1-05
来る遠征当日、出発前の簡単なブリーフィングが行われた。隊長から、迷宮の変遷まで残り十日程度であることが告げられた。塩の採取量は、精製後の量としても5トンほど見込まれており、都市内部での生産能力と合わせて、需要を十分に満たせる量は集まっているとのことだった。
ブリーフィングの後、隊長はマルスとケイを呼び止めた。
「マルス、渓谷エリアのチョークの痕跡は、まだ残っているか?念のため、お前も確認はしていると思うが、ケイにもクロスチェックを頼みたいと思っている。」
マルスは、丸眼鏡の奥の目を隊長に向け、穏やかな声で答えた。
「私としてもぜひお願いしたいです」
「とりあえずざっくり状況を教えてくれ」
「はい。昨日戻ってきた隊の地図士には確認済みで、チョークの痕跡は、風化の影響を受けておらず、問題ないとは報告を受けていますが、主要経路の一つですし、記載してから1週間以上経っているので、必要に応じて再記載もしておきましょう」
「うむ。念には念を入れておこう。ケイ、お前も出発前に渓谷エリアの地図を再度確認し、チョークの記載ポイントを覚えておけ。」
「はい、隊長。承知いたしました」
ケイは、そう答えると、マルスから渓谷エリアの地図となっている、小さな黒板を受け取った。黒板には、ざっくりとした地形と共に、以前マルスが記したと思われる、測量結果が記載された赤い色のチョークの線が走っていた。ケイは、隊長の指示通り、ルートを慎重に辿っていく。
「ケイさん。今回使用するルートだけでなく、別ルートも一応確認しておきましょうか」
そう言いながら、マルスは使っていない3つのルートを詳細に解説してくれた。普段必要以上の言葉を発しないマルスだったが、地図のことになると、まるで堰を切ったように言葉が出てくる。
「以上が全体の主要な3ルートとなります」
「なるほど、だいたいわかりました。都度わからないところは迷宮の中で聞いても大丈夫でしょうか。」
「はい、問題ありません」
マルスは黒板地図をケイの方に向けた。
「ですが、地図に載っている情報だけが全てではありません。壁の質感、岩の匂い、足元の微妙な傾斜…迷宮には、地図には描ききれない無数の情報があります。これらを読み取る五感を磨き、地図情報と組み合わせること。それが、迷宮を深く理解し、生きて帰るための鍵です」
少し喋りすぎて喉が乾いたのだろうか、マルスはコップに入った水を飲み干した。
「生きて帰るための……」
ケイはマルスの言葉を繰り返した。
「私は迷宮の中で一番大切なのは、各々の気づきを必ず隊で共有することだと思っています。だからこそ、何か気づいたことがあったら、隊長でも私にでも伝えてくださると幸いです」
「わかりました」
平坦だが重みのあるマルスの言葉に、ケイは素直に返した。
◇◇◇
渓谷エリアはどうやら、今日はあまり天気が良くないらしい。湿り気を帯び、岩肌からは独特の匂いが立ち込める。先行していたマルスが、警戒するように周囲を窺っている。
しばらく進むと、岩陰からヌッと、鱗に覆われた異形の影が三つ現れた。リザードマンだ。鋭いシャムシールを構え、蛇のような瞳が一行を睨みつけている。
「来たか!」
隊長の低い声が響く。「三体!パトリックは一体!俺も一体行く!マルスとケイ、残りの一体を抑えろ!あくまで牽制だ!」
隊長の指示は迅速かつ的確だった。パトリックはニヤリと笑い、一歩前に踏み出す。隊長もまた、静かに剣を構えた。残されたマルスとケイは、身を寄せ合い、一体のリザードマンに意識を集中させた。
マルスは盾を持ち直し、わずかに前に突き出される。ケイは騎士剣に魔力を流して刀身を作り、固く握り締めた。
マルスとケイの前に立つリザードマンは、低い唸り声を上げ、前に踏み出した。長い尻尾が鞭のように空を切り裂き、鋭いシャムシールがケイを捉えようと動く。
(速い!でも、もう知ってる。)
2度目の実践。ケイは1回目より余裕を持って、リザードマンの攻撃に反応することができた。シャムシールの広い斬撃を、騎士剣で受け止め、直後に繰り出される尻尾の連撃を、最小限の動きでぎりぎりのタイミングでかわしていく。何とか避け切れたものの、鱗と金属が擦れる嫌な音と、空を切り裂く騒音が、ケイの耳元で近くに響く。
「ケイさん。尻尾は受け持つので、剣をお願いします」
「了解」
お得意の連続攻撃が防がれた、リザードマンは面白くなさそうに鼻を鳴らしている。リザードマンの体格はそれほど大きくない。ケイでも十分に押し切れそうだった。
尻尾の振り回しが届くか否かという距離感で、ケイとマルスはリザードマンと相対している。互いに睨み合いつつ、少しずつ位置を変えていく。スローペースはマルスや隊長の加勢を待つ二人にとっては都合がいい。
だからこそ、膠着を破ったのはリザードマンだった。
「ギャウ!」
「来ます!」
リザードマンとケイの声はほとんど同時だった。
ガキン
シャムシールと騎士剣がかち合う音がする。
「噛みつきです!」
防ぎ切って少し安心したケイの油断を、マルスの声が防いだ。ケイは踏ん張る力を緩めて、リザードマンの力に流される形で、後ろにステップを踏もうとする。
「ギャアアアア」
そこをリザードマンの尻尾の一撃が襲いかかる。
間髪入れず、マルスが盾で何とか押さえ込んだ。しかし、受け持つポイントが悪かったのか、マルスは大きくよろめいた。
ニヤリと笑うリザードマンは、続けてマルスにシャムシールで一撃を入れようと大きく振りかぶった。
瞬間、マルスは構えた盾を、信じられない速さでリザードマンの腹部に突き出した。肉を棍棒で叩くような鈍い音が響き、リザードマンは予期しない衝撃に大きく仰反る。
その隙を見逃さなかったケイは、全身の力を騎士剣に込め、リザードマンの太腿から、逆袈裟に斬りつけた。しかし、騎士剣の刃は、硬い骨に衝突し、そこで動きを急激に止めた。ケイは、歯噛みしながらも、心の中で呟いた。
(『生成』__宿木)
ケイは骨で阻まれた騎士剣に、最大限の魔力を魔導回路に叩き込む。『浸透』の魔力によって騎士剣の刀身の途中から短い刀身が、突然現れた。
(深く切らなくていい)
無理して突き刺さず、撫でるように切る。ケイは骨を避けるように刀身を持ち上げ、刃先を天空まで強く持ち上げた。
「はああああ」
リザードマンの肉は血を撒き散らしながら、大きく傷つけられていく。柔らかいところだけとはいえ、見るだけで痛々しい傷が刻まれていく。
「グギャアアア!」
「なっ!?」
リザードマンは、予期しない激痛に苦しみながら後退りし、大きな口から低い悲鳴を上げる。腹部から噴き出した赤黒い血が、硬い鱗を赤い色に染め上げ、地面に黒い斑点を広げていく。二つ目の刀身が抉った傷口からも、大量の血が流れ出し、リザードマンの全身から血が噴き出すような状態だった。
ケイは予想外の威力に舌を巻いた。
(思ったより、ダメージを与えられるみたいだな)
致命傷を負ったリザードマンは、精巧さに欠けた動きでケイに襲いかかってきた。シャムシールはすでに力なく垂れ下がり、長い尻尾の動きも弱い。
ガッ
マルスはケイの視界の外から割り込み、危なげなくリザードマンの攻撃を受け流した。
「ケイさん。トドメを」
マルスによって体制を大きく崩したリザードマンの首元に、ケイは騎士剣を冷たく突き刺した。
「グガ……」
短い断末魔の声と共に、リザードマンの大きな体が、ドサッという重い音を立てて地面に崩れ落ちた。ケイの騎士剣の先端から、生暖かい血が滴り落ちる。
あまりにも多くの血が吹き出し、ケイの前の地面は、あっという間に赤黒い色に染まった。
◇◇◇
隊長は、一体のリザードマンを仕留め、血振るいをして騎士剣を鞘に収めた。パトリックもまた、騎士剣についた血を魔力で落とし、ニヤケ顔でケイの方を見た。
「ケイ。あれを倒したのはお前か?」
ケイは、まだ興奮冷めやらぬ呼吸を整えながら、血塗れの騎士剣を見下ろした。全身に温かい液体がくっつく感覚がある。
「え、あ……はい。なんとか」
ケイがそう答える前に、隊長がケイの前に歩み寄ってきた。隊長の目は、ケイの持つ騎士剣と、地面に横たわる血塗れのリザードマンの大きな体を、交互に見ていた。
そして、傷の形を見てケイがどのような攻撃を行ったのかを悟ったようだった。
「その使い方は剣に負担をかける。使い所は気をつけろよ」
「承知しました」
ケイは短く答えつつ、いつの間にか消えていた、宿木によって生やされた刃を目を落とした。
「ケイ……お前の剣の筋がいいとは思っていたが……まさか、本当に倒せるとはな」
隊長の声には、驚きと、ほんのわずかな感心の色が混じっていた。
「しかし……」
隊長は、周囲を見回し、苦笑いした。ケイの周囲の地面はもちろんのこと、近くの岩肌にまで、リザードマンの赤い血が多くに飛び散り、別の隊が白いチョークで書いた、マッピング用の記号まで血で覆われている。
「血をあたりに撒き散らしすぎだ。壁のチョークまで消えているぞ」
「すみません……少し力が入りすぎたようです」
ケイは、申し訳なさそうに頭を下げた。その隊長の横から、マルスが乱れた息を整えながら、いつも通り冷たい声で口を開いた。
「隊長、チョークの痕跡が完全に消えたわけではありません。他の場所のものは、まだ視認可能です。少し時間がかかりますが復旧は可能ですよ。」
マルスの淡々としたフォローに、隊長の表情が少し和らいだ。
「そうか。マルス悪いが、目印の記入を頼めるか。」
「それが私の仕事ですから。」
「ケイのフォローも助かった。」
「問題ありません。」
隊長とマルスはチョークを取り出し、まだ血濡れてない壁面にマッピング用の記号を書き始めた。
どうやら、隊長も地図士と同じことができるようだった。そんな姿をケイは意外そうに見つめた。
「やるじゃねぇか、ケイ!まさか、本当にリザードマンを仕留めるとはなぁ!」
「パトリックさんのおかげですよ」
「またまたぁ」
ケイは、隊長、パトリック、マルスのそれぞれの反応を受け止め、遠征の最初の戦闘を、なんとか乗り切ることができた安堵感に、深い呼吸を一つ吐いた。