【第4章 第2話】鍵が示す扉
3章13話と振り返りを修正しました。
すでにお読み頂いてる方は、3章振り返りを読んでいただくことで、4章も違和感なく読んでいただけるかと思います。
鈍色の箱が近づくほど、空気の粒が粗くなる。
《クロノハブβ/管理室Ω》。時の配線を束ねる中枢の端末室——仮面の男が残した黒い欠片が指した扉だ。
灰雨は天井のひさしで弾かれ、縦線になって地面へ落ちる。
一滴ごとにライフリングの数字が「1」痩せる。ここでの逡巡は、そのまま命だ。
『外壁、微弱に脈動。観測者認証系が息をしてる。扉は“鍵”と共鳴で開くタイプ』
ノアの声が、リングの底でやわらかく震える。
「じゃあ、叩くんじゃなく——触れる」
クロは黒い欠片を親指と人差し指でつまみ、扉の継ぎ目へそっと当てた。
——カン、と短い澄んだ音。
次の瞬間、欠片の裏面に刻まれた微細な符号列が、赤い光の痕になって走る。
扉の表層に見えない模様が浮かび、呼吸のように開閉を始めた。
「いまだけ」
セレネが袖口から指先だけを伸ばし、クロの手の甲に触れる。
《命響》が細く結ばれ、指のひらを刺すような負荷が、半拍ぶんだけ軽くなる。
「——《時蝕・封鎖》、一拍」
クロは赤い脈動を“奪う”方向に倒さず、流れだけを撫でるように断った。
扉はノイズを残して無音で開く。奪わず、通す。選び方を、間違えない。
中は、薄い光の井戸だった。
床も壁も淡い鉛色で、中央にだけ六角柱の端末塔。
塔の周囲には、人が通れるほどの幅で灰雨が斜めに割れる——外とは別の時間の線が、かすかにずれて流れている。
(……近い。門番の手癖だ)
空気の継ぎ目に、細い断ち線がいくつも仕込まれている。
雨も音も、一筋だけ真っ直ぐ切れて落ちる。切られているのは、今は空気だけ——だが、踏み誤れば“次”は肉体だ。
『右と左、どちらも罠。真ん中に静域、塔の基部の三角口から内部配線へ入れる』
ノアがルートを示す。
「中央直線で行く。刻限は切らない」
クロは視線だけで合図し、セレネと呼吸を合わせた。
最初の断ち線、靴の面を床に沿わせて滑らせ、エッジを立てない。
次の断ち線、わずかに身を沈める。重心を落とせば、線は肩の上を流れる。
三つ目、四つ目——線は呼吸で厚みを変える。呼吸を止める。心音だけを細くして渡る。
(——行ける)
塔の基部に到達した瞬間、床下で何かが咬む音がした。
遅れて、空中の断ち線が一斉に収束する。
「っ——《斬時・クロノブレイク》!」
クロは反射で斜めに時の縫い目を裂いた。
線は火花のような時の屑にほどけ、天井に吸い込まれて消える。
数拍遅れて、塔の表面が脈打つ。
「歓迎、ではない……けど、通した」
セレネが息を吐く。
『リング温度、上昇中。熱暴走域の手前で安定。いまだけのリンク、解除するよ?』
「もう少しだけ。あと一歩だ」
塔の三角口に、黒い欠片をそっと差し入れる。
欠片はとけるように消え、代わりに塔の表面に文字が浮かんだ。
《観測者の記録:断片005——門と代償》
《入室者識別:MASK-ID:■■/トレース有》
《注意:門番稼働域へ踏み込みますか? Y/N》
(……マスクIDのトレース。仮面の男の名残だ。ここまでが“地図”、ここからが“試験”)
「ノア、Yを押す」
『了解。……クロ、セレネ。ここから先は、切断が前提の空間。奪わずに通すは難易度が跳ね上がる。覚悟、いい?』
「覚悟は、もう持ってる」
クロは微笑まずに答えた。
表示が反転した。
床が沈む。塔を中心に、円環が回る。
六角柱はゆっくりと位置を下げ、代わりに上層から黒い梁が降りてくる。
梁の縁は雨すら切るほど鋭い。だが、落ちきる前で止まる。
(止め方が雑じゃない。手癖の良さ。やっぱり、あいつの)
「いまだけ」
セレネがもう一度、指先を重ねる。
同期。負荷、分配。心拍、合う。
「——《時蝕・封鎖》、二拍」
落下の速度だけを抜き取る。
梁は宙で止まり、隙間が一本ぶん、正面へ開いた。
クロは身を斜めにおり、セレネの手を引く。
影が肩で重なって、また離れる。
『いい……その調子。ただ、刻限の蓄えが揺らいでる。使ってはいないけど、呼ばれてる』
「呼ばせておけ。切るのは鍵を掴む時だ」
塔の内部配線へ落ちると、音が一段、遠くなった。
銀灰のケーブルが束になって、壁から壁へ流れる。
その中央、膝ほどの高さに端末巣。人の指で扱えるちいさな口が三つ。
(ここだ)
クロは一番左の口に指を添え、息を整えた。
「《時蝕・封鎖》——点」
音だけを止める。
端末巣の鳴きが途切れ、代わりに表示が浮く。
《観測者の記録:断片005 要約投影》
——“門は奪うために在るのではない。
——通すべき者と、通すべき瞬間を選ぶために在る。
——代償は、門を越えさせた責任だ。”
(……ノア)
クロは喉の奥で短く笑う。
(お前の言い回し、嫌いじゃない)
同時に、右端の口が勝手に開いた。
何も差していないのに、内部の金具が噛み合う音。
床の断ち線が、一本、正面へ寄る。
『——来る』
ノアの声と、風のような気配が合わさって流れ込む。
梁の影が、クロの首筋を撫でる高さまで降りた。
刃ではない。影だ。だが、肌が痺れる。
(接触判定は影で取る。実刃はその後——二段構え)
「いまだけ」
セレネの指先。
短い熱。
《命響》が細く鳴る。
「——《斬時・クロノブレイク》!」
影の縫い目だけを、斜めに断つ。
ほどけた影が光に溶け、本体の刃が一瞬だけ迷う。
その迷いの半拍を、クロは前へ使った。
端末巣、中央の口に、さっき溶けた欠片と同じ符号を——リングでなぞる。
カチ。
音がした。
《門番稼働》
《認証プロトコル:Ω》
《アクセス者:未記名/承認:暫定》
《進路:“管理室Ω”——開通》
足元の床が軽くなる。
梁が引く。
断ち線が消える。
(——通った)
深呼吸が一度、遅れて戻る。
セレネが掌を離し、指先に息を吹きかけた。「……いまだけの限界、ギリギリ」
「助かった。大きく返す」
『二人とも、よくやった。けど、映像——見て』
ノアが塔の側面に、短い影を映す。
廊下の先、こちらに背を向けた黒いコート。
刃の代わりに、空気が切り口になって揺れている。
(——仮面の男? 違う。切り方が違う)
影が、こちらを振り向くことはなかった。
ただ、扉の向こうで、待つ者の気配だけが濃くなる。
「行こう」
クロは低く言い、光の少ない廊下へ一歩を置く。
リングが小さく脈打つ。
刻限は、まだ切らない。切るのは、鍵を掴むその瞬間だ。
——管理室Ωの奥へ。次の扉へ。
そして、門番の間際へ。




