【第5章 第1話】旧観測塔の約束
明夜、川霧が薄くほどけるころ、ぼくらは坂をのぼった。
灰色の柱が空を刺す。旧観測塔。ノアの“記録”が最初に刻まれた場所だ。
「ここ、嫌いじゃない」
ノアが笑ってみせる。けれど声の端は緊張していた。
『でも、記録を削る仕掛けが残ってる。気をつけて』
「やることは、いつも通り」ぼくは指を折る。
「止めて、結んで、返す。 それだけだ」
「いまだけ」
セレネがぼくの指に触れる。《命響》が繋がり、胸の圧が半拍ぶん軽くなる。
掌の継承鍵が、かすかに鈴を鳴らした。
――未清算:1。ここで片をつける。
扉を押し開けると、円形の床と古い計器の輪。いくつかには白い封蝋が貼られ、触れてよい場所と触れてはならない場所がはっきり分けられている。交渉の場の作法だ。
天井の梁から影が降りた。黒外套ではない。灰のスーツに薄手の手袋。
テンペストの代理長。昨日、帳で署名した声の主だ。
「合意を先に」代理長は胸の徽章を外し、見えるところへ置いた。武器を持ち込まない合図。
「一、観測を損なわない。二、寿命の直接支払いを強要しない。三、決まったことは“記録”に残す。」
「異議なし」ぼくは即答した。
ノアもうなずく。セレネの指に力が入る。
代理長は円床の向こう側へ立つ。
「こちらの要求は二つ。配給の安定。そして、妨害の停止。
それから――君の“名”は通路として覚えられている。針は返してもらう」
鍵の鈴が短く鳴った。(返すなら、付けたままにはしない。行き先を正して返す)
「こちらの条件は三つ」ぼくは一歩、中心へ進む。
「橋脚下で刈り取られた分の返還。反転の再発防止。
そして針は――刺す“手”へ返す。塔に置きっぱなしにはしない」
代理長の睫毛がわずかに揺れる。
「“手”に返す、か。名指しが要る」
「グラム」
名を放つと、梁の影がほどけた。無音の歩幅。冷たい空気の切れ味。
幹部の男は外套の裾を指で整え、短く言った。「呼んだか」
「呼んだよ。返すために」
代理長が封蝋を一つ貼り直し、場を締める。「では一つずつ」
ぼくは継承鍵を半回転。宣言の回路が開く。
「《返還請求》――橋脚下の“刈り取り分”。ゼロ署名で配給側へ戻す。証はΩのログ、出頭は今ここ」
ノアの声が続く。『“証”あり、“出頭”あり。二で足りる。三(担保)は不要』
計器の針が音もなく動き、壁の細い管へ淡い光が走る。
代理長は頷いた。「認める」
グラムは無言のまま、外套の影を薄くした。引き潮のように、吸い上げられていた分が街へ返っていく。
「次。再発防止」ぼくは言葉を選ぶ。
「奪う道を増やさない。もし結び替えが要るなら、公開の場で。
変える前に**印(ログ印)**を押す。あとから誰が見ても分かるように」
代理長は少しだけ目を伏せ、短く答えた。
「記録に残すこと。合意する。緊急時は?」
「誰が・何のためにを、あとから追える形で」
「よい」
(そして本題)
ぼくは鍵を掲げ、内側に移していた待ち針を見せる。名に刺さった“重し”。
「これはぼくの“名”に刺さっている。返す。ただし――条件つきだ」
グラムの瞳がわずかに細くなる。「条件?」
「さっき合意した三つの上でしか戻さない。
観測を損なわない/寿命の直接支払いなし/記録に残す。
同じ約束の上でなら、針は君に返る」
短い沈黙。古い塔が呼吸する。
ノアの視線が揺れ、セレネの掌があたたかい。
代理長が静かに言った。「受けよう。三つの合意の上で、針の返還」
グラムは外套の裾を軽く押さえた。「受領する」
ぼくは鍵をひらき、粒になっていた“責任”と待ち針の名義を外す。
「《返す》」
粒は細い光になってグラムの指先に吸い込まれ、冷たさではなく重みだけが移った。
計器の針がそろい、封蝋に印が押される。
ノアが息を吐いた。『未清算:0。……静かになった』
肩の力が少し抜けた。胸の鈴も黙る。
グラムは受け取った重みを確かめ、ぼくを見る。
「確かに。条件ごと受けた。記録に固定された」
「ありがとう。これで――ここでは終わりだ」
代理長は退室の仕草をして一歩下がり、扉の前で振り向いた。
「忠告を一つ。名は通路。君の名を借りて、また別の針を運ぶ者がいる。
彼らは約束を持たない。無名と名乗るだろう」
無名――市針塔で見た空白の箱が頭をよぎる。
ぼくはうなずいた。「印を用意する。無名にも効く、名に依存しない印を」
セレネが微笑む。「分かる言葉で、止めて、結んで、返す。それで勝てる」
扉が閉まり、塔に風が戻る。
外へ出ると、明夜の灯りが遠くで瞬いた。街の線は静かに整い、霧がほどける。
ぼくは継承鍵を握り直す。温度は変わらない。
けれどもう、それは借り物の重さではなかった。ぼくが選んだ重さだ。
「行こう」
ノアが頷く。『観測は保つ。印の設計、手伝う』
セレネが指を絡める。「いまだけじゃなくて、ちゃんと、最後まで」
坂を下りながら、ぼくらは無名にも効く印――共通印の作り方を、分かる言葉でひとつずつ確かめていった。




