【第5章 第4話】無名の来訪
夕方、川霧が灯りの色をやわらげるころ、ぼくらはβの外側に細い輪を足した。
新しい道——γループ。看板は短く、わかりやすく。
《共通印》で開きます。
人の名前はいりません。
「見たこと(証)」と「いつ(時間)」が二つあれば、通れます。
セレネが指で鐘を軽く鳴らす。澄んだ音が一度だけ揺れ、屋台の灯りがふっと明るくなった。
「音と灯、いいね。目と耳で合図が取れる」
『観測側も連動済み。二で開示、三は閉』ノアが頷く。
ぼくは継承鍵を半回転させ、線と線をやさしく結ぶ。
「《結時》——配給↔受け口(γ)」
端末《γ:接続/請求:標準/摩耗:監視ON》
ほどなく、小さな行列ができた。
配給を受け取った母子が、胸を押さえて笑う。「今日、楽だった」
(うん、流れてる)
——そのとき、ノアの声が低くなる。
『重複証検知。ひとり分の“見たこと”に、影が重なってる』
屋台の陰を、紙片みたいに薄い空白がすべった。
母子の背後に、同じ“時間”で重なるもう一つの足音。
(無名——“証”を鏡取りして、後ろから滑り込む気だ)
「止めてから、結ぶ」
ぼくは端末に指を置く。
「《封鎖》——重複証の枝だけ凍結」
配給全体は止めない。影に繋がる細い進みだけ、噛んで留める。
端末《重複枝:抑止/他流路:通常》
セレネがさっと母子のそばへ回り込む。「いまだけ、ここ立ってて」
《命響》の膜がかかり、遅延の圧が母子に届かないよう、彼女の掌がそっと支える。
「次。ひとり一拍で分ける」
ぼくは鍵先を丸め、言葉を添える。
「《印付け》——一鈴一灯」
通過の瞬間に小さな鈴と一度の点灯を結びつける、“合図の印”。
証=見たことに音と灯の印を結び、鏡取りの影とは一拍ずらす。
端末《合図印:発火/同時通過:不可/重複:解消》
母子が通る。チリンと鳴って、灯がひと呼吸だけ明滅。
影が続こうとして——鈴は鳴らない。時間を買い足すように、影は刻限を伸ばしにかかる。
『刻限の買い足し、微量』ノアが告げる。『ミリィ系の“糸”じゃない。流しの借り印が混ざってる』
(なら、数えで止める)
「《結時》——刻限結び(小)」
合図印の数え目に小さな結び目を置き、影の遅延だけを一拍飛ばす。
影の足場がなくなり、空白がふっと薄くなった。
端末《影:空転/買い足し:無効/重複証:消滅》
セレネが肩で息をして、笑った。「いまだけ、持てたよ」
母子は振り返り、小さく頭を下げていった。胸の上で、鈴の余韻がまだ温かい。
——落ちた紙片に、薄い印。
無名の置き土産。細い横線が三本、ずれて重なる。
(“三で固定”の合図……ここでも固定へ引き込みたい)
ノアが分析する。『空白箱で合図印ごと“箱”にして、三へ進める計画だった。二で開示のままにされると困るから』
「じゃあ、箱に“人の名”が入らないって、もっとはっきり看板にしよう」
ぼくは路地の角に新しい札を貼る。
《おねがい》
この道は《共通印》で開きます。
人の名前ではなく、“やることの名前”で通します。
鈴はひとり一回、灯も一回。
ふたつ鳴らないときは、教えてください。
セレネが指で縁をなぞる。「やさしい」
『合図印の公開も入れる。観測を損なわない/寿命の強要なし/記録に残すの三原則で』ノアが文字を添えた。
通りの奥で、別の鈴が遠くに一度鳴る。
γの隣、商店街口の灯りが、合図に合わせてかすかに点る。
(広げられる——二で通して、三は踏まない)
——その時、風が向きを変え、地面の影が一枚だけ逆に流れた。
無名がもう一度だけ、**“無音の鈴”**を差し込んでくる。
鳴らない鈴。記録に残りにくい、音の影。
「音を見えるようにすればいい」
ぼくは鍵をひねり、合図印へ小さな追加。
「《印付け》——音跡」
鈴の波形を短い光の筋に変え、一拍だけ路面に残す。
“鳴っていない鈴”は筋が出ない。影は足場を失い、路地の端へ剥がれ落ちた。
端末《無音挿入:失敗/音跡:可視化/影:退避》
ノアが短く息を吐く。『追い出した。被害ゼロ。二で開示のまま維持』
セレネが空白の落ちた場所を見下ろし、眉を寄せる。
紙の裏に小さな文字があった。
「無名は“名”に興味がない」
「興味があるのは“最初に通る道”」
「最初を狙う……seedだ」
ぼくは昨夜の記録井を思い出す。(最初の証を抜きたい動機)
『seedは二系統持った。どちらも二止め。——でも“道の最初”は毎回生まれる』ノア。
「じゃ、最初の一人を守る印が要る」
セレネが手を挙げる。「一人一鈴の前に、はじめの一鈴」
「それだ」ぼくは笑う。
「《印付け》——初鈴。その時刻で最初に通るひとの鈴だけ、音跡を二拍残す。影はそこへ乗れない」
端末《初鈴:有効/乗っ取り:不可/刻限:安定》
通りの先で、配達の青年が帽子を上げる。
チリン——チ、チン。二拍ぶん、光の筋がたしかに残った。
彼は足元を見て、ぽつりと言った。「これ、安心する」
ぼくは頷く。
(最初を守れたら、列は崩れない)
風が止み、空白の紙片がからりと音を立てて転がる。
ノアが拾い上げ、懐へしまった。『解析に回す。最初の道をどう測っているか、手口の痕がある』
セレネが肩を回し、少しだけ笑う。
「いまだけ、ちゃんと持てたね」
「うん。止めて、結んで、返す。それを合図印にして、最初を守る」
ぼくは看板をもう一枚、商店街口へ貼った。
《おしらせ》
初鈴が鳴った道は、順番に進みます。
鈴と灯はひとり一回。
“無音の鈴”は無効です。
端末《γ:安定/侵入:無名→退避/借り印:外周停滞》
《次手:合図印の仕様公開/seed-03 予備作成》
夜が少しだけ深くなり、灯りが近く感じる。
ぼくは継承鍵を握り直した。温度はそのまま、心の重さは少し軽い。
「行こう。二で通して、三は踏まない。
初鈴・一鈴一灯・音跡——分かる言葉で、街じゅうへ」
セレネがうなずく。「いまだけじゃなく、ちゃんと続く合図を」
ノアが微笑む。『観測は保つ。合図は残す。無名は——最初で止める』
川霧がほどけ、どこかで鈴がやさしく二度、鳴った。




