1-04
朝の光が訓練ホールに差し込む少し前、ケイは既に起きて、訓練の準備をしていた。7日間の遠征を控え、少しでも自分の力を高めておきたかった。昨日のパトリックとの訓練で、自身の未熟さを痛感したからだ。
訓練用の剣を手に取り、深い呼吸を一つ。以前に教わった基礎の素振りを繰り返そうとしたその時、訓練ホールの入り口に、温かい湯気を立てるホットタオルを両手に持ったエマの姿が現れた。
「おはようございます、ケイさん」
エマは、いつもの柔和な笑顔でケイに近づき、ホットタオルを差し出した。こんな早朝からトレーニングしているのはケイだけとはいえ、毎朝頭が上がらない限りだ。
「今日も精がでますね。遠征が近いから、特別に頑張ってらっしゃるんですね」
ケイはエマが把握していることに少し驚きながらも、感謝してホットタオルを受け取った。温かさが、筋肉を柔らかくほぐしていくようだ。
「ありがとうございます、エマさん。少しでも、足手まといにならないようにと……」
ケイがそう答えると、エマの表情に、わずかな陰りが見えた。
「そういえば、昨日の昼から、うちの末っ子が遠征に行ったんですよ」
エマの声は、いつもより少し掠れていた。
「えっ、そうなんですか?どちらへ?」
ケイが尋ねると、エマは少し遠い目をした。
「行き先は、ケイさんたちと同じ塩田だって聞きました。ルートは違うみたいですけどね」
「そうなのですね」
ケイは、心の中で考えた。昨日の塩田での任務では、他の部隊と遭遇することはなかった。迷宮では、人が集まるとそれだけ強い魔物が出やすくなる。そのため、できる限り少人数で移動し、ルートも基本的に分散させているのだと、以前に隊長から説明を受けていた。
そのことをエマに説明しようとケイが口を開くと、エマは少し不思議そうな顔で聞き返した。
「そうなの?人が集まると、魔物が強く……?そんなこと、初めて聞きました」
ケイは、少し驚いた。エマは、この寮で長くメイドを務めている。五人も子供がいて、その全員が騎士になったと聞いている。迷宮での重要な注意事項を知らないはずはないと思いつつ、ケイは続けた。
「確か人の魔力が集まっていると、餌と勘違いするとか」
「そうなんですね。あの子達ったら、私にお仕事のこと何にも教えてくれないですよ。私に似ておしゃべりな末っ子もそんなこと一回も言っていませんでしたよ。寮のご飯の感想なんて、毎日私に文句垂れているのに」
ケイはエマの言葉に少し笑った。
「ケイ様と違って、単に忘れているだけかもしれませんね。」
「そんなことは。まあ、とにかく遠征も小隊毎に、それぞれ違うルートを進むと聞いています。三番目が、末っ子さんのところの小隊長を務めているんですよね?あの人はしっかり者だから、きっと大丈夫ですよ」
ケイがそう付け加えると、エマは少し安心したように微笑んだ。
「そうなんですよね。三男は、本当にしっかりしているんです。末っ子は、まだ少し心配ですけど……ったく、うちの子たちときたら…五人も騎士になったのに、肝心なことは何一つ話してくれないんですから。特に、あのペラペラおしゃべりな末っ子ですら、こんな大事なこと、一回も言っていませんでしたよ。」
エマはそう言って、泣き真似をしながら、少し自嘲気味に笑った。どうやら、どこ世界でも息子という生き物は母親に何も喋らないらしい。
ケイはそれが面白くて、くすりと笑った。
「息子たちは心配させたくないから、危ない話は避けているのかもしれませんね」
「そうだといいんですけど。ああ、そろそろ戻らなくちゃ!ケイさんも、訓練、頑張ってくださいね」
話に興じていると朝の忙しい炊事場からエマのことを呼ぶ声が聞こえた。
エマは、ケイに微笑んで、炊事場の方へ戻って行った。
ケイは、エマの後ろ姿を見送り、深い呼吸を一つ吐いた。遠征を前に、自分もしっかりしなければならない。
訓練用の剣を再び握り直し、ケイは基本の素振りを始めた。昨日のパトリックとの訓練で指摘された点を意識しながら、一つ一つの動きを丁寧に確認していく。
しばらく素振りを繰り返した後、ケイは『浸透』の魔法を試してみることにした。魔力をゆっくりと剣に流し込む。漆黒の刀身が、かすかに振動しているように見える。しかし、それを戦闘で効果的に使うイメージが、ケイにはまだ分からなかった。
(『浸透』は、確かにパトリックさんを驚かせた。けれど、あれはあくまで予期しない攻撃だったからだ。でも実戦でそれが効果的な攻撃に繋がるのだろうか……?)
今のケイにできるのは、剣に魔力を浸透させ、かすかに振動させることだけだ。それをどうやって相手の防御を破壊し、ダメージを与える攻撃に転換すればいいのか、具体的な方法が思い浮かばなかった。
ケイは、剣を振り下ろす。
訓練ホールに、空気を切る音が響く。地道に訓練していくしかなかった。
◇◇◇
ケイは訓練ホールの隅に腰を下ろし、訓練用の剣を前に立てかけた。自分の戦闘能力を底上げする手立てがないかと考えていた。
「魔法、ねぇ……」
ケイは、ポツリと呟いた。魔法が本当に戦闘で有効活用できるのは、パトリックの言う通り『浸透』くらいなのだろうか。しかし、ライトノベルの世界では、もっと多様で派手な魔法が飛び交っていたような気がする。
ケイは、かつて読んだライトノベルのあるシーンを思い出した。主人公が叫ぶと、地面から無数の剣が生え出し、敵を串刺しにしていくという、空想的な魔法だった。
(地面から剣が……か。そんな規模の魔法は、この世界では到底無理だろうな)
ケイは、少し自嘲気味に笑った。しかし、その空想の流れの中で、突然あるアイデアが閃いた。
(……剣から、剣を生やす、というのはどうだろう?)
今持っている騎士剣から、もう一振りの剣を生み出す。地面から無数に生やす規模こそ無理だろうが、刃を二つにするくらいなら、なんとか実現できるかもしれない。
ケイの頭の中で、アイデアが素早く形を形成していく。騎士剣の刀身は、浸透させた魔力を、柄に組み込まれた魔導回路によって整形することで形成されている。ならば、浸透させた魔力を、刀身の途中から、生成することはできないだろうか?
ケイは、ワクワクした気持ちを抑えながら、早速そのアイデアを試してみることにした。訓練用の剣を前に構え、通常よりもかなり多めの魔力を、ゆっくりと流し込む。そして、意識を刀身の中間点に集中させ、そこから短い剣が生え出すイメージを強烈に思い描いた。
しばらく集中していると、漆黒の刀身の中間点が、わずかに光を帯び始めた。そして、まるで溶け出すように形を変え、十センチメートルほどの短い、二つ目の刀身が、 騎士剣から横に生え出した!
「おおっ!」
ケイは、思わず小さな歓声を上げた。本当に、剣の途中から、短い剣を生やすことに成功したのだ。短いとはいえ、これは予期しない攻撃手段になるかもしれない。 リザードマンの時のように、刺さった剣の先からさらに生やすことで、傷を抉ることができるかもしれない。
しかし、その喜びも束の間だった。騎士剣の柄の部分から、不快なきしみ音が聞こえ始めたのだ。まるで、PCが想定外の負荷処理を行っているかのように。
(まずい!負担が大きすぎる!)
ケイは、直感的にそう判断し、生やした短い剣を、急いで魔力を遮断することで解除した。短い剣が溶けるように消え去ると、騎士剣のきしみ音も、まるで何事もなかったかのように止んだ。
ケイは、胸を撫で下ろしながら、騎士剣を見つめた。確かに、剣から剣を生やすというアイデアは実現可能だった。しかし、騎士剣への負担があまりにも大きすぎる。貴重な武器である騎士剣を破損させるわけにはいかない。
「……対人戦では、確実に相手に刺さるだろうな、あれは」
ケイは、先ほど生やした短い剣の鋭さを思い出しながら、ポツリと呟いた。 訓練で試すのは危険すぎる。
ケイは、しばらく剣を見つめて考えていた。
脳裏に、SE時代に担当していたサーバーが、処理能力の限界を超えてエラーを吐き出す光景が蘇る。あの時も、根本的な解決策を見つけるために、システムの設計書を読み込み、ログを分析し、識者に意見を求めた。今もやるべきことは同じだろう。
(まずは情報収集だ)
騎士団には、魔法や魔導具に関する資料が収められている図書室があると聞いている。それに、経験豊富な騎士に直接話を聞くのも有効かもしれない。
ケイは立ち上がり、訓練ホールを出て、宿舎の奥にある図書室へと向かった。石造りの廊下は、訓練ホールの活気とは打って変わって静まり返っている。図書室の扉を開けると、古い紙とインクの匂いが鼻腔をくすぐった。高い天井まで続く本棚には、埃をかぶった分厚い資料がびっしりと並んでいる。
(どこから調べればいいんだ…?)
手当たり次第に本を探し始めるわけにはいかない。SE時代なら、検索システムにキーワードを打ち込むところだが、ここにはそんなものはない。彼はまず、「魔法原理」「騎士剣」「魔導具」といったキーワードを頭の中で整理し、関連性のありそうな本棚を探した。
「魔法概論」「騎士装備の手引き」「迷宮産魔導具の特性」…それらしいタイトルの資料を数冊手に取り、テーブル席に腰を下ろす。
資料は難解な専門用語と図解で埋め尽くされていた。魔力の流れ、魔導回路の構造、魔法の発動条件…眠くなる眼を擦りながらも読み進める。
「『浸透』…物体内部への魔力干渉…熱、振動、低レベルでは効果限定的…高レベルでは物質変化、防御無視…」
『浸透』に関する記述は、パトリックの解説よりも詳細だった。達人レベルになれば、物体を内部から破壊したり、性質を一時的に変化させたりすることも可能らしい。しかし、具体的な訓練方法や、それを剣技に応用する方法については、断片的な記述しかない。
騎士剣に関する項目では、魔力による『生成』が標準的な技術であること、多くの騎士剣が柄に単純な魔導回路を内蔵していることが書かれている。そして、一部の特殊な騎士剣は、独自の魔導回路を持ち、固有の能力を発揮すると記されていた。
資料を読み進めるうちに、一つの記述がケイの目を引いた。「一部の古流剣術には、『浸透』の原理を応用し、剣撃を通して相手の体内に魔力を流し込み、内部から崩壊させる技が存在したとされる」。それは「浸透勁」と呼ばれる技に似ているが、詳細な方法は失われている、とあった。
(まあ、そんなの聞いたことないしな…、資料じゃ『どうすれば』は見つからないか)
そんなことを考えていると「ぐう」と大きな腹の虫が鳴く声が聞こえた。
魔物の脅威度:迷宮生態系の階層(1~3)
迷宮都市における生存は、常に魔物の脅威と隣り合わせである。変遷によって歪められた生態系は、多様な魔物を生み出し、その脅威度は明確な階層構造を形成している。以下に、遭遇する可能性のある魔物の脅威度を概説する。
グレード1:微小なる捕食者
この階層に属する魔物は、多くが小型の動物に近い性質を持つ。その脅威は限定的であり、訓練を受けていない一般の住民であっても、適切な対処を行えば討伐は不可能ではない。
* ラビット:敏捷性を持つものの、攻撃力は低い。
* マウス:群生することがあるが、個々の戦闘能力は微弱。
* カラースライム:物理的な攻撃力は低いが、体液に毒性を持つ個体も存在する。
グレード2:領域を侵す獣
この階層の魔物は、大型の動物や、ある程度の魔力を持つ小型の魔物を含む。単独であれば、魔力を持たない熟練した戦闘員一人でも対処可能であるが、油断は禁物である。
* ゴブリン:知能を持つ小型の魔物。集団で行動し、粗雑な武器を用いる。
* スモールゴーレム :岩や土で構成された小型のゴーレム。動きは鈍いが、物理的な防御力を持つ。
* コボルト:犬のような外見を持つ小型の魔物。集団で狡猾な罠を用いることがある。
グレード3:試練の具現
この階層の魔物は、小~中型の魔物であり、単独でも魔力を持つ騎士や従騎士一人で苦戦を強いられる場合がある。確実な討伐には、相応の戦闘技術と魔力の運用能力が要求される。
* リザードマン:高い身体能力と、シャムシールと呼ばれる湾刀や尻尾を用いた連撃を行う。
* ゴブリンソルジャー:より訓練されたゴブリン。鎧を装備し、組織的な戦闘を行う。
迷宮都市における生存戦略の根本は、これらの魔物の脅威度を正確に認識し、適切な対処を行うことにある。一つの油断が、明日の生活を奪い去る可能性を常に認識する必要がある。