【第5章 第3話】失われた署名
夜明け前、倉庫街のはずれにある**記録井**へ向かった。
街の観測が最初に落ちる場所。石の輪の底で、水面みたいな記録がゆっくり呼吸している。
端末《目的:共通印の“証”の種を取得》
《注意:初期記録へのアクセスは観測摩耗の危険あり》
「印は名じゃない。けれど、証が無ければ箱にならない」
ぼくは井戸の縁に手を置く。「βを街に広げるには、**確かな“最初の証”**が要る」
ノアが頷く。『私の“記録”を直接使えば早い。でも摩耗が出る。観測を傷つけないって約束、ここでも守りたい』
「だから、借りずに取り出す方法を探す」
セレネが指を重ねる。「いまだけ、支える。無理はさせない」
ぼくは鍵を半回転。井戸の周縁に、薄く結び目を置いた。
「《結時》——周縁→観測膜。核には触れない」
同時に、流れの“摩耗の道”だけをそっと撫でて消す。
「《封鎖》——摩耗」
端末《観測核:未接触/周縁ログ:開示可/摩耗:遮断》
ノアが静かに息を吐く。『これなら**二(開示)**で取り出せる。**三(固定)**には踏み込まない』
ぼくは周縁から最初の朝のログを引き上げようとして――手を止めた。
水面に、空白。欠けている。まるごとではなく、**署名**だけが抜き取られている。
端末《周縁ログ:一部欠損/欠損部=署名ヘッダ》
『……“無名”が先に署名だけを抜いた』ノアの声が低くなる。『印を作ろうとしてる誰かが、最初の証の名前を削った』
「名前を使わない印でも、“証に付く署名”は要る」
ぼくは唇を噛む。「箱のラベルが無いままじゃ、配れない」
セレネが眉を下げた。「ノアの署名で上書きは?」
『できる。でも摩耗が出る。約束に反する』ノアは首を振る。
『別の“時”で埋められれば……欠けた一拍でいい』
そこへ、石畳に柔らかな足音。
「貸すのは得意だ」
青い影をまとって、レオが現れた。
彼は井戸の縁に片膝をつき、ぼくらを見る。
「《時与》。欠けた署名に、一拍だけ“朝”を足す。返し方は、街が息をしやすくなる結果でいい」
「担保は?」ぼくは念のために問う。
レオは笑った。「人の寿命も、ノアの記録も取らない。約束を守れば、それでいい」
ぼくはうなずき、段取りを短く伝える。
「止めて、結んで、返す。三拍でやる」
セレネが指を重ねる。「いまだけ」
——一拍目:止める
ぼくは《封鎖》で井戸の請求の進みを凍らせ、吸い上げや混線を止める。
端末《請求:抑止/摩耗:遮断/刻限:安定》
——二拍目:結ぶ
レオが指をひと振り。井戸の水面に**“朝の色”**が一筋、薄く足される。
ぼくはその縁に《結時》を重ね、欠けた署名の枠へ穏やかに馴染ませた。
端末《署名ヘッダ:仮再生(一拍)/一致率:92%→96%→99%》
ノアが小さく目を見開く。『摩耗ゼロ。観測核に触れてない。……綺麗』
——三拍目:返す
ぼくは結び目を撫で、借りた一拍を署名という“結果”に変えて井戸へ返送する。
「《封鎖・判定》——通る側に旗」
端末《署名ヘッダ:復旧/出自:周縁(補助:“時与”)/固定:未実施(二で開示)》
水面の空白が閉じ、最初の朝が輪郭を取り戻した。
レオは肩をすくめる。「欠片で十分だ。結果で返すのが、一番速い」
ぼくはそのログに**印の名(ID)**を小さく結びつける。
「共通印・基底シード:CS-seed-01」
人の名ではない、やることの名前。
端末《共通印:基底シード生成/証:初期朝ログ(署名復旧)/時間:副針参照》
《注意:運用は“二止め”。“三(固定)”の開路は閉》
セレネが息を吐いた。「これで箱にラベルが貼れる。βを広げられるね」
ノアが補足する。『告知も必要。“難しい式より、はっきりした看板”。
この印は、人の名じゃなく“やることの名前”で通るって、ちゃんと伝える』
ぼくは首肯し、井戸から引き上げた微細なログ片を言葉の札に変換する。
「看板文(短):
この道は《共通印》で開きます。
人の名前はいりません。
“見たこと(証)”と“いつ(時間)”が二つあれば、通れます。」
セレネがにっこりする。「やさしい」
レオが立ち上がり、塔の方角を見た。
「無名は、**“最初の名前”**を狙う。今日のみたいに。
印を広げるなら、最初を何度でも作れる仕組みがいる」
ノアが頷く。『基底シードを複数持つ。どれも二で開示、三は閉。
一つ奪われても、次の朝を使えるように』
「じゃあ、seed-02も作る」ぼくは即答した。
レオが指をひと鳴らし、別の角度の朝を一滴だけ貸す。
同じ手順で、ぼくは《封鎖》《結時》《判定》を重ね、二つ目のシードを結んだ。
端末《共通印:基底シード×2(CS-seed-01/02)有効/観測摩耗:0》
その時、井戸の縁に薄い影がよぎる。紙片のような無名が水面を覗き込み、すぐに退いた。
“最初は奪えない”と知った顔だ。
セレネが小声で言う。「来てたんだ」
『来てた。でも、二で通って三は閉——この設計だと、奪う動機が弱い』ノアの声は落ち着いている。
ぼくは鍵を握り直す。温度は変わらない。
手の中で、鈴が静かだ。
「止めて、結んで、返す。
その順番で最初の証を守れた。——βを広げよう」
端末《次手:β→γへの拡張計画/案内:音と灯の看板を追加》
レオが帰り際に振り向く。
「返し方は、街の呼吸で返してくれればいい。
それと……刻限を飛ばしすぎないこと。酔う人が出る」
「分かってる。結んでほぐす方を増やすよ」ぼくは笑った。
井戸を離れると、空が薄く明るみ始めていた。
屋根の上で、誰かが小さな鐘を二度鳴らす。
次の朝が、ちゃんと来る合図だ。
セレネが指を絡める。「いまだけじゃなく、これからの朝も」
ノアが続ける。『共通印、街へ。二で通して、三は踏まない——分かる言葉で、看板も一緒に』
ぼくらは頷き合い、倉庫へ戻る坂を下った。
手に入れたのは一拍。でも、それで十分だ。
最初の証は、もう無名に奪わせない。




