【第7章 第2話】零を嫌う街
昼。
門をくぐってすぐの広場はきれいに整っていた。
石畳は均一、線も削れなし。けれど、空気はすこし張っている。
看板にはこう書かれていた。
この街の慣習
・「ゼロ」は危険です
・欠けた分は誰かが埋めるべきです
・埋まらなければ、将来ぶんで補います
(……“ゼロは悪い”ってはっきり言ってる。
つまり“いま足りない”が、そのまま“将来の負担”になる街だ)
ノアが端末を開く。
端末《市中:補填ルール=将来ぶん前借り/寿命署名の“参考”欄あり/商取り交わし=固定印つき》
『彼らにとって“ゼロ”は「穴」なんだ。だから“ゼロを置いたまま帰るな”になる』
(でも、ぼくらの“零(0)”は穴じゃない。ただ「触らない」と皆で合意してるだけだ)
(見せよう。「怖くないゼロ」を)
「いまだけ」
セレネがぼくの指に触れる。《命響》が繋がり、胸の圧が半拍ぶん軽くなる。
指、やわらかい。余計に落ち着かない。
「目あわせて」
「合わせてる」
「じゃあもうちょっと近く」
「近い」
(いや近い)
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1)「零印」を貼る
広場の真ん中に小さな台を置き、ぼくは**零印(○)**の札をまっすぐ掲げた。
零印(○)とは
・いま、寿命は使っていません
・あとからも、足されません
・“足りないから誰かが犠牲”という道を使いません
セレネが、読み札に一行添える。
ゼロは“借金”じゃなく“触らない約束”です
ノアが端末を同期させる。
端末《零印:公開箱と鏡張り/観測摩耗:0/固定:未実行(二止め)》
まわりに集まってきた人たちが、まずそこの“○”を見る。
(うん。よく見てる。数字よりもマークを見る癖が、この街にはある)
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2)“ゼロ=誰かが損してる”という疑いに返す
露店の女主人が手を挙げた。
「“ゼロ”ってさ。誰の負担? どっかで押しつけてんでしょ?」
まっすぐでいい質問だ。
逃げない。見える形で答える。
「押しつけてない。こうしてる」
ぼくは公開箱の横にもう一つ、小さな箱を置いた。
「《印付け》——余拍箱・見える口」
「《結時》——余拍→返送/支援→合図点・業点」
•余拍:列のズレや遅れでこぼれた“ちょっと余った/ちょっと押しすぎた”ぶん
•返送流:余拍を配給側に返す。あとで請求のズレを埋める
•支援流:ごく一部だけ、現場の働き(合図点・業点)に回す
ノアが数字を鏡張りで表示する。
端末《本日・門前運用:
返送 18 → 戻し予約
支援 2 → 合図点・業点
寿命使用 0(○)》
ぼくはそのまま、言葉で重ねる。
「“ゼロ”だからといって、空洞にして放置してるわけじゃない。
ズレたぶんは“余拍”として返してる。
で、それは“あなたの明日ぶん”を前借りしてるんじゃない。
“いまのズレ”を“いま返してる”。」
「じゃあ誰も“減って”ないの?」女主人。
「減ってない。“余拍”は『踏みすぎた一歩』『踏めなかった半歩』をまとめているだけ。寿命じゃない。
だからゼロでいい」
セレネが前に一歩出る。
「“あとであなたにツケるからね”って言われるゼロと、
“ここで押し戻したよ”って見えるゼロは、ちがうんだよ」
広場の空気が少しだけ和らいだ。
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3)「じゃあ遅れたらどうする?」に答える
市場の台車のおじさんが言った。
「行列崩れたら? 遅れた分は“将来の自分”が払うのがこの街の約束だろ」
ノアが端末で合図し、ぼくがうなずく。
「見せるね。……セレネ、準備」
セレネが少しだけ得意げに胸を張る。
「任せて。——恋名で呼んで、前に出てください」
「それは違う」
「印名でした。印名でした!」
ぼくは咳払いをひとつ挟んで、路面に指を置いた。
「《結時》——拍ほぐし/余拍前倒し」
「《印付け》——間灯(休む印)+波見」
ここでやったことはこうだ:
•わざと列を崩す
•その“遅れ”を、その場で間灯でゆっくりにしなおし、ズレを吸わせる
•吸い切れなかったぶんだけ余拍箱に入れる
•余拍は配給側に返送予約して、支払いを「後回し」にしない
•必要ぶんちょっとだけ支援流へ回す(=“手伝ってくれた人へのお礼”に乗る)
ノアが数字を示す。
端末《遅延テスト:
遅れ 5
→ ほぐし吸収 3
→ 余拍 2(返送)
支援流 1(合図点)
寿命使用 0(○)》
おじさんが目を丸くした。
「……“将来の俺”のとこにツケが飛んでねぇ」
ノアが静かに言う。『そう。“未来のあなた”を売り物にしない』
セレネがきっぱり言う。
「“ゼロ”はね、“誰も払わないからそのうち壊れる”って意味じゃないの。
“いま動いたぶんは、いまで戻した”って約束なの」
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4)「固定印がないと崩れる」という恐れに返す
門内の係が口を挟む。
「でもな。こっちの決まりは固定印なんだよ。
“はい終わり”って押さないと、後から文句出る」
「“押しました=もう動けません”って意味?」ぼく。
「そうだ」
(それは、この街にとって“安心の形”なんだ。いきなり外せば不安だけ残る)
ぼくは箱から細い糸を取り、石畳の上に一つ輪を置いた。
「《結時》——返し輪」
「これがぼくらの“安心”」
説明する。
•返し輪は“その場の決着”を一回留める
•ただし二止めなので、あとから調停や訂正ができる
•“固定印”みたいに「もう動かせません」にはならない
•いきなりひっくり返すんじゃなくて、“ちゃんと今は止まってるよ”は示せる
ノアが補足する。
端末《返し輪:記録は公開箱に同期/改ざん不可/ただし調停コール可(その場)》
『だから“押しつけて逃げられる終わり”にはならない。
でも“間違えたまま永久に固まる終わり”にもならない』
係はしばらく考えたあと、ぽつりと言った。
「“固定”より、“返し輪”のほうが、怒鳴り声は減りそうだな……」
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5)広場での“公開裁定”をやってみせる
いちばん敏感なところをあえて見せる。
わざと、記録に差異を作る。
門側の板には「通過 31」と出す。
ぼくの公開箱には「通過 30」と出す。
周囲から小さくどよめきが起きる(“あ、やったな”って顔をする人もいる。分かりやすい街だ)。
「《封鎖・判定》——時=30/寿命=0」
ぼくは差異の線だけを噛んで止め、門側とこちら側の値を30に揃える。
同時に、右下には**零印(○)**が灯った。
ノアが広場の全体に向けて表示する。
端末《差異:公開前で調整済/固定印:未使用/返し輪:残し/寿命使用:0》
ぼくは言葉で重ねる。
「これが“差異は公開で調停”の意味。
誰かの寿命で埋めない。裏でこっそり借りない。
目の前で決めるから、ゼロは怖くない」
広場にいた人たちの表情が、露骨にほぐれた。
(ちゃんと“見て納得”で安心する街だ。文字より、演算より、いま目の前の整い方を見る)
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6)「ゼロは怖い」→「ゼロは安心」に言葉を張り替える
セレネが看板を新しく貼る。
この街の人に向けた、一番短い言い方だ。
この街での“ゼロ”
・誰も泣いてない証
・あとから請求が飛んでこない証
・“いま戻したから、明日に借りないよ”って合図
そして最後に一行、
ゼロ(○)は“放置”じゃなく“守った”って意味です
係のひとりがふっと笑った。
「“明日に借りない”って言い方、いいな。
“誰が死ぬ役?”って聞かなくていいなら、こっちも楽だ」
ノアがうなずく。
端末《市内:ゼロ=不安→ゼロ=前払い済のニュアンスへ変化(聞き取り)/苦情:低》
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7)こぼれるラブコメと、半拍ぶんの未来
セレネが、ぼくの腕の袖をぎゅっとつまむ。
(もう、完全に合図ですって顔をしてないやつだ。それただの甘えだよね?)
「いまだけ、聞いていい?」
「うん」
「……“誰も泣いてない証”って言ったとき、あれって、クロも含まれる?」
「もちろん」
「じゃあさ」セレネは顔を真っ赤にしながら早口になった。
「わたしもそれに入れて。わたしは泣かないって、ゼロのとこに入れて」
ノアが盛大にむせた。
「記録的に扱うなら、“泣かない”は定義が曖昧なので——」
「ノアは黙ってて」二人そろって言ってしまって、ほぼ同時に目を合わせてしまう。
広場からふっと笑いが漏れる。
(……恥ずかしい。でも、悪くない。
“ゼロ”が、単に数字じゃなくて、“いま隣にいる誰も欠けてない”って意味になるなら——それ、ちゃんと残してもいい)
ぼくは静かにうなずく。
「じゃあ書き足そう。
“ゼロ=誰も泣いてない。あなたも、わたしも”」
セレネの耳がさらに赤くなる。
「それ、読み札に本当に入れるの?」
「うん」
「やめて……いまだけ、やめて……」
(いまだけ、は信用できない言葉だって知ってるよ)
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8)今日の看板と数字(零を嫌う街)
公開箱へ、今日のまとめを入れる。
今日のまとめ(零の街)
・零印(○)=“寿命は使っていない/あとからも足さない/明日に借りない”
・遅れは拍ほぐし+余拍前倒しでその場処理(将来ぶんを担保にしない)
・固定印の代わりに返し輪(その場で止める/あとで調停できる)
・差異は公開で即調整(時=30/寿命=0、全員の前で決める)
・“ゼロは危険”→“ゼロは誰も犠牲じゃない証”へ言い換え
ノアが数字を出す。
端末《門内通過:+6%/苦情:低/将来請求(前借り)提案:拒否率92%→拒否/納得/寿命欄:全拍0(○)》
『この街の“ゼロ恐怖”は、いまのところ落ち着いてる。』
門審官が近づいて、静かに言った。
「“ゼロは放置じゃない”……。
それなら、“ゼロ”を掲げたまま広場を通っていい」
ぼくらは顔を見合わせる。
(通れた。ちゃんと通れた。
つまり、“ゼロ”を“安心”としてこの街に残したまま、さらに奥へ進める)
セレネがそっと、ぼくの手を握る。
「いまだけじゃなくて、ずっと、ね?」
「うん。二拍で」
「二拍で」
二で通して、三は踏まない。
切らずに結んで、見せて運ぶ。
そして、“ゼロ”はもう、誰かの犠牲の形じゃない。
それは、あなたも、わたしも、まだ隣にいるという印。
——次は、この街の奥。“針の温床”。
“ゼロは危険”より深い、本丸。そこに針を打っているものの正体を暴く。




