持ち帰るもの
夜明け前の門は、冷えた鉄と油の匂いがした。
柏木柏木は荷台に積んだ背嚢を数えた。自分のものを入れて四つ。数え間違えようのない数だが、数えるのは癖だった。出る前に数え、戻ってきてまた数える。減っていなければ、それでいい。
門の内側では、ほかの班も支度をしていた。全部で五班。誰もが白い息を吐きながら、装具を締めている。かつては、ここに並ぶのは自衛官だけだった。一班に六人、それが五つか、もっと。誰がどの班かなど、覚えるまでもなかった。全員が顔見知りで、同じ飯を食い、同じ天井の下で寝ていた。
いま門に立つ自衛官は五人。班にひとりずつだ。残りの十五人は、避難所から志願してきた者たちだった。帰らない自衛官が増え、残った者を失うわけにはいかなくなった。戦える者を残すために、戦えない者を前に出す。誰が決めたのかは知らない。決めたというより、そうなってしまったのだ。
「柏木さん」
声をかけてきたのは久保だった。二十二になったばかりの若い男で、まだ装具が体に馴染んでいない。ベストの肩紐がねじれていた。柏木は手を伸ばし、紐を直した。
「きつくないか」
「大丈夫です」
「歩いて擦れたらすぐ言え。我慢して歩くと、あとで足が止まる」
「はい」
久保は志願の理由を訊かれると、「ほかにできることがないので」としか答えない。それ以上は誰も訊かなかった。訊かないことが、ここでの礼儀のようになっていた。
少し離れた場所で、大森が水筒の蓋を締めたり緩めたりしていた。三十六歳。妻と子供がふたりいる。上は七つの女の子で、下は四つの男の子。出発のたびに寝顔を見てから来るのだと、前の任務のときに笑って話していた。腹いっぱい食わせてやりたいんですよ、それだけです、と。
そしてもうひとり、村井がいた。三十八歳。いちばん端に立って、夜明け前の空を見ている。左手の薬指に、細い銀色の指輪があった。
志願の日、村井は理由を言わなかった。避難所の名簿に村井という同じ苗字が、三行、縦に並んでいた。いちばん下の一行にだけ、横線が入れられ、その脇に「死亡」と書き添えてあった。最初の冬のことだと、あとで世話役から聞いた。
「集まれ」
三人が寄ってきた。荷台の縁に地図を広げた。
「今日の目的地は遠い。国道を南へ二時間、そこから歩いて四十分。食品卸の倉庫がある。近場は拾い尽くした。まとまった食い物が残っているのは、もうあそこくらいだ」
「遠いと変異生物が出ますか」
大森が訊いた。
「分からん」
柏木は短く答えた。
「あの辺りに入った班はまだない。何が出るかは、出てみるまで分からない。ただ、ひとつだけ分かっていることがある」
三人の顔を順に見た。
「誰かが倒れたとき、助けに戻ったやつから先に死ぬ。それだけは、これまで何度も見てきた」
誰も口を開かなかった。遠くで別の班のエンジンがかかる音がした。
「だから、決まりはひとつだ。誰かがやられても、振り返るな。助けに戻るな。置いて、走れ。必ずだ」
「……見捨てる、ってことですか」
久保が言った。声が少し掠れていた。
「そうだ」
否定しなかった。否定しても意味がないことを、嫌というほど知っていた。
三人が荷台に乗り込んだ。久保が先に、大森が続き、最後に村井が、薬指の指輪を親指でなぞってから足をかけた。
国道は、ひび割れた路面の隙間から草が伸び、ところどころで車が乗り捨てられたまま錆びていた。それらを縫うようにして、速度を上げずに走った。エンジンの音は、小さいほうがいい。
荷台の三人は、風を避けて背嚢の陰に身を寄せている。バックミラーに、大森が久保に何か話しかけているのが映った。
「歯がな、抜けたんだ」
風に混じって、声が届く。
「上の子が。前歯。ぐらぐらしてるのを怖がって触らせなかったんだけど、昨日、自分で引っ張って抜いた。血が出て、泣いて、でも抜けたやつを大事そうに握ってた」
「歯、どうするんですか」
「屋根に投げるんだと。昔はそうしただろ」
「屋根……」
「ないよな、いまは。避難所の屋根に投げたら、怒られるかな」
久保が少し笑った。ミラーから目を外した。
村井は何も言わなかった。ふたりのやりとりを聞きながら、流れていく景色を見ている。大森が気を使ってか、村井にも水を向けた。
「村井さんのところは」
「妻が待ってます」
大森はそれ以上、続けなかった。
国道沿いの景色は、ひどく静かだった。路肩の枯れ草は、朝の霜をまだ解かしきれずに白く固まっていた。ガソリンスタンドの看板は倒れ、コンビニの窓は内側から割れている。窓の縁に、乾いた毛の塊のようなものが引っかかっていた。それが何の毛なのかは、確かめなかった。確かめたところで、いま打てる手はない。
道の途中で、一度車を止めた。エンジンを切り、耳を澄ます。風の音と、遠くの鳥の声。何もない、ということがここでは安心にならない。
橋の手前の林に車を入れた。ここから先は歩きだ。
背嚢を担ぎ、四人は一列で歩き出した。先頭に柏木、その後ろに久保、大森、最後尾に村井。最後尾には、いちばん落ち着いている者が立つ。誰が決めるまでもなく、村井がそこに収まった。背後を見張る役目を、彼は淡々とこなしていた。
歩きながら、地面の痕跡を見ていた。踏み荒らされた草。電柱に残った傷。どれも新しくはない。だが、古くもなかった。何が残していったものなのかは、分からなかった。
ふと、あの決まりを作った最初の日のことを思い出した。
まだ自衛官ばかりで班を組んでいた頃だ。部下のひとりが、群れに引き倒された。助け出そうとして駆け寄り、もうひとり倒れた。そうやって優秀な部下を何人も失った。
それから言葉にするようになった。振り返るな、と。
倉庫は国道から外れた工業団地の奥にあった。灰色の壁に、色褪せた青い社名の文字が残っている。シャッターの半分は歪んで、人ひとりが屈んで通れるほどの隙間が空いていた。
三人を外で待たせ、ひとりで周囲を回った。裏手の搬入口、非常階段、屋根の上。どこにも、新しい痕跡はなかった。中に入った。暗がりに目が慣れるまで小銃を構えたまま動かず、音だけを聞いた。
「入っていい」
呼ぶと三人が静かに入ってきた。
天井の高い空間に、棚が奥まで続いていた。ほとんどは空だったが、奥のほうに手つかずのパレットがいくつも残っていた。缶詰。乾麺。乾燥した豆。米の袋は半分以上が虫にやられていたが、無事なものも拾えた。
「全部は持てない。ひとり二十キロ。それ以上は詰めるな」
柏木が言うと、三人はそれぞれの棚に散った。
久保は米袋をひとつずつ持ち上げて、重さと破れを確かめていた。ここで何を選ぶかで、誰かの数日が決まる。そのことを、彼なりに理解しているようだった。
村井は缶詰の箱を黙々と背嚢に移していた。無駄な動きがない。何を入れても、背嚢は同じ形のまま膨らんでいく。
「柏木さん」
大森が小さな段ボールを抱えて、近づいてきた。
「これ、いいですか。軽いんで」
箱の中身は、駄菓子だった。賞味期限はとうに切れているはずのものが、包装のまま、いくつも詰まっていた。重さは増えない。だが本来なら、缶詰ひとつ分を入れられる場所だった。
「……期限は」
「見ました。ダメなものは捨てます。でも、あの子らに」
少しのあいだ沈黙が続いた。
「潰れないように、上の方に入れろ」
「ありがとうございます」
大森は頭を下げた。その顔が一瞬だけ、とても若く見えた。
作業は一時間もかからずに終わった。背嚢はそれぞれ二十キロ近くになった。自分の背嚢を軽くしておいた。小銃を持つ手を塞がないためだ。
出る前にもう一度だけ外を確かめた。冬の日は短い。日が落ちるまでに、車まで戻らなければならない。
「行くぞ」
帰り道は長く感じた。
背嚢の重みが肩に食い込み、足の運びが遅くなる。久保が一度つまずき、大森が腕を掴んで支えた。「ありがとうございます」「いいって」。そのやりとりを、柏木は前を向いたまま聞いていた。
橋のたもとの林まで、あと十分ほどだった。工業団地を抜けた先に、広い駐車場がある。かつて大型の量販店があった場所で、来るときにも通った。見通しが利くが、身を隠す場所は少ない。ここを突っ切らなければ、車には戻れない。
駐車場の縁で足を止めた。
「……待て」
手を上げると、後ろの三人が止まった。爪がアスファルトを引っかく音がした。
最初はひとつだけだった。それが、すぐにいくつにも増え、風下から細かい足音が広がっていく。
「来る」
小銃を肩に当てた。
「背嚢を捨てるな。まだ走るな」
そう言った直後、駐車場の向こうの廃車の陰から黒いものが飛び出した。
立った二つの耳に犬の面影があるが、肩の筋肉が不自然に盛り上がり、顎が頭の半分ほどまで裂けている。濡れた毛が骨の形に沿って貼りついていた。腹は薄く凹み、あばらが浮いている。一頭、二頭、三頭。数える前に八頭を超えた。
撃った。先頭の一頭が前脚から崩れた。
だが、群れは止まらなかった。弧を描くように回り込んで、後ろの三人へ向かう。
「走れ!」
叫んだときには遅かった。
最後尾の村井の背嚢に二頭が同時に飛びついた。村井は声を上げる暇もなく地面に引き倒された。首筋に黒い顎が食い込んだのが、柏木にははっきり見えた。村井の手が一度だけ宙を掻いて、止まった。
その横で大森が振り向いた。振り向いた瞬間に、別の二頭が脇腹へ食らいついた。大森の悲鳴が駐車場に響いた。
立て続けに引き金を引く。大森に食いついていた一頭の頭が弾け、もう一頭が距離を取った。
そのとき、群れの動きが変わった。
先に倒れた村井のもとへ、犬たちが一斉に集まりはじめた。大森に向かっていた頭数も、半分以上が引き返していく。どの犬も痩せていた。
「久保! 大森を連れて走れ!」
久保は動かなかった。目が見開かれ、村井のほうを見ていた。
「久保!」
もう一度叫んで、ようやく久保の体が動いた。大森に駆け寄り、倒れた体を肩に担ぎ上げる。背嚢を背負ったままだった。捨てろと言いかけて、言葉を呑んだ。そんな余裕を、いま与えるわけにはいかなかった。
「走れ。車まで。振り返るな」
久保が走り出した。大森の血が久保の背に染みていくのが見えた。
そして、村井のほうを見た。黒い塊がいくつも重なって、蠢いている。ひときわ大きな一頭が獲物を引きずって、駐車場の奥へ向かっていく。ほかの数頭がその後を追った。
銃を構えた。撃てばあの一頭は倒せるかもしれない。だが、群れの視線がこちらに向く。そうなれば、久保と大森が逃げ切れなくなる。
撃てなかった。
そのとき、引きずられていく体から何かが外れた。ずるり、と。引く力に耐えかねたように、左腕が肩口から千切れて、アスファルトの上に落ちた。
指がゆるく曲がり、薬指には銀色の輪が光った。
柏木は動いていた。
自分でも理由は分かっていなかった。あの決まりを誰よりも強く口にしてきたのは自分だ。振り返るな。その決まりは、こういう日のために作ったのだ。それなのに、足が動いていた。
群れの端にいた一頭が落ちた腕に気づいた。引き返してくる。濡れた鼻先が地面を這い、腕に近づいた。
膝をつき銃口が犬の頭に触れるほどの距離で引き金を引いた。
乾いた音が、一発。
犬の体が横に倒れた。その向こうで群れの数頭がこちらに首を向けた。掴んだ腕はまだ温かかった。それを胸に抱え込み、立ち上がる。
走った。振り返らなかった。いや、一度だけ振り返った。
駐車場の奥で、黒い塊がゆっくりと形を変えていた。その中に村井がいることを知っていた。知っていて目を逸らした。指先はもう冷えはじめていた。
久保の背中で大森は息をしていた。
柏木が追いついたとき、久保はもう駐車場を抜けて橋のたもとの林に入るところだった。大森を担ぎ、背嚢を背負い、足を引きずるように進んでいる。顔は蒼白で、汗が顎から滴っていた。
「代わる」
「大丈夫です」
「代わる」
「……まだ、いけます」
何も言わず、久保の横に並んだ。後ろに回り込み、大森の様子を見る。脇腹の布がもう赤黒く濡れていた。呼吸は浅く、速い。それでも胸はまだ上下している。生きている。
「大森さん」
久保が走りながら呼んだ。
「聞こえますか。もうすぐです。車、すぐそこです」
返事はなかった。大森の唇がわずかに動いた。何かを言おうとしているようにも見えた。だが、そこから出てきたのは言葉になる前の湿った息だけだった。
「大森さん、なんて、」
「喋らせるな」
柏木が低く言った。
「体力を使う。黙って運べ」
久保は唇を噛んで、頷いた。
林の中をふたりは走った。後方に気配はない。木々の向こうにトラックの輪郭が見えた。あと数十メートルのところで久保の体がふいに沈んだ。
「……あれ……重く、なった」
「降ろせ」
久保は荷台の縁に大森を静かに寝かせた。その体はもう動いていなかった。
「……だめか」
久保の顔がくしゃりと歪んだ。
「さっきまで、温かかったんです。息、してたんです。担いでるときも、まだ」
「ああ」
「大森さん。最期に、何か。俺、聞こえなくて。柏木さんは、聞こえましたか」
目は半分だけ開いて空を見ていた。口の端に乾きかけた血がこびりついている。
「……いや、聞こえなかった」
久保はうなだれた。柏木は大森の目をそっと閉じた。
胸に抱えたままだった村井の腕を背嚢から引き出した上着で包んだ。布越しに指輪の冷たさが手のひらに残った。
拠点の門が見えたのは日が落ちてからだった。
見張りがライトに気づいて門を開けた。荷台を覗いた見張りの顔から表情がゆっくりと消えていった。何も訊かず、ただ一度だけ柏木に頷いた。
ほかの四班は先に戻っていた。広場の隅で荷が降ろされ、帳面に数が書き込まれている。笑い声はなかった。
久保が背嚢を降ろした。米と、缶詰と、乾麺。ほかのどの班と比べても少ない量だった。それでも受け取った係の男は、深く頭を下げた。
「助かる」
世話役が来て低く告げた。
「ご家族は、もう控室に」
控室は元は教室だったらしい部屋だった。机を端に寄せ、真ん中に長い台が置かれ、白い布が敷いてあった。
久保と当直の男ふたりで大森を運んだ。台の上に寝かせると、当直の男たちは一礼して部屋を出ていった。柏木は上着に包んだものを両手で抱えて最後に入った。
部屋の隅に女性がふたりいた。
ひとりは子供ふたりを両脇に抱えている。大森の妻だ。上の女の子は唇を結んで、まっすぐ台のほうを見ている。下の男の子は、母親の服の裾を握って、不思議そうに部屋を見回していた。
もうひとりは窓際の椅子にひとりで座っている。村井の妻。膝の上で両手を重ねている。柏木が入ってきた瞬間、その指先にほんの少し力が入ったのが見えた。
「大森さんです」
喉が小さく鳴った。
「……あなた」
子供たちを抱いたまま台に近づいた。男の子がその袖を引いた。
「お父さん、寝てるの?」
母親は答えなかった。女の子が弟の手をぎゅっと握った。
柏木は一度だけ息を吸った。
「脇腹に、深い傷を負いました。すぐに運びましたが、間に合いませんでした」
「……そう、ですか」
「最期は、苦しまずに」
それは嘘だった。大森は苦しんでいた。苦しみながら何かを言おうとして、言えなかった。
「最後まで、意識がありました。お子さんたちのことを、話していました。腹いっぱい食わせてやってくれ、と」
母親の目から、涙がこぼれた。
「……あの人、いつも、それ」
声が詰まった。
「いつも、それしか言わなくて」
部屋の隅に久保が立っていた。壁際でうつむき、拳を握りしめている。顔を上げなかった。柏木のほうを見ようともしなかった。
母親は台に額を預けた。女の子は、その背に小さな手を置いていた。
柏木はそれを見届けてから振り返った。
窓際の女性が立ち上がっていた。
「……あの人は」
腕に抱えた上着を、さっきより少しだけ強く抱いた。
「群れに襲われて。……取り戻せたのは、これだけです」
村井の奥さんのほうへ歩いた。上着を両手で差し出す。思ったより重かったのか、少しだけ腕が沈んだ。それから、そっと布をめくり、中から現れたものをしばらく見つめていた。悲鳴も、涙もなかった。ただ、布の上に載った手を両手で包んだ。指先を一本ずつ、確かめるように。
薬指の銀色の輪に親指が触れた。細い指輪は、骨の太い指に食い込んで抜けそうになかった。
「……外れないの」
奥さんが呟いた。
「ずっと。外そうとしても、外れなくて。太ったからだって、笑ってた。あの子の手も、こうして包んでた。小さかったから、すっぽり隠れちゃって」
冷えた手を自分の頬に当てた。目を閉じて、しばらくそのままでいた。
部屋は静かだった。男の子が母親に何かを尋ねる声。母親が小さく答える声。それだけが、天井の低い部屋に、ぽつりぽつりと落ちていた。




