【第5章 第2話】印の設計図
旧観測塔を降りた夜、ぼくらは川べりの倉庫に入った。
壁に古い地図を貼り、机にリングと小さな端末を並べる。ここを、試作の工房にする。
「やることは三つ」ぼくは指を折る。
「止めて、結んで、返す。それを“印”の形に落とす」
ノアが頷き、黒板にチョークで丸を三つ描いた。
『証、時間(刻限)、名——継承の場の三条件。
ただし今回は“名”に人の名を使わない。代わりに、**印そのものの記号名(ID)**を置く』
「名は通路。なら、人の名じゃなく印の名で通す」
ぼくは黒板へ近づき、チョークで一本の線を引いた。
「共通印。どの誰かでもない、“やること”に結びついた記号」
セレネが横で手を挙げる。「むずかしい言い方、少しやわらかく」
『了解』ノアは微笑み、丸の中に短い言葉を書き足す。
証=見たこと(改ざんできない記録)
時間=いつ(数え方を飛ばさない)
印名=やることの名前(人の名前じゃない)
「これなら分かる」セレネが胸を撫で下ろす。「で、どう組むの?」
『二で開示、三で固定は世界のルール。
わたしたちは二だけで流し、三にはしない設計にする』
ノアは三つの丸を線で結び、矢印を引いた。
『証+時間=開示。印名は記録の箱を識別するだけ。人には結びつけない』
「無名は?」ぼくが尋ねる。
『無名(空白)は証がないから“箱”になれない。入ってきたら、証を求めるだけで止まる』
ノアはにっこりした。『シンプル』
セレネが机に手を置いた。「まずは小さく。配給ループβを作って試す?」
『賛成』ノアが端末を起動する。
端末《試験ループ:β/対象:倉庫周辺3ブロック/刻限:20拍/共通印:ID-CS-β1》
『“β1”が印名。これが“名”の枠を埋めるけど、人の名義じゃない』
「いまだけ」
セレネがぼくの指に触れる。《命響》が繋がり、胸の重みが半拍ぶん軽くなった。
「回線、つなぐね」
ぼくは鍵を半回転。宣言の回路が開く。
「《結時》——配給↔受け口(β)」
線と線を結ぶ。切らない。奪わない。ただ“手をつなぐ”。
端末《配給:βループへ接続/請求:標準/摩耗:監視スタート》
倉庫の窓の向こう、三軒先の屋台の灯りがぽうっと明るくなった。
いつもより、ほんの少しだけ呼吸が楽そうだ。
「やれそう」セレネが微笑む。
ノアが補足する。『ここから二で流すよ。“証”は私の観測ログ、“時間”は市針塔の副針。**三(固定)**は閉めたまま』
——十拍目。
端末《状態:安定》
——十一拍目。
窓の外を、紙のように薄い影がすべる。
地図の端で、小さな空白が穴の形になり、βループへ並走してきた。
『来た——無名』ノアの声が低くなる。『受け口を空白の箱で偽装して、刻限だけを伸ばして流入しようとしてる』
「止めてから、結ぶ」
ぼくは端末に指を置く。
「《封鎖》——請求だけ凍結」
吸い上げる力の“進み”だけを噛み、止める。
端末《請求:抑止/配給:遅延(微)》
セレネが頷いた。「いまだけ、支える」
《命響》の膜が薄く張られ、遅延が客たちの胸に届かないよう、そっと圧を受け持つ。
「次。証」
ぼくは空白の箱の縁へ指をそえる。
「《証印》——観測ログを押す」
ノアの記録から、今この場の“見たこと”だけを小さく刻む。空白は“ただの空白”ではなくなり、中身のない箱に変わる。
端末《空白:印付け(中身なし)→開示不能》
『二が揃わない。通らない』ノアの声が少し明るくなる。
空白はゆっくりと薄まり、夜気に滲んだ。
——十五拍目。
βループは落ち着きを取り戻していた。
屋台の湯気が綺麗に上がり、小さな笑い声が戻る。
「最後は返す」
ぼくは結び目を撫で、βループで発生した誤差(わずかな遅延)を配給側へ押し戻す。
「《封鎖・判定》——通る側に旗」
端末《誤差:返送/配給:通常》
セレネが息を吐き、壁にもたれた。
「ふう……いまだけ、ちゃんと使えた」
『いい初動』ノアは黒板の丸にチェックをつける。
『設計を言葉でまとめ直すね。読者……じゃなく、利用者に分かるように』
ノアは話す。
『共通印(ID)——“やることの名前”。人の名じゃない。
証——“見たこと”。改ざんできない。
時間(刻限)——“いつ”。数えを飛ばさない。
この三つのうち二つが揃えば通る。でも三つ揃えて固定はしない。だから、動かせる』
「短くて、分かる」セレネが親指を立てる。「次は?」
『負荷と緊急時の逃がし方。数え飛ばしは便利だけど、乱用すると時間酔いを起こす人が出る』
ノアは地図に小さな印を置いた。『ここに緩衝路。遅延を砂利道みたいに細かく刻んで、足がもつれないようにする』
「結時でじわっとほぐす感じだね」
ぼくは鍵を逆回転して先端を丸め、小さく宣言する。
「《結時》——緩衝路開通」
線はゆっくりと柔らかくなり、硬い角が丸まった。
端末《緩衝路:有効/遅延:分散》
窓の外で、別の屋台の灯りが瞬いた。
地図の端、βの外側で小さな借り印が点滅している。名を貸すブローカーの印だ。
『外周から回り込む気配』ノアが目を細める。『βの外で、印の“借り”を増やして“内側の混雑”に見せかけるつもり』
「こっちから迷い道を出す?」セレネが首をかしげる。
「ううん、正直な道を増やす」ぼくは即答した。
「借りに頼らなくても通れる細路。人の名じゃなく“やることの名前”で開く道」
ノアがにっこりする。『それが共通印の真価。——細路の案内板、つけよう』
黒板に新しい一行が増える。
案内:共通印の場所は「灯が二つ見える角」「屋台の湯気の向き」「鐘の音が小さくなるあいだ」
『人の目で探せる印。機械だけに頼らない』
「好きだ、そういうの」セレネが笑う。
——十八拍目。
端末《β外周:借り印→増加(微)》
「来る」ぼくは鍵を握り直す。
「でも、やることは同じ。止めて、結んで、返す」
セレネが指を重ねる。「いまだけ」
《命響》の糸がもう一度、温かく胸を撫でた。
ぼくはβの縁に触れ、借り印の群れへ向けて、声に出して言う。
「印は、名じゃない。やることの名前で通す。証がなければ、今日は帰って」
言葉は宣言だ。鍵の回路がそれを拾い、βの縁に薄い言葉の膜を張る。
端末《効果:言語宣言→境界強化/借り印:離脱(小)》
『通じた。言葉で押し返せた』ノアが驚く。
「みんな、分かる言葉が欲しいだけだよ」ぼくは答える。
「難しい式より、はっきりした看板」
——二十拍目。
端末《刻限:満了/開示:終了/固定:未実行》
《結果:βループ 安定/無名:侵入ゼロ/借り印:外周に残存》
夜風が倉庫の中を通り抜ける。
セレネが大きく伸びをして、はぁ、と息をついた。「初回テスト、合格?」
『合格(暫定)』ノアが親指を立てる。
『次はβの外へ説明を広げる。読み書きが苦手な人にも届く音と灯りの案内を』
「任せて。やさしい言葉で看板を書く」セレネが笑う。
ぼくは頷き、鍵をそっと握り直した。温度は変わらない。
でも手の中の重みは、少しだけ軽く賢くなった気がした。
「行こう。次も——二で通して、三は踏まない。
止めて、結んで、返す。 それを、印にして街へ」
倉庫の扉を開けると、川霧は薄く、灯りは近かった。
βの先で、誰かが小さく鐘を鳴らす音がする。
——次の角に、共通印の看板を立てに行こう。




