【第4章 第8話】継承の場
最終層は、雪のように白かった。
床も壁も輪郭を持たず、ただ空中に細い円が一枚、静かに浮かんでいる。
円の縁に、小さな文字が灯った。
《継承の場》
《開示条件:①名 ②時間 ③証》
(いずれか2つで開示/3つで継承権の固定)
「“名”“時間”“証”……」
セレネが指で数える。「名は名乗り、時間は寿命署名、証は観測者承認、だよね」
『うん。ただし注意。観測者承認は“私の記録”が摩耗する。寿命署名は君の寿命が減る』
ノアの声が、ほんの少しだけ細い。
(どっちも削らせない。通して、守る)
ぼくは円の前へ進み、深く息を吸った。
「いまだけ」
セレネの指先が重なる。胸の重さが半拍ぶん軽くなる。
《命響》——触れている間だけ、負荷を分け合う細い綱。
「《時蝕・封鎖》——請求」
寿命署名の“カウントの進み”だけを噛み取り、認証の脈は生かす。
つづけて、円の際で揺れる薄い揺らぎへ指を置いた。
「《封鎖》——摩耗」
承認時に走る“記録の削れ”へ向かう細い流れを撫でて消す。
端末《決済:0/通過フラグ:ON/記録摩耗:遮断》
(よし。“名”だけは、俺自身で出す)
ぼくははっきりと言った。
「俺の名は——クロ。
通す相手は、この世界で生きる人間。
通す時は、いまだ」
円の表面が淡く波打つ。だが、その波に黒い傷が走った。
「……来た」
セレネが身じろぎする。
白の奥から、靴音がひと拍ずれて返ってきた。影が一歩、二歩——フードの人物が輪郭を結ぶ。
仮面はない。だが声は低く、平らだ。
「名は空き席だ。埋めるのは、こちらでもいい」
その指先が空を撫でると、円の縁にもう一行、薄い文字が差し込まれた。
《候補名:クロ(代理)》
『改ざん! “名の欄”に割り込みをかけられてる!』
ノアの警告に、ぼくは頷く。(ここで切るのは、名じゃない。届く道だ)
「《時蝕・封鎖》——名義」
影の手に触れず、名欄へ届く細い経路だけを噛み砕く。
影はわずかに肩を傾け、即座に別ルートから差し込む。
(速い。なら、継ぎ目)
「《斬時》——継ぎ目断ち」
名欄と認証が交わる縫い目を、斜めに薄く切る。
改ざんの刃は足場を失い、白の床へ落ちて霧散した。
影は息をひとつ、吸う。
「なら——**時間**で上書きする」
円の左側で、寿命署名のカウンタがひとりでに回り始める。
「いまだけ」
セレネが握る。
ぼくは即座に指を置き、請求の進みだけを止めた。
(……だけじゃ足りない。判定まで来てる)
「《封鎖》——判定」
通る/通らないの信号を撫で、ゼロ署名で“通過”へ倒す。
端末《署名:0/通過:有効》
影のフードが、微かに揺れた。
「通す、か。奪わずに。——では、証はどうする?」
白の部屋の奥で、ノイズが増える。
ノアの承認ラインへ、微細な針が幾本も刺さろうとしていた。
『承認に私の記録を使わせて、そこから摩耗を起こす気……!』
「ノアは削らせない」
ぼくは円の右縁に触れる。
「《封鎖》——摩耗」
さきほどと同じ削れの道をもう一度なぞり、消す。
影は今度、部屋全体の床を揺らした。
(広い……点で追っても、抜ける)
「——いまだけ、もう一歩」
セレネが小さく笑う。「任せて」
一拍目、ぼくが広く封鎖。
二拍目、セレネが《命響》で負荷を肩代わりし、封鎖の膜を張り直す。
三拍目、ぼくが継ぎ目だけを薄く切り、改ざんの差し口を空転させる。
床の揺れが収まり、円の縁がゆっくりと光った。
《条件:名/時間/証——二項成立》
《開示——許可》
白の中央が静かに割れ、細長い鍵が姿を現す。
柄には、小さくこう刻まれていた。
『通す者は、通した責任を負う』
影が半歩、踏み出す。
「鍵は一人のものだ。誰が持つ?」
ぼくは鍵を見なかった。
見る代わりに、横のセレネの手を強く握る。
「二人で持つ。名は俺、証はノア、時間は彼女が支えてくれた。
だから——三人で通す」
影は初めて、沈黙を長く置いた。
やがて、フードの奥で視線がわずかに落ちる。
「…………門は、通すために在る。
通したのなら、その責任を——」
すっ、と輪郭が薄れた。残ったのは、絞られた足音だけ。
(逃げたわけじゃない。次の線へ移った気配)
端末《ログ:改ざん痕跡=残渣(微)/債務フラグ=点灯》
ノアの声が静かに震える。
『ありがとう。摩耗は……ゼロ。ただし“責任”が、あなたに紐づいた。未清算のまま残る』
ぼくは鍵を手に取る。重さはない。けれど、温度がある。
「いい。払う場所も、払う相手も分かってる」
セレネが頷く。指先は少し白いが、目は強い。
「いまだけじゃなくて、ちゃんと——最後まで」
白がすうっと薄れ、扉の輪郭が現れた。
端末《行先:管理室Ω → 配給末端(橋脚下)》
《刻限は未設定。通行権:一時有効(責任:未清算1)》
「行こう」
二人は、光の縁へ踏み出す。
扉が開き、街のざわめきが戻ってきた。
刻限は、まだ切らない。——切るのは、鍵を掲げ、本当に通すべきものが目の前に来た時だ。




