【第4章 第11話】債務保管庫(レッジャー)
扉をくぐると、音がひとつずつ抜け落ちた。
紙と鉄と、冷えたインクの匂い。
天井の見えない書架が、時間の目盛りみたいに規則正しく並ぶ。背表紙はどれも無地で、かわりに糸が一本ずつ垂れていた。色も太さも違う糸が、ゆっくりと呼吸している。
端末《ノード:債務保管庫/入庫:3名/鍵:継承(暫定)》
《状態:安定/注意:未清算“責任”1件(名義移管中)》
掌の継承鍵が、かすかに鳴る。内側に留めた“粒”が呼び鈴のように震え、ぼくの指に合図を送ってきた。
『ここは“通した責任”の倉庫。名義で束ね、刻限で並べ、清算で消える』
ノアの声が低く、しかし濁らない。
『切っても裂けない“綴じ糸”でできてる。……だから、《時断》は効きにくい』
(切れないなら、縫い直す)
「いまだけ」
セレネが指を絡める。《命響》が繋がり、胸の圧が半拍ぶん軽くなる。
書架の奥から、足音もなく影がにじんだ。
顔は見えない。ただ、手元の帳面だけがはっきりしている。
ページは真白。代わりに、浮かぶ文字がゆっくりと自動で組まれ——影はそれを“読む”。
「確認。**名義:クロ/責任:通過介助(橋脚下・反転弁)/刻限:未設定/清算:未」
声は淡々として、人の温度がない。帳を守る者——帳守と呼ぶのが正しい気がした。
「名義は一時だ。持ち主はテンペスト。返す」
ぼくは継承鍵を掲げ、震える“粒”を小さく見せた。
帳守は頷いた。
「再名寄せの方法は三つ。証、出頭、担保。
証は原因の記録、出頭は当事者の署名、担保は代替の命か記録。
二つ揃えば名寄せ確定。三つなら固定」
(“名”“時間”“証”に似ている。ここでも“二で開示、三で固定”——ルールは揃ってる)
ノアが続ける。『証はΩで取ったログがある。出頭は……呼べる。鍵の“粒”で道を作れば』
「担保は使わない。摩耗も寿命も、削らない」
ぼくはきっぱり言って、鍵を半回転。宣言の回路が開く。
「《通す責任》——再名寄せを請求。証:管制Ωログ/出頭:テンペスト側監督者」
端末《受理。証:提出待ち/出頭:召喚路 開通》
書架のあいだに細い廊が開き、冷たい風が横から吹き抜けた。
風の中に、砂利を踏むような微かな音が混ざる。遅れて、低い靴音。
現れた影は、フードも仮面もなかった。
灰色の制服。胸元に歯車の徽章。指は細く、動きは乾いている。
徴収官——そう名乗った。
「召喚に応じる。立場は中位、裁量は限定。話は短く」
彼は帳守に一礼し、ぼくらへ視線を向けた。
「名義の返還だね。担保は?」
「使わない」
即答する。
徴収官の目がわずかに細くなった。
「では証と出頭で二を満たす。悪くない。だが、条件がある。
“返す先”であるテンペストの受け口が空いていなければ、名義は宙ぶらりんだ。
今は“心臓”の修復中だろう? 受け口が塞がっている」
ミリィが止めた反転弁——たしかに、回路は組み替え途中だ。
ぼくは鍵を握り直す。(受け口を作る。道は、こちらで縫える)
「なら、こっちで受け口を立てる。
——“貸しの足場”だけ、名義線を通せばいい」
ノアが小さく息を呑む。『受け口をこちら側に仮設……“テンペストの名義をテンペストへ返す道”を、いったんクロの鍵で代理する。できるけど、難しい。綴じ糸を切らずに、掛け替える必要がある』
「いまだけ」
セレネが微笑み、指を強く握った。《命響》が少し熱を帯びる。
ぼくは深呼吸し、三拍に刻む。
一拍目、鍵の内側で震える“粒”を《時蝕》でさらに細かく砕き、糸を通せる穴に変える。
二拍目、帳の綴じ糸へ直接触れず、縫い目だけを《斬時》で薄く割り、名義線が通る幅を作る。
三拍目、Ωで拾った“証”を端末へ流し込み、穴に合わせて受け口の形を縫う。
端末《証:Ωログ(反転弁・上書き痕/換命補助/裁定旗改竄)受領》
《仮受け口:生成/名義線:通過 可》
徴収官が短く舌を鳴らす。
「技だね。……だが、まだ二だ。固定には三が要る」
「三は要らない」
ぼくは首を横に振る。
「固定したら、もう動かせない。“通す責任”は、相手の顔を見るまで握っておく」
沈黙。
帳守はページを繰り、乾いた声で言う。
「裁定:暫定返還の進行を許可。仮受け口へ名義線を通し、受領側の署名を待つ。刻限を設定する必要がある」
(刻限……切るか、今)
ぼくは躊躇した。
刻限を切れば、ぼくらの側の“自由”が一つ減る。だが、切らなければ、名義は宙に浮いたままだ。
セレネが囁く。「いまだけ、は——もう十分に使ったよ。次へ進むための“約束”を、少しだけ」
ぼくは頷き、指を鍵から離さないまま、そっと言った。
「刻限——今夜中。署名が来なければ、名義は戻す。二度目の召喚に移る」
端末《刻限:今夜/条件:受領署名不達 → 名義復帰/次段:再召喚》
徴収官は肩をすくめた。
「いい判断だ。——では、こちらから受領を取りにいく」
彼は糸の一本を指で弾き、細い振動を帳の奥へ走らせた。
その瞬間、ぼくの鍵の内側で、別の鈴が鳴った。乾いた、けれどどこか楽しげな音。
(この音……聞き覚えがある)
グラムの外套が擦れた時の、あの冷たい響き。
そして、ミリィがバルブを回した時の、青い液が跳ねる音。
ノアが短く告げる。『受領の署名が動いた。——テンペスト、上席が来る』
書架の向こうで、紙が一斉に乾く音がした。
綴じ糸が引き締まり、部屋の温度が半度だけ下がる。
影が二つ、三つ。最後に、ひとつだけ深く黒い影が立ち止まり——足音が途切れる。
「門は、通すために在る」
懐かしい声。
グラム、ではない。しかし同じ匂いを持っている。
計算と、切断と、責任を“事務”として扱う音。
「受領に来た。テンペスト——代理長」
徴収官が一歩退き、帳守はページを空白に戻す。
代理長は視線だけでぼくらを測り、継承鍵へ落とすように言った。
「名義を戻せ。帳は丸く収める」
ぼくは鍵を握り直した。掌の温度が、わずかに上がる。
「戻す前に、条件がある」
「条件?」
代理長の声に、冷たい波紋が走る。
「橋脚下で刈り取った分の返還。配給ラインの恒久修復。
そして——証人として、あなた自身に“署名”してもらう」
ノアが息を詰める。
セレネが、握る手に力を込める。指が少し、震えていた。
代理長は笑わなかった。
ただ、静かに頷く。
「三を並べるつもりか。証、出頭、担保。……担保は?」
「担保は出さない。
——代わりに、“通した責任”をここで一部清算する」
ぼくは鍵の内側で休ませていた粒を一つ、指先に転がした。
「ゼロ署名。名義だけの清算。あなたが署名するなら、受領側の債を削らずに、こちらの責任だけを減らせる」
帳守が淡々と補足する。
「規約に適合。受領側の残高不変/申請者側の“責任”のみ微減。
ただし、三の固定を得ない限り、次の“刈り取り”が生じた場合、名義は再び申請者に戻り得る」
「分かってる」
ぼくは粒を押し、鍵の小窓を通して帳へ渡した。
端末《清算:微/申請者“責任”:減/受領側:不変》
代理長の瞳が、ほんのわずか細くなる。
「では、証——Ωのログ。出頭——私の署名。担保——無し。
二で事足りる。固定は求めないのだな?」
「固定したら、二度と動かせないから」
ぼくは短く答えた。
代理長は帳守へ視線を送る。
帳守は頷き、空白のページへさらさらと音のない文字を落とした。
端末《受領署名:代理長/Ωログ:照合済》
《名義:テンペストへ返還(仮受け口経由)/刻限:今夜——完了》
《申請者“責任”:微減/未清算:なお1》
掌から、鈴の震えが一つ、消えた。
かわりに、もっと低く重い音が、鍵の底で鈍く鳴る。
“未清算の一”——残り香。
代理長は書架の影に半歩沈み、ふいに言った。
「忠告を一つ。
“通した責任”は、通す選択そのものに絡みつく。
刈り取りを止めるたび、君の名は“受け口”として覚えられる。
——名は、通路だ。気をつけなさい」
彼は踵を返し、糸へ触れずに消えた。
徴収官の影も薄くなり、帳守はページを閉じる。
静けさが戻る。
ノアが、ようやく息を吐いた。
『名義は返った。配給は安定。……でも“未清算”は残った。一』
「いいよ」
ぼくは鍵を握り直す。温度は変わらない。
ただ、重みの所在が前よりはっきりしている。
払うべき相手と、払うべき瞬間が、輪郭を持った。
セレネが笑う。
「いまだけじゃなくて、ちゃんと。最後まで」
彼女の指先はまだ白いが、目の色は深い。
端末《退出路:帳外回廊 → 管制Ω裏層》
《補足:リミットバザール方面に“刈り取り計画”の未決が残存》
(リミットバザール……始まりの市場。
ここで“責任”は帳に記され、街に降りていく)
ぼくたちは足を向けた。
通路の先、黒い紙片がふわりと舞い、鍵の窓に触れて消える。
紙には、小さな刻印があった。
『通す者は、通した責任を負う』
——知ってる。
だから、行く。
名は、通路だ。なら、呼ばれた場所へ。
ぼくは二人と並び、帳外回廊へ踏み出した。
鈍い音が一度だけ鳴り、背後で書架が遠い海のように息をした。




