【第4章 第12話】市場の針
帳外回廊を抜けると、夜は色を取り戻した。
露店の灯り、錆びた看板、香辛料の匂い。リミットバザールが息をしている。
高所には、細い針のような塔——市場全体の“時”を合わせる市針塔が立っていた。針先で青い脈が瞬き、街区ごとの配給ループに時間印を刻んでいる。
端末《目的地:リミットバザール中央層/未決案件:“刈り取り計画・受け口固定”》
《方式:名の競売/固定条件:①名 ②時間 ③証(うち2→開示/3→固定)》
『……“名は通路”。さっき代理長が言った通りだ』
ノアの声が低く落ちる。『ここで“受け口”を誰かの名に結びつけるつもり。固定されれば、配給の余剰が恒常的に吸い上がる』
セレネが市針塔を見上げ、息を飲む。
「固定される前に、開示だけで止める……だね?」
(うん。二で通す。三は踏まない)
ぼくらは人波に紛れ、中央層の輪舞口へ向かった。
そこでは口入屋たちが、紙片のような命券を指で弾き合っている。刻まれた数字は、寿命の“細片”。笑い声は軽いが、掌は冷たい。
端末《入札端末:市針塔基台/権限:継承鍵(暫定)で閲覧可》
ぼくは基台の小窓に鍵を軽く触れさせ、内部の流れを覗く。
名の候補が何本も並び、その中に薄い灰色でテンペスト代理長の署名が先頭に滲んでいた。
(先に手を入れてる……!)
「いまだけ」
セレネの指が重なり、《命響》が繋がる。胸の圧が半拍ぶん軽くなる。
「《時蝕・封鎖》——請求」
ぼくは入札端末と市針塔を結ぶ“請求の進み”だけを噛み砕き、競売時計を鈍らせる。
つづけて、ノアの記録へ向かう“摩耗の流れ”に触れる。
「《封鎖》——摩耗」
端末《入札:遅延/摩耗:遮断/名簿:編集可(暫定)》
ロタンダの反対側で、金属質の靴音が一拍遅れて返る。
黒い外套。無音の歩幅。
グラムが、灯りの縁で立ち止まった。
「忠告はした。継ぎ目で噛む癖を、矯正しろ」
彼は指先をわずかに傾ける。床の目地が消え、世界から“縫い目”が一枚、拭い取られた。
《時断》の線が見えない。代わりに、断面そのものが消える。
ノアが短く息を呑む。『断面消去……“縫い目”を観測ごと剥がしてる。私の目が滑る』
(縫い目が消えるなら、切らない。——結ぶ)
ぼくは鍵を半回転。宣言の回路が開く。
「《結時》」
切断や封鎖ではなく、ズレ合った時間の縁同士を結び目にして固定する手。
糸は見えない。だが、手応えはある。
一拍目、ぼくが市針塔の“配給側と入札側”に薄い結び目を作る。
二拍目、セレネが《命響》で結び目の張力を肩代わりし、膜を張る。
三拍目、ぼくがその結びに鍵の“名義線”を通し、開示の二条件だけを満たす道を縫う。
端末《状態:開示(二)へ移行/固定(三)未満/受け口:一時確保》
グラムの影がわずかに揺れた。
彼は新しい手を打つ。空白——名簿の間に、空白の名(無名)を滑り込ませ、そこを“受け口”にする。
空白は切れないし、噛みにくい。
「無名で通すの、ずるい」
セレネが笑って、息を詰めた。掌が白くなる。
ぼくは頷く。(空白は切れない、だから——印を押す)
「《証印》」
Ωで照合済みのログ印を空白に押し当て、“ただの空白”を記録済みの箱にする。
箱には証が宿る。これで“二を超えて三へ行く道”を、こちらで管理できる。
端末《空白:印付け完了/証の参照権:継承鍵(暫定)に付与》
《固定:保留(申請者が拒否中)》
グラムの視線がこちらに流れる。
「門を“通す”と言いながら、門柱を自分の縄で縛る。矛盾している」
「矛盾じゃない。通した責任を、固定しないで持つ方法だ」
ぼくは鍵を握り直した。掌の温度は上がり、未清算の一が鈍く鳴る。
(この音は、逃げ場じゃない。進み方の合図だ)
その時、市針塔の上段で、別の灯りが点く。
細い扉の内側に、白衣の少女の横顔。ミリィだ。
彼女は管を一本、軽く弾いて言う。
「式、開始。名の競売。入札刻限、三十拍」
ロタンダの空気が一段冷え、紙片が舞い上がる。
端末《刻限:30拍/入札単位:命券(細片)/優先:証印済みの“箱”》
(箱は勝ってる——“証”があるから。だけど、三を踏むと固定される)
ぼくはノアに目で合図する。
『分かってる。二で止める。印の参照権を通じて、開示だけ引き出して——固定の回路を閉じる』
「いまだけ」
セレネが短く言い、張っていた膜をさらに強くする。指先が震え、頬から色が引く。
グラムは静かに歩み、外套の裾を指で摘んだ。
「名を抱えるなら、名の影も抱えろ」
彼は市針塔の根本に影の針を立て、ぼくらの“名義線”へ針先をそっと触れさせる。
痛みはない。だが、名がわずかに重くなる。
(——覚えられる。代理長が言った通りだ)
「クロ」
セレネの声が揺れる。「大丈夫?」
「大丈夫。……いまだけは」
ぼくは答え、拍を数え直した。
——二十拍目。
入札は踊る。空白の箱は、証印の重みで前に出る。
だが三へ行く回路は、鍵の中で結び直され、開かない。
——二十八拍目。
ミリィが眉をひそめ、別系統の管を開く。換命の細い糸が、市針塔へ流れ込む。
「肩代わりで、刻限を伸ばす。三十から——三十五」
端末《刻限補正:+5拍(外部供給)》
ノアが低く唸る。『時間そのものを買ってる。細片の命で刻限を延ばして、固定に滑り込むつもり』
(なら、刻限を折る)
「《結時》——刻限結び」
ぼくは市針塔の“刻限針”に小さな結び目を作り、数えの隙をひとつ飛ばす。
三十一拍が、飛ぶ。
ミリィが息を呑む。「数が——跳んだ?」
端末《刻限:33/固定回路:未到達》
「この市場の針、きれいだね」
セレネが笑おうとして、少しよろけた。
《命響》の光が薄く、リングが低い警告音を鳴らす。
ノアがすぐ支えに回る。『負荷が偏ってる。セレネ、いまだけの無理は限界だよ』
「知ってる。だから、いま止める」
セレネは掌を塔の基台へそっと当て、膜を市場全体に広げる。
薄いベールが屋台の灯りを撫で、紙片のきらめきを静かに落ち着かせた。
——三十三拍目。
入札の鐘が乾いた音を立て、開示が確定する。
《条件:名/証——二項成立》
《受け口:開示(仮)/固定:未満》
市場のざわめきが戻る。
空白の箱は開いた。だが、固定の扉は閉じたまま。
“受け口”は通せるが、縛れない。
グラムは外套の襟を整え、わずかに顎を引く。
「覚えた。名は通路。なら、通る先を増やすだけだ」
彼は踵を返す。
その足元に、細い待ち針の影が一本残った。
ぼくの名義線に触れ、鈍い鈴をひとつ、鳴らして。
ミリィは市針塔の内部からこちらを見下ろし、肩をすくめる。
「勝ち負けじゃない。続きがある。——“固定”はまた後で」
端末《結果:受け口(仮)成立/配給:当面は安定/未清算:1 継続》
《次段:市場中層・経路管制に“増設計画”》
(受け口は縛らせなかった。けれど、名に針が刺さったままだ)
ぼくは鍵を握り直す。掌の温度は変わらない。鈍い音が、低く長く尾を引いた。
セレネが指を絡める。震えは残るが、目は強い。
「いまだけじゃなくて、ちゃんと——最後まで」
ノアが静かに頷く。『観測は保つ。今度は、切られる前に結び替える』
市針塔の影が長く伸び、露店の灯りを細く分けた。
ぼくらはロタンダを離れ、経路管制へ向かう階段を踏みしめる。
足裏で、紙のように薄い時間が一枚、音もなく折れていった。




