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第1話 淑女の皮は、もうボロボロですわ

「……あら。また浮いてしまいましたわね」


 鏡の中に映る自分を見て、私、エカテリーナ・フォン・デスクトップは深いため息を漏らしました。 ため息と言っても、私の喉からは「ヒュル……ズゾゾ……」という、壊れた笛と泥水を混ぜたような音が漏れるだけなのですが。


 鏡に映る私は、誰が見ても完璧な公爵令嬢です。 ですが、その左の頬をよく見れば、皮膚が不自然にめくれ上がり、内側から「青紫色に明滅する、無数の眼球らしき塊」が、隙間から外の世界を覗き込もうとしていました。


「お行儀が悪いですわよ。今はまだ、契約期間内ですわ」


 私はドレッサーの引き出しから、特製の「魔法の糊」を取り出すと、綿棒で丁寧に塗り込みました。 指先でグイと押し込めば、ズブズブという心地よい音と共に、目玉たちは不満げに肉の奥へと沈んでいきます。


 私がこれほどまでに「人間のフリ」に心血を注いでいるのは、ひとえに上位存在『すべてを統べる虚無の上司』と交わした、宇宙的な労働契約のせいです。


  【文明観察及び収穫に関する不可侵条約:第666条】 『対象文明の指導者層が、自ら論理的破綻バグを選択するその瞬間まで、神性を現してはならない。それまでは、その地の最高位の個体として振る舞い、文明を刺激し続けること。違反した場合は、魂を原子レベルで解体し、永遠に宇宙の塵とする』


 ……あのお方、本当にブラック上司ですわ。 この三次元という狭っ苦しい空間に、私の本体――銀河を飲み込む不定形の真実――を押し込めているだけでも、全身の触手が凝って仕方がありませんのに。 瞬きを忘れないようにするだけで一苦労。少しでも油断すれば、背中から「名状しがたきナニカ」が漏れ出してしまうのです。


「お嬢様、朝食のお時間でございます」


 扉の向こうから、侍女のミミが声をかけてきました。 彼女は三年前、私の本体を一瞬だけ見て「あばばばば」と発狂したのをきっかけに、私の専属メイド(兼、狂信者)になりました。


「入りなさいな、ミミ。今日の進捗はどうかしら?」


 扉が開くと、ミミがワゴンを押して入ってきました。 彼女の膝は関節を無視して逆方向に曲がっていますが、彼女はそれを「最新のトレンド」だと信じ込んでいます。これも私の「啓示」のおかげですわね。


「はい。王子殿下は、あの転生者とおっしゃる娘に夢中でございます。『エカテリーナのような薄気味悪い女は、今度の卒業パーティーで断罪してやる』と、声高らかに宣言していらっしゃいました」


「まあ! 素晴らしいわ! それ、本当ですの!?」


 私は嬉しさのあまり、つい背中から触手を三本ほど生やしてしまいました。 いけませんわ、淑女がはしたない。急いでドレスの中に押し戻します。


「婚約破棄……つまり、王族が自ら『安全保障(私)』を捨てるという論理的破綻! それこそが契約満了の合図ですわ! ああ、やっとこの窮屈な『人間の皮』を脱いで、本来の業務(文明の収穫)に取りかかれますのね!」


 私が王子との婚約を維持していたのは、愛ゆえではありません。 この国が「私」という異物を公爵令嬢として遇し、王家の一員に迎えようとする限り、それは文明が正常に機能している証拠。 しかし、彼らが自らその秩序を壊すなら――その瞬間、私の「保護責任」は消滅し、この世界は自由な捕食対象となるのです。


「ミミ、卒業パーティーが楽しみですこと。殿下が『婚約破棄だ!』と叫んだ瞬間に、あのお方へ契約満了の報告書を飛ばして差し上げますわ」


「左様でございますね、お嬢様。その瞬間に王都が異次元に沈むと思うと、ワクワクしてテケリ・リと鳴き声が止まりません」


「ええ、いあ! いあ! ですわ」


 私は最後の一口として、朝食のマンドラゴラの眼球をパチンと噛み潰しました。 その瞬間、部屋の重力が少しだけ反転し、花瓶の花が「称えよ!」と嬉しそうに歌い始めました。


 王子の不実。ヒロインの陰謀。 そんなものは、宇宙の深淵に住まう私にとっては、食事の前の「お箸の準備」のようなもの。


(さあ、はやく呼んでくださいな。殿下。あなたのその愚かな一言が、私の有給休暇の始まりなんですのよ)


 私は、窓ガラスに映る自分の顔を見ました。 そこには、貼り付けたような笑顔を浮かべる「エカテリーナ」と、その背後にうっすらと透けて見える、星々を貪る「巨大な影」が重なっていました。


 卒業パーティーまで、あと三日。 それまでは、このボロボロの皮を、もう少しだけ大切にしておきましょう。 契約、完了まで。 いあ! いあ! ですわ。

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