【第4章 第3話】門番の影
管理室Ωの廊下は、音が一枚薄い。
銀灰のケーブル束が壁から壁へ流れ、足音は半歩遅れて返ってくる——ここは街の“時配線”を束ねる中枢、外の時間とわずかに位相がずれた空間だ。
角をひとつ曲がるごとに、空気に黒い断ち線が一本。
(切っているのは“物体”じゃない。動きだ)
線に触れれば、その瞬間だけ体の“進む”が切り離される——実体は無傷でも、次の刃に間に合わなくなる。門番の手癖。
「正面、アクセス盤。寿命署名を求められるよ」
ノアの声。見上げれば、扉脇の端末が**『入室料:寿命60秒』**と淡く表示していた。
——この世界の多くの装置は、寿命=通貨で動く。支払えば、進める。
「払わない。通す」
クロは端末の縁に指を置き、息を整える。
「いまだけ」
セレネが指先を重ねる。触れた瞬間、胸の奥の負荷が半拍だけ軽くなる。
《命響》——接触中だけ負荷を分担する、彼女の小さな救い。
「《時蝕・封鎖》——点」
請求タイマーの**“進み”だけ**を断つ。数字は止まるが、認証の脈は残す。
端末の表示がわずかに乱れ、支払い成立の側へ勝手に転んだ。扉が無音で開く。
『奪わずに、流れだけ止める。……いいね』
ノアの声が、少しだけ誇らしげに揺れる。
中は円環の室。床の継ぎ目に沿って、雨のないはずの空間で見えない水面が揺れた。
(……波打ってる。時間の膜だ)
踏み方を誤れば、足だけ過去に落ちる——そんな嫌な想像が喉に張り付く。
低い声が室奥から落ちた。
「選び方は、見た」
仮面の男ではない。だが、切り口の質が同じだ。
暗がりの梁の上、黒いコートの影が横切る。顔は見えない。
「ここは門だ」
影は、空気に指を滑らせる。室内に十字の断ち線が組まれた。
「通すべき者を選び、通すべき瞬間だけを開く。……代償は、門を越えさせた者の責任」
(ノアの“断片”と同じ言い回し……同業だな)
クロは足元の膜のリズムを数える。——一、二、止。
端で待つセレネに視線だけで合図した。
「いまだけ」
短く繋がる。心拍が合う。
一歩め、膜の“止”で踏む。
二歩め、断ち線を面で撫でる。エッジを立てない。
三歩め、肩を半歩沈める。線が頭上を流れる。
(行ける——)
「《斬時・クロノブレイク》!」
四歩めで、十字の交点だけ斜めに断つ。
目に見えない縫い目がほどけ、時の屑が火花のように散った。
影が、初めてこちらを向いた。
顔はまだ見えない。けれど、眼差しだけが質量を持って落ちてくる。
「……“奪わずに通る”か。ならば問う。何を通す。誰を通す。いつ、通す」
クロは答えを探さない。もう持っているからだ。
「今は俺たち。鍵を掴むまで。刻限は切らない——切るのは、人を生かす瞬間だけ」
短い沈黙。
やがて影が、指を鳴らす。室の断ち線が一度だけふくらみ、しぼむ。
「なら、一門」
壁の奥から、細い金属の鳴きとともに、第二の扉が現れた。
ただし、扉の上の表示は先ほどと違う。
『入室条件:寿命署名 0秒/観測者承認』
『……私の出番だね』
ノアの声が静かに落ちる。
観測者承認——観測者の記録鍵を通してのみ開くタイプ。寿命は要らないが、過去と責任が問われる。
「ノア、できるか」
『できる。でも、私の記録がまたひとつ減る。——それでもいい?』
セレネが、迷いなく頷いた。
「ノアが託したリングで、ここまで来た。なら、先も一緒でしょ」
短い同調ののち、表示が反転する。
扉のロック音が三重に外れ、空調の風が一段冷たくなる。
開いた先は、灯の少ない通路。
廊下の右側だけ、空気の切り口がかすかに揺れていた——刃を抜かずに鞘で切るような、嫌な上等さ。
(……門番)
「行こう」
クロは低く言い、右側に寄らないラインを選んで踏み入る。
セレネの指先が服の裾をつまむ。いまだけは切れている。刻限は静かだ。
十歩。十一歩。十二——
「止まれ」
影が、廊下の果てから踏音だけを投げてきた。
音は壁に当たって、こちらに半拍遅れて返る。
——位相をずらした威圧。踏み出せば、足だけ過去に落ちる。
「いまだけ」
セレネの声が、震えずに乗った。
クロは踏み出す代わりに、音へ指を当てる。
「《時蝕・封鎖》——音」
威圧の**“届く”を切る。
踏音は壁に届かず、廊下の途中で息が切れた**。
(……届かない脅しは、ただの音だ)
静かに二歩、進む。
影の輪郭が灯に縁取られ、黒いコートと、仮面ではない素顔の気配が浮かぶ。
まだ、名は落ちない。けれど、切断の重みはもう、こちらの皮膚を測っている。
「——通すか。通して刈るか」
男の声が、今度は同じ位相で響いた。
「選べ、継承者」
クロは、リングを握り直す。
刻限は切らない。切るのは——鍵を掴む、その瞬間だけ。
「通って、掴む。……そのあとで、話そう」
男がわずかに笑った。
廊下の右の切り口が、ひとつだけ消える。
道が、一本。
次の扉が、ひとつ。
(——行ける)
クロとセレネは、同時にうなずいた。
そして、門番のいる扉へと、歩を進めた。




