1-09
薄ぼんやりとした意識の中で、ケイは自分が硬い地面の上に横たわっているのを感じていた。疲労困憊の体は、まるで重い石のように動かすことができず、意識は深い眠りの淵を漂っていた。遠くで、隊長やパトリックの声が聞こえるような気がしたが、すぐにそれは溶けるように消えていった。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。ふと、瞼の裏にオレンジ色の光を感じて、ケイはゆっくりと目を覚ました。辺りは、自分が眠りについた時よりもずっと暗く、空に浮かぶ巨大なコアの光も、以前より暖かな色合いになっている。どうやら、夕方になったようだ。
体を起こそうとしたケイは、 背中が痛くないことに驚いた。硬い地面の上ではなく、柔らかな布の上に移動していることに気づいたのだ。見上げると、粗末ながらも暖かい色の天幕が張られている。さっきまで、その辺の地面でくたばっていたはずなのに。
「……あれ?」
小さく呟くと、近くで何かの手入れをしていたマルスが、顔を上げた。どうやら、愛用の盾を丁寧に磨いているようだ。
「起きましたか、ケイ」
マルスは、いつもの冷たい声音で言ったが、その表情には、わずかながら安堵の色が浮かんでいるように見えた。
「ここは……?」
ケイが問い返すと、マルスは淡々と答えた。
「パトリックさんが、あなたが眠ってしまったのを見て、ここまで運んでくれました。あなたは、相当疲れていたようですから」
パトリックが自分をここまで運んでくれたのか。
周囲を見渡すと、安全地帯についた時にはたくさんいた隊員たちの姿が、減っていることに気づいた。疲労困憊で地面に倒れていた者たちも、もうほとんどいない。
「他の隊は……?」
ケイが尋ねると、マルスは盾の手入れを続けながら答えた。
「幾つかの隊は、 すでに撤退したようです。特に被害の大きかった隊から順に、 都市へ戻っていったのでしょう」
なるほど、そういうことか。自分たちも戻るのだろうか、だが遠征は1日目だ。
「もうすぐ、ブリーフィングが始まる時間です。二度寝はやめておいた方が賢明ですよ」
マルスの言葉に、ケイは慌てて体を起こした。確かに、もう夕暮れ時だ。すぐにでも明日の任務について説明があるだろう。
「それと、今の所の待機命令ですが、」
マルスは、磨き終えた盾を丁寧に地面に置き、ケイの方を向いた。
「迷宮の中ですが、そのまま『ファントム』を解除して、魔力の回復に努めるようにとのことです」
それは、ケイにとって朗報だった。
騎士が自身の魔力を消費して具現化させる特殊な装備である『ファントム』は、『起動』に大きな魔力を要するが、維持することにもある程度魔力を消費するため、魔力がそれほど多くないにケイにとって、『ファントム』を維持し続けることは負担だった。解除による魔力温存は、彼の回復にとって非常に重要だったのだ
「ありがとうございます。マルスさん」
ケイが礼を言うと、マルスはわずかに視線を逸らし、懐から何かを取り出した。それは、 小さなの、茶色い包みだった。
「あなたは、かなり疲労しているでしょうから」
マルスは、そう言って、その包みをケイに差し出した。
「皆さんには内緒ですよ。」
どうやら中身はキャラメルのようだった。ケイの住む地区では珍しい甘味であった。
「……ありがとうございます」
ケイは、感謝の気持ちを込めて、キャラメルを受け取った。茶色い包みを開けると、甘く香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。疲れた体には、この甘さが染み渡るだろう。
「ブリーフィングの場所まで、一緒に行きましょう」
マルスは、立ち上がり、自分の盾を手に取った。ケイはキャラメルの包み紙を丁寧に懐にしまうと、マルスの後に続いた。夕焼けに染まるエリア境界の安全地帯は、先ほどまでの騒がしさが嘘のように静かで、どこか物寂しい雰囲気を漂わせていた。
◇◇◇
ブリーフィングが行われるという、安全地帯の中央にある大きな天幕へと向かうと、すでに隊員が集まっていた。隊長や、先ほどまで深刻な顔つきで話し合っていた騎士の数人も見えた。中心には、ケイ達が安全地帯に来た時にはいなかった、厳格な表情をした中年の上級騎士が立っており、周囲の隊員たちを静かに見渡していた。
マルスはケイの肩を軽く叩き、パトリックの近くの空いている場所へと促した。二人がそこに落ち着くと、パトリックは軽く会釈した。
しばらくして時間になると、中年の上級騎士が、 重い声で口を開いた。いつの間にか日は落ちており、夜になっていた。
「皆、 夜遅くまでご苦労である。 吾輩はセッツィア・ミスコフ上級騎士である。今回の任務に先立ち、本日昼間に臨海エリアで発生したトラブルについて、報告と注意喚起を行う。」
天幕の雰囲気は、張り詰めている。セッツィアといえば、ケイの仕える本家筋の騎士家だ。名前に聞き覚えはないので、継承順位は低いだろうが、かなり偉い人が出てきたものである。
「昼間の塩田において、2つの小隊が、予定外の場所で別働隊と遭遇した。新人の地図士が、魔物の擬態能力の影響で位置把握を誤ったことが原因であると報告を受けている」
上級騎士は冷静だが威圧感が感じられた。位置把握のミスは、迷宮探索において最も致命的な過ちであり、新人とはいえ落ち着いていれば対応できるはずであった。
「この遭遇自体は、まあいいだろう……だが口論は論外である。何があっても十人規模になるな。基本中の基本だ。改めて注意するように。今回はボスの出現までは観測されなかったが、場合によって可能性があるのである。肝に銘じておくように。」
説明を引き継ぐように、隊長が話し始めた。
「この二つの部隊はすでに撤退している。皆も知っている通り、大人数が同じ場所に留まる、あるいは一緒に行動することが、魔物の群れを誘引した可能性が高い。結果として、その場にいた二つの部隊だけでなく、 近くで作業をしていた君たちを含む、計四つの部隊が、大規模な魔物の群れに襲われるという事態になっている」
広場には、重い沈黙が流れた。ケイも、あの時、無数のヒトデと鳥型魔物は普通では考えられない数がいた。少なくても、数日前の日帰りの作戦では多くて10体程度だったはずだ。
「幸いにも、今回の襲撃による死者は一人も出ていない。それは不幸中の幸いと言えるだろう。しかし、多くの部隊で、魔力装備『ファントム』が損傷、あるいは完全に破壊されたという報告が上がっている。」
隊長の声は、厳しさを増した。
「今回の件は、上も重く受け止めけており、こうしてミスコフ上級騎士様にお越しいただいた。 明日以降このような事態が起こらないよう、各自注意してもらいたい。」
「「「了解」」」
隊員達の声を聞くと満足げにミスコフ上級騎士は、作戦用の天幕を後にした。
天幕の緊張感が少し緩んだ頃、わずかに声のトーンを落とし、隊長はより詳細な懸念事項について語り始めた。
「今回の魔物の襲撃において、 気になる点がある。それは、塩田に出現したヒトデ型の魔物、『盤星』の行動についてだ」
隊長の言葉にうなづく者も多かった。
「通常、盤星は、動きは鈍く塩の地面に擬態し、精々靴を叩く程度の魔物である。また、その魔力によって、ごく弱い発光や地面の揺らぎを生み出すことは知られているが……今回の報告では、複数の隊員が盤星が大規模なカゲロウを生み出していたと証言している。また、新人の地図士と同様に、測量結果と実際のルートに乖離があることも各隊より報告を受けている。」
すぐ横で地図士のマルスが深くうなづいていた。
「盤星に、本来、そのような強力な幻影を生み出す力はないはずだ。正直、異常事態であると言わざるを得ない」
隊長は重い表情で続けた。
「撤退し、都市に塩を持ち帰っている部隊が、念のため、古代文献の調査を含む、 本現象についての確認をしているが、5時間以上経った現在も報告はない。つまりそういうことだろう。」
天幕の空気は非常に悪かった。見慣れたはずの魔物が、予期せぬ能力を発揮する。それは、迷宮探索における前提が崩れ始めていることを意味するのかもしれない。
最後に隊長は、 明日の任務について説明を始めた。
「明日も予定通り、午前七時より、臨海エリアの塩田に入り、採掘作業を行う。今回のトラブルを受け、安全第一を厳守するよう、指示する。決して無理な行動は避け、少しでも危険を感じたら、各小隊長の判断で撤退するように。」
隊員達の間で「やっぱり」という雰囲気が漂っている。
「都市における塩の備蓄は、十分な状況であり、塩が生産可能なコアに関しても発見されているが、上層部より多少のリスクはとってもかき集めろとのことだ。」
隊長は視線で、集まった隊員たち一人一人を見渡した。
「以上だ。解散。」
意外にもブリーフィング自体の時間は短かった。
◇◇◇
ブリーフィングを終えた隊員たちが、三々五々、それぞれの寝床へと散っていく中、ケイはマルスと共に、隊長とパトリックのそばへと向かった。天幕の入り口近く、夜闇に溶け込む岩陰に、二人は立っていた。隊長は腕を組み、難しい顔で何かを考えているようだったが、パトリックはいつものように、どこか飄々とした雰囲気を纏っている。
ケイが近づくと、パトリックが先に気づき、にこりと笑いかけた。
「お、ケイ。お疲れさん。しっかり休憩できたか?」
「お疲れ様です。パトリックさん。おかげさまで」
ケイが答えると、パトリックはすぐさま隊長の方を向いた。
「隊長もお疲れ様でした。今日は大変でしたね。」
パトリックの労いの言葉に、隊長は腕組みを解き、ふっと息を吐いた。
「まあな。だが、パトリックも含め、全員が無事で何よりだ」
隊長の視線がケイに向けられる。
パトリックが再び口を開いた。
「しかし、今日のブリーフィングは、何だか物々しかったですな。ミスコフ上級騎士様まで出てこられるとは」
隊長は頷きながら、天を仰いだ。
「ああ。今回の件は、予想以上に被害が大きかったらしい。騎士剣の内部の魔法回路の破損だとよ。再調達や修理には、それなりのコストと時間がかかる。」
隊長はこめかみをもみつつ視線をケイに戻し、厳しい表情で言った。
「まあ、とにかくさっきブリーフィングで話したのが、全てだ」
さっきの通り、という隊長の言葉に、ケイはブリーフィングの内容を思い返した。他の隊の被害、盤星の異常な能力、そして、それでも塩田での採掘を続けるという上層部の指示。
(今日みたいに、また大群が来たら、どうするんだろう……)
今日の盤星と鳥型魔物の大群は、これまでの訓練や、以前の塩採取任務で経験した魔物の数とは比較にならないほど多かった。一体一体は弱くても、あの数と執拗な追跡は、たとえ練達の騎士でも消耗戦になる。もし、また同じような状況になったら、自分たちはどう対処するのだろうか。
ケイは意を決して、隊長に問いかけた。
「隊長。もし、また今日みたいに魔物の大群が来たら、どうします?」
隊長はケイの質問に、すぐに答えることはなかった。しばらく黙った後、静かに口を開いた。
「……まずは、今日のように大人数で固まるような状況を避けることだ。それが、魔物を誘引する最大の要因だった」
隊長はパトリックの方を向き、続けた。
「そして、明日からの活動だが……パトリック」
「はい、隊長」
「お前は、明日からは小隊内の活動に専念してもらう」
隊長の言葉に、パトリックは一瞬きょとんとした表情を浮かべた後、いつもの笑みを浮かべた。
「おやおや、これはまた、手厚い保護ですなあ。出張は無しですかい?」
「そうだ。俺とお前がいれば、ボスクラス相手でも対処できる。それに他の隊と連携するよりも、小隊単位で分散して行動する方が、魔物誘引のリスクは低い。」
上級騎士の話にも登場したが、迷宮では人が集まれば集まるほど、寄ってくる敵は強くなる。隊長の意図を理解したパトリックは、少し得意げな顔になった。
「なるほど。つまり、俺達は動く安全地帯ってわけですな」
「そういうことだ」
隊長はわずかに口元を緩めた。
「隊長の愛に、胸がドキドキしちゃう」
パトリックの軽口に、隊長は苦笑いを浮かべた。
「やめろ、パトリック。…ったく、冗談は置いておいてだ」
隊長は再び真剣な表情に戻った。
「今夜のブリーフィング、他の隊長たちとも話し合ったんだが、いくつか安全地帯の情報を共有してもらった」
隊長の言葉に、ケイは「安全地帯」という単語に耳を傾けた。今日の小さな安全地帯での休息が、どれほど心強かったか。
「明日からの任務は、まずその共有してもらった安全地帯をいくつか回って、位置や広さを確認する。万が一の時に避難できる場所を把握しておくのは重要だからな」
迷宮では、安全な場所の確保が最も重要だ。ケイは、隊長の言葉に深く頷いた。
「そして、安全地帯の確認が終わったら、採掘作業に入る」
隊長は、ある方向を指差した。夜闇の向こうに、かすかに岩山が連なっているのが見える。
「採掘予定地は、臨海エリアの中だが、ここからはかなり遠い位置にある。遺跡が乱立している場所だ」
パトリックが「へえ」と興味深そうにしているところを見ると、騎士の間ではある程度知られた場所なのかもしれない。
「そこは、他の小隊が今日探索中に見つけた場所らしい。塩田の中でも、塩の純度がかなり高く、しかも分厚く積もっているため、採掘しやすいとのことだ」
純度が高く、採掘しやすい。それは朗報だった。今日の塩田は、盤星に邪魔されたこともあり、採掘はできなかった。
「安全地帯の確認と採掘地の移動で、おそらく明日は丸一日かかるだろう。採掘自体は、明後日以降になる」
明日は、まず安全地帯の確認から。そして、遺跡乱立地帯への移動。今日の盤星や鳥型魔物との戦闘で疲弊した体には、厳しい行程になりそうだった。しかし、パトリックが小隊内にいてくれること、そして、純度の高い塩が採れる場所があるという事実は、いくらかの希望を与えてくれた。
隊長は、何かを思い出したように、ポンと手を叩いた。
「そうだ、言い忘れていたが」
隊長はケイの方を見た。
「今日、お前たちが安全地帯で確保した、塩を生産できるコアと、ケイが持って帰ってきた、あの小さいコアの砂はな……」
ケイは、隊長が何を言うのかと身構えた。苦労して見つけ、持ち帰ってきたコアだ。
「すでに、厳重な扱いで都市に持って帰られたそうだ」
「えっ、もうですか?」
ケイは驚きの声を上げた。てっきり、遠征が終わってから持ち帰るものだと思っていたからだ。
「ああ。やはり資源生産能力を持つコアは貴重らしい。特にウチの領地には、塩を生産できるコアはなかったからな。すぐにでも都市に届けたい、という上層部の意向だろう」
隊長の言葉に、ケイは複雑な気持ちになった。自分が発見し、回収したコアが、こんなにも早く都市へと運ばれたことに、達成感と同時に、どこか寂しさのようなものも感じた。しかし、それが迷宮都市の生活を支える重要な資源となるならば、それはそれで騎士としての貢献と言えるのかもしれない。
「お前の持ってきた小さい粉末も、研究材料として重宝されるだろう。あれも、コアとして機能するからな」
「そう、ですか」
ケイは、布袋に集めた、あのふわふわとした白い結晶体を思い出した。あれも、都市の役に立つのか。
パトリックは、面白そうに二人の話を聞いていたが、隊長の言葉に頷いた。
「いやはや、今日のウチの隊は、戦果ゼロかと思いきや、まさかのコアゲットとは。隊長、これはもう、手柄もんですぜ」
「手柄かどうかは分からんが、かなり都市に貢献できたのは間違いない。と言うかコアが出たから上級騎士が見に来たんだ。」
隊長はそう言って、再び夜空を見上げた。遠くで、まだ他の隊員たちの話し声が聞こえる。
ケイは、ギュッと騎士剣の柄を握りしめた。疲労は残っているが、心は新たな任務へと向かい始めていた。
「さあ、そろそろ俺たちも休むとしよう。明日は早い」
隊長の言葉に、3人は頷き合った。夜闇の中、隊長・パトリック・マルス・ケイの4人のシルエットが、安全地帯のわずかな光に照らされていた。