(4)
那美は、組織のボスである金田麻記子に引き合わされることになった。
麻記子に会う前に、カンナはいくつか厳重な注意を与えた。
那美は怖かった。が、覚悟を決めていた。コリアンマフィアという、別世界で生き延びてゆく事で、村沢を待とうと腹を括ったのだ。
いずれは村沢に会える―それだけが今の那美の心の依り処だった。
が、そんな那美の心の中を見透かすように、カンナは厳しい言葉を口にした。
「ボスの前では、命懸けで仕事をすると誓ってもらわなければならないわ。」
命懸けという言葉に、那美は息を呑んだ。
「村沢さんに会うまで、あなたは自分自身の力で生き延びていかなければならない。姐さんは、実力のない者には容赦ない人よ。それはわかるわね。」
那美はかすかに、頷いた。
「あなたが役に立たないと判断したら、警察に突き出すかわりに…」
カンナは那美を見据えた。
「田中総業の残党に差し出すわ。貸しが作れるし、お金にもなるかもしれない。まあ、あすこは今じゃ解散して、残党ったって何の力もないけれど、用心はいくらしてもし過ぎる事はないものよ。それが、この世界の鉄則だわ。」
今度は強く頷いた那美に、カンナは微笑んだ。
「あたしはこれでもあなたを買ってるの。」
「何故ですか。私のどこが…。」
「亭主を殺して、やくざをハメるなんて、いい根性してるじゃない。姐さんも、あなたに会うのを楽しみにしてるのよ。」
カンナは楽しそうに笑った。笑ってはいても、目の奥には冷たい芯が残っているのを、那美は見逃さなかった。
カンナの化粧品を使ってメイクし、カンナのスーツを着た那美は、カンナの事務所とは目と鼻の先にあるビルの中の韓国クラブへ連れて行かれた。従業員専用の裏口から入ると、簡素な事務所で二人は待った。
ここへ来るまでに、見るからに恐ろしげな男と、数人ばかりすれ違った。カンナも彼等も、お互いきちんと挨拶を交わしていた。ボスの麻記子は、礼儀にうるさいのだそうだ。
「ボスといってもね」
カンナは、道々説明した。
「表向きは、姐さんの夫の金田在弘―本名金在周がボスで通っているの。でも、実質的に組織全体を統轄し支配しているのは姐さんよ。あの人は恐ろしく頭の切れる人で、仕事のやり方は因習に囚われないわ。女であることの長所も欠点も知り尽くしている。ボスとしては、素晴らしい人よ。ただし」
言葉の切れ目で、那美は思わず口をはさんだ。
「忠誠心がある限りは、ですね。」
「そう、そういうことよ。裏切ったり、失敗したら即破滅よ。」
「そうでしょうね。」
そんなやり取りの後に事務所へ入ってからは、カンナも那美も、しぜん言葉少なになり、緊張した時間が過ぎていった。
いつもは時間に正確な麻記子が、やけに待たせる―そう思った時、カンナの携帯が鳴った。地下室に降りて来いと麻記子直々の命で、カンナは那美を促してエレベーターに乗った。
「昔、死刑台のエレベーターという映画がありましたね。」
カンナは驚いて、那美を振り返った。
「あなた、案外落ち着いてるのねえ。」
「いいえ、正直言って恐いです。恐くてたまりません。でも…」
「でも?」
「こちらの世界へ入ろうとしている人間があまり恐がると、上の人は不愉快になると思うんです。だから、客観的になろうとしてるだけです。」
カンナは、模範解答を聞かされた教師のように、満足げな表情を浮かべた。
「いい心がけだわ。さ、行きましょう。」
エレベーターを降りると、カンナは重い鉄のドアを押した。
パイプ椅子に腰掛けた麻記子の周りを、スーツ姿の男が二人護るように立っている。その陰には、一人の若い男が縛られ、床に転がされていた。
カンナは麻記子に頭を下げると、那美を前に出し、那美は丁寧に頭を下げた。
「水木那美です。」
心なしか声が震えていたが、那美は不遜にならない程度に真っ直ぐ麻記子を見て立っていた。
麻記子は面白そうな笑みを浮かべると、立ち上がり、那美に手を差し出した。
高い頬骨と切れ長な瞳は、古典的な韓国女の美貌そのものであった。背はやや高めで、ほっそりしている。全身をシャネルでまとめ、髪型も、ココ・シャネルが愛した引っ詰めのシニョンであった。香水もむろん、シャネルである。
「よく来たわね。待ってたのよ。」
酒と煙草で焼けてしわがれた中に、不思議な甘さの入り混じった声だった。
那美は再び頭を下げながら、麻記子の手をそっと握ると、
「このたびは、大変お世話になりまして…お礼の言葉もありません。」
と言った。麻記子は鷹揚に頷くと、
「これからうちで働いてもらう訳だけど、今日ちょいと遅くなったのはさあ、これなのよ。」
麻記子は、床に転がりうごめいている男を指さした。
「どこで見つけました。」カンナが尋ねると、ボディガードの一人が答えた。
「1番街の角のタコ焼き屋で文句をつけていた。」
「那美さん、この男に見覚えは?」
カンナが問いかけ、ボディガードが男の顔をつかみ、那美の方へ無理矢理向かせた。那美が、男の顔を凝視する。しだいに、那美の顔が歪んだ。唇を噛み、まなじりを上げる。
「この男は…ええ、覚えてます。忘れないわ。」
仕事から帰った自分を待ち伏せし、拉致した男達。田中総業の遠藤が執拗に自分を弄ぶさまを、薄笑いを浮かべ物欲しげな顔付きで見ていた男達。新宿の雑踏の中で偶然自分を見つけ遠藤のところへ拉致しようと、大ガード下まで追って来て車に押し込もうとした男達…あの時は村沢に助けられたが…常にこの男がいた。自分を地獄に突き落とした男達のうちの一人に違いなかった。
男は、今や怯え、すくみ上がっていた。那美の顔を見た時はぎょっとしたが、即座にこんな女は見た事がないと言い張り、わめき散らした。
「うるさい。」
麻記子は、先の尖ったシャネルのパンプスで、男の口の辺りを蹴った。それから
「ねえ、この男好きにしていいって言ったら、あんたどうする。」
と、無表情に尋ねた。
試験されている―そう悟った途端、心臓の鼓動が速まり、那美の胃は鉛を呑んだかのように重くなりだした。それだけではない、きりきりと痛み始めた、ような気がする。助けを求めるように、カンナを振り返るが、カンナは沈黙し、表情を消していた。だが、わずかに那美に向けて頷いたと思ったのは錯覚だろうか。
那美は、意を決して麻記子に向き直ると、口を開いた。
「始末します。」
殺すと言わなかったのが自分でも不思議だったが、ともかく、これしか考えられなかった。そして、次なる試練も予想出来た。
果たして麻記子はカンナに合図し、カンナはバッグから銃を取り出した。
「那美さん。」
カンナは那美に銃の使い方を説明し、しっかりと震えるその手に握らせた。
やめろ、と絶叫する男の必死の形相。
しかし、押さえ付けられ犯された自分もまた、泣きわめき必死だった。
それなのに、男達は卑猥な笑い声を立てながら、那美を容赦なく蹂躙したのだ。あの時、自分の中の一部は、確実に殺された…那美は、銃を構え、引き金をひいた。一発、二発、そしてこめかみに当てて三発目を撃つようカンナが言い、那美は二度目の殺人、麻記子の行う実技試験を終えた。麻記子は、死体を前にして、からからと笑った。
「お疲れさん、明日から忙しくなるけど頼むよ。」
蒼白な顔をして、息を弾ませている那美の肩をぽんと叩くと、麻記子はカンナに、上のクラブで待っていると言い残し、ボディガードもろとも消えて行った。
カンナはエレベーターまで見送ると、どこかへ電話をかけた。
「すぐに来るわ。あなた大丈夫?」
「来るって誰が?」
「死体の引き取りよ。」
那美は、気分の悪さをこらえて頷いた。絶対に吐くまい、那美は何とか姿勢を立て直そうとしていた。そんな那美にカンナは、
「上出来よ。完璧といってもいいわ、今必死で吐き気をこらえているところも含めてね。」
と声をかけた。
鼻腔の奥が熱くなり、那美の目に涙が溢れた。カンナは、しようがないわねえと言う風にやや男っぽく肩をすくめたが、それが村沢の仕種に似ているような気がして、また泣けた。いつの間にか、吐き気は治まっていた。