとふざけた事を考えれるのは、目の前の少女がよく知る人物だからだろう。
「フィー」
「はい。眷族長フィーティア、ただいま帰参致しました!」
確信をもって愛称を口にすると目に涙を浮かべながら抱きついてくる。
フィーティア・ハイフィムト、雷狼族の娘だが、災厄の先触れとされる黒い狼であるが為に同族に殺されかけていた子狼だ。
あまりに理不尽な話に自分自身を重ねてしまい、つい助けてしまった。
当然のように帰るべき場所も失っていたので自らの血を与えて眷族化し、娘のように育てた。
「ああ! 姉様!
やっと何の気兼ねもなく抱き締めることが出来るようになりました!」
「く、くるしい。
少し離して…」
前世の俺にはコンプレックスでしかない女性らしい膨らみに顔を埋める状態に抗議する。
いくらなんでも、前世の記憶を取り戻した途端に、前世の娘の胸で窒息死とか情けなさ過ぎる!
「嫌です!
プニプニのお肌にちっちゃくて愛らしいお身体の姉様が私なんかの腕の中にいるんですよ!
いっそ時間よ、止まれ! って感じです!」
逆に力を込めて抱き寄せられる。
「本当に少しタンマ!」
「ああ! 姉様の匂い! 赤ちゃんみたいなお肌! 抱き締めるのに最適な大きさ!
世界中のありとあらゆる財宝も姉様の前にはガラクタ同然! むしろ、姉様こそ世界の至宝!」
駄目だ。完全に暴走している。
いくつかの事情もあってルディオン討伐の時は置いて行くしかなく、そのまま残して逝く事になってしまった。と言う事もあるし、あまり手荒な事はしたくないのだけど……。
「くぅーん! この感動をどう表現すればいいのでしょう?
何処かに吟遊詩人はいないかしら? …ダメね。この感動を誰かにお裾分けするなんてもったいない!」
なんか無茶苦茶な事を言い始めたし…。
「しょうがないわよね。
姉様、ラブリー! ラブリー、姉様!」
ついに歌い始めてしまった。
……やむを得ないか。
よく締まったフィーのお腹にそっと掌を添える。
弛んでいるな…。この状況に危機感を覚えないとは。
「にゃ! ふ!」
崩れ落ちるフィーからやっと脱出出来た。
…ああ、空気がうまい!
若干、やり過ぎな気もしないでもないが、まあフィーなら大丈夫だろう。
「い、いきなり、格闘術の奥義とか、む、無茶苦茶ですぅ」
「かなりゆっくり放っただろ? 対策を取らなかったお前が悪い」
涙目で抗議してくるフィーに素っ気なく返す。
今使ったのは前世に習った保倉流格闘術奥義『穿風』。
これはこちらで言う中国拳法の『寸勁』、超至近距離で使える打撃技と日本古武術にある『通し』、相手の鎧や防御を無視して内部にダメージを与える技術の合わせ技、かなり強力な打撃術だ。とは言え、かなり威力は抑えているし、ある程度気を張っていれば、崩れ落ちる程の醜態を晒す筈がない。
少し鍛え直そうと心に誓いつつ、
「とにかく、フィー、少しは落ち着いたか?」
俺の問い掛けに「なんとか……」と答えるフィーに、
「それじゃあ、1つ質問。
フィー、お前はいつから前世の記憶を持っていた?」