【第4章 第7話】記録庫β:ノアの扉
扉の先は、冷たい光で満たされた白い部屋だった。
壁も天井も見当たらない。代わりに、薄い板状の光がゆっくりと浮かび、本棚の代わりに“記録”が漂っている。
中央に一本だけ、低い柱。
柱の上に文字が滲む。
《記録庫β/深層》
《閲覧条件:寿命署名120秒 または 観測者承認》
《注意:観測者承認時、記録の摩耗が発生します》
「承認は私ができる。でも、私の記録が削れる」
ノアの声が、いつもより少しだけ細い。
(払えば俺の寿命が減る。承認ならノアが痩せる。——どっちも嫌だ)
「通す」
クロは柱の縁に指を置き、息を一度だけ整えた。
「いまだけ」
セレネの指先が重なる。胸の重さが半拍ぶん軽くなる。
《命響》——触れている間だけ、負荷を分け合う。
「《時蝕・封鎖》——請求と摩耗」
請求カウントの進みを止め、同時に“摩耗”へ向かう細い流れを撫でて消す。
柱の表示がふっと乱れ、支払いゼロのまま、閲覧OKへ転んだ。
端末《決済:0/通過フラグ:ON/記録摩耗:遮断》
『……ありがとう。削れなかった。じゃあ——開くね』
光の板が一枚、手の高さまで降りてきた。
触れると、映像がゆるく立ち上がる。
*
——街角。夕暮れ。
小さな女の子が泣きながら、倒れた母の手を握っている。
母のライフリングは、**残り“00:00:14”**で赤く点滅していた。
若いノアが駆け寄り、迷わず母の手首に自分の手を重ねる。
彼女のリングも赤い。自分も余裕がないのに、それでも——
「いまだけ借りるね。必ず返す」
《時蝕》の赤い瞬き。
ノアは“奪う”のではなく、止める。母のリングの落下だけを。
代わりに自分の落下を早め、母と子にわずかな時間を通す。
——母の表示は14秒から動かないまま、救護車の到着を待つ。
——ノアの表示は一気に落ちる。
(……最初から“通す”だったんだな)
クロは小さく息を飲んだ。
映像の端に、黒いノイズが走る。
文字が崩れ、画面が上書きされそうになる。
『改ざん信号! さっきの“弟子”筋。記録に割り込んで、ノアの選択を書き換えるつもりだよ』
(させない)
「《時蝕・封鎖》——上書き」
クロはノイズに触れず、届く道だけを断つ。
もう一条、遅れて別ルートからノイズが来る。
「——《斬時・クロノブレイク》」
縫い目だけを斜めに切り、改ざんの差し口をずらす。
ノイズが弾け、映像が戻る。
ノアは膝をつき、笑っていた。
そこへ救護員が走ってきて、母と子を抱き上げる。
「……ノア」
セレネが、画面に手を伸ばし、そっと引っ込めた。
「あなたはずっと、誰かを通してきたんだね」
光が落ち、別の板が上がる。
*
——暗い部屋。
ノアが白い部屋着で横たわっている。リングは**“00:00:00”**に近い。
周囲の大人たちが低く囁く。
『適合率——観測者候補。寿命尽きと同時に“外側”へ移送』
「……いやだ、とは言わなかったのね」
セレネの声が揺れる。
(選んだというより、託された。だからこそ——)
映像の端がまた崩れる。今度は画面全体を舐める大きな波だ。
『広い……封鎖だけじゃ押し切られる。複数層から来てる』
(なら、判定だ)
「《時蝕・封鎖》——判定」
通る/通らないの信号だけを撫で、記録に通す権利をこちらに立てる。
上書き波が映像の表面で滑り、床に消えた。
ノアは静かに目を閉じる。
次の瞬間、彼女の身体から光の糸が一本立ち、画面の外へ伸びた。
——観測者への移送。寿命を使い切った“あと”に残る、記録の資格。
光が落ちると同時に、板の端に短い文字が浮かぶ。
《観測者の記録:断片006 取得》
《記録:通す者は、通した責任を負う》
(“門番”と同じ言葉……でも、温度が違う)
門は、切るためじゃなく、誰かを生かすために開く。
その責任を、ノアは一人で背負ってきた。
「クロ、もう一枚来る」
ノアの声がわずかに震える。
「これは、私があなたにリングを託した時の記録」
光の板が、夕暮れ色に変わる。
屋根の上。
少年のクロが、街の追手から逃げて息を切らしている。
——あの日と同じ景色だ。
ノアは、風の中でこちらを見て、微笑んだ。
『ここからが、あなたの“責任”の始まり』
画面の下、柱の文字が赤く点滅する。
《深層記録・最終ブロック》
《閲覧条件:寿命署名30秒 または 観測者承認+記録摩耗》
《第三の選択:管理者鍵で“通過フラグのみ”開通可》
『管理者鍵……**いまの鍵片(Ω-3)**で届く。けど、一度きりだよ』
(使えば、次の鍵が遠くなる。使わなければ、ノアが削れる)
「いまだけ」
セレネが手を握る。
「使って。ノアを削らせないで。鍵は、また掴めばいい」
クロは頷き、柱にΩ-3を触れさせた。
リングが低く鳴り、表示が跳ねる。
端末《通過フラグ:ON/決済:0/記録摩耗:0》
映像が開く。
屋根の上のノアが、指輪を差し出す瞬間——
(これが、始まり)
部屋の奥で、微かな足音がした。
見えない距離で、誰かが踵を返す。
弟子だ。記録を奪えないとわかって、次の場所へ向かった気配。
「追うよ」
クロは鍵片を握り直す。
「通した責任は、いま取る」
ノアの声が、柔らかく追いかけてくる。
『ありがとう。……次が、深層の最後』
扉がひとつ、静かに姿を現した。
『記録庫β—最終層:継承の場』
刻限は、まだ切らない。
切るのは——本当に通すべきものが、目の前に来た時だ。
「行こう、セレネ」
「うん。いまだけ、じゃなくて——ずっと」




