1-02
「やっと一息つけるな」
渓谷エリアと海岸エリアの境界にある、小さな窪地。そこが、今回の作戦におけるな安全地帯だった。「休憩」が告げられると、打ち寄せる波の音だけが聞こえる静かな空間で、隊長は岩に背を預け、目を閉じている。マルスは携行食を口に運びながらも、地図を広げてルートを確認していた。
ケイも、岩に背を預け、深く息を吐き出した。初陣とはいえ、いきなり魔物との戦闘を経験し、体には見えない疲れがじんわりと広がっている。先ほどのリザードマンの、光を失っていく瞳が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。
(結局、最後は隊長とマルスさんに助けられた……)
冷静に振り返れば、尻尾を切断できたのは、隊長の的確な指示と、リザードマンの隙を見抜けたからだ。しかし、最後の詰めが甘く、反撃を許してしまった。あの時、もっと早く剣を抜けていれば。もっと、的確に急所を狙えていれば。
「……情けない」
小さく呟いた言葉は、波の音にかき消された。
「どうした、ケイ? まだ顔色が優れないな」
隣に腰を下ろしたパトリックが、心配そうな表情で覗き込んできた。明るい彼の笑顔も、今のケイにはどこか他人事のように感じられる。
「いや……俺、やっぱり、まだまだ全然ダメですね」
絞り出すようなケイの言葉に、パトリックは少し意外そうな顔をした。
「何言ってんだ? 初めての実戦だったんだろ? あんなトカゲ野郎、結構手強かったじゃんか。尻尾だって一発で仕留めたし」
「でも、最後……隊長とマルスさんがいなかったら、やられてました」
ケイは、あの時の焦燥感を思い出し、拳を握りしめた。会社で仕事をしていた時、ケイは尻拭いをする立場に移りつつあった。だからこそ、自分が足手纏いであることへのもどかしさがある。実際は新人だと頭で理解していても、体が、心が、追いつかないもどかしさが、ケイを苛立たせていた。
パトリックは、ケイの沈んだ様子を察したのか、少しだけ真剣な表情になった。
「そりゃあ、最初はみんなそうだ。俺だって、初めて魔物を見た時は、足が竦んで動けなかった。先輩たちに何度も助けられたさ」
彼の言葉には、嘘偽りのない実感がこもっていた。
「新人が弱いのは、当たり前なんだよ。経験がないんだから。焦ったって仕方ないさ。少しずつ、慣れていくしかないんだ」
パトリックの言葉は、頭では理解できても、ケイの胸にはストンと落ちてこなかった。かつての自分が積み重ねてきた経験と知識が、今の体ではまるで役に立たない。そのギャップが、ケイを深く悩ませていた。
「でも……」
ケイが何か言いかけようとすると、パトリックはそれを遮るように言った。
「戦闘力で悩むなら、方法はいくつかあるさ。一番手っ取り早いのは、隊長に頼んで、みっちり稽古をつけてもらうことだな。隊長の剣技はホンモノだ。それに、お前は騎士だ。新しい魔法を騎士剣にいれるのもいいかもしれない」
パトリックの提案は、もっともだった。しかし、ケイには、誰かに頼ることに、拭いきれない抵抗があった。かつての自分がそうだったように、自分の力で道を切り開きたいという思いが強いのだ。
「ありがとうございます……少し、考えてみます」
曖昧な返事をするケイに、パトリックはそれ以上追求しなかった。
「ま、この話は、今は覚えておく程度でいいさ。今は、目の前の任務に集中しろ。塩を無事に持ち帰るのが、お前の最初の仕事だ。今は俺と隊長で2人の騎士もいるんだ、気楽に行こうぜ」
パトリックはそう言って、いつもの明るい笑顔に戻り、立ち上がってストレッチを始めた。
ケイは、パトリックの言葉を反芻していた。失敗してもいい――その言葉は、今の彼にとって、わずかな救いだったかもしれない。少年は、人知れず深く息を吐き、再び前を向いた。焦燥感はまだ消えないが、今は、目の前の任務を全うすることだけを考えよう。かつての自分がそうであったように、一歩ずつ、自分の力で、この世界を生き抜いていくしかないのだから。
(まだ、始まったばかりだ……)
安全地帯から見える、海岸エリアの空は、どこまでも高く、そして広く、自由な世界に見えた。
◇◇◇
安全地帯を後にして、一行は海岸エリアへと足を踏み入れた。打ち寄せる波は、先ほどの穏やかな様子とは打って変わって、白く泡立ち、岩に激しくぶつかっては砕け散っている。鉛色の空の下、荒れた海は唸るように音を立て、時折、強い風が砂浜を吹き抜けていった。
入り組んだ岩場が続く海岸線は、まるで巨大な怪物の骨が折り重なっているかのようだ。深く切れ込んだ湾と、突き出した岬が複雑に入り組み、その様子は、ケイがかつて地図で見たリアス式海岸という地形を彷彿とさせた。足元は濡れた岩や砂利で滑りやすく、一歩ごとに注意が必要だ。
「警戒を怠るなよ!」
隊長の低い声が、風の音を切り裂いて響いた。
その時、前方の岩陰から、ヌッと黒い影が現れた。それは、二本の太い腕と鋭い爪を持つ、熊のような獣型の魔物だった。唸り声を上げ、こちらに向かって突進してくる。
「来るぞ!」
隊長が叫んだのとほぼ同時に、パトリックが腰の剣に手をかけた。ケイも反射的に前に出ようとしたが、隊長の制止の声が飛んできた。
「ケイ! お前は上空の警戒だ。」
言われてケイはハッとした。地上に意識が集中していたため、空の警戒が疎かになっていた。慌てて周囲を見渡すと、鉛色の空には、今のところ何も見当たらない。
「了解!」
ケイは騎士剣を構え、いつでも上空の異変に対応できるよう、意識を空に向けた。
地上では、パトリックが魔物に向かって一直線に走り出していた。魔物の巨体が地面を揺らすたびに、砂が舞い上がる。
魔物が大きく振り上げた爪を、パトリックは軽やかなステップでかわした。鋭い爪が地面を抉る。体勢を崩した魔物に対し、パトリックは素早く懐に潜り込もうとするが、魔物もそれを許さない。太い腕を薙ぎ払い、パトリックを牽制する。
パトリックは無理に距離を詰めようとはせず、魔物の攻撃を冷静に見極めていた。一歩、二歩と下がりながら、魔物の動きに合わせて剣を構え直す。その間、ケイは上空に意識を集中させながらも、パトリックの動きを注視していた。
次の瞬間、パトリックは意表を突く行動に出た。地面に落ちている砂を素早く掴み上げ、魔物の顔に向かって勢いよく投げつけたのだ。
「ぐぎゃ!」
予期せぬ砂の攻撃に、魔物は大きく怯んだ。両手で目を押さえ、動きが止まる。その一瞬の隙を、パトリックは見逃さなかった。
「『変換』__切断強化付与」
低い声でそう呟くと同時に、パトリックの持つ剣が、青白い光を帯び始めた。騎士剣に備え付けられた機構に魔力を通した。切断力を大幅に上げる魔法だ。
光を纏った剣を、パトリックは迷うことなく振り上げた。狙うは、魔物の首。
「ハアッ!」
鋭い気合とともに、光の刃が魔物の首筋を捉えた。鈍い音と共に、魔物の巨体がぐらりと傾き、砂浜に崩れ落ちる。首からは黒い液体が溢れ出し、砂を汚していく。
鮮やかな一撃だった。パトリックの動きには、全く淀みがなかった。
「……すごい」
思わず、ケイは呟いた。パトリックの、状況判断の速さ、隙を見つける冷静さ、そして、一瞬で勝負を決める力。どれもケイに足りてない力だ。
「どうよ、ケイ。上空は大丈夫か?」
魔物の息の根が完全に止まったのを確認し、パトリックは笑顔でケイに声をかけた。剣に付着した体液を軽く払いながら、どこか誇らしげだ。
「はい、今のところは何も」
ケイは、少し遅れて返事をした。パトリックの戦闘に見入ってしまい、一瞬、上空の警戒を忘れていたことに気づき、内心で反省する。隊長が自分に上空警戒を任せたのは、地上での戦闘に巻き込まれるよりも、安全な場所から仲間の戦いを見て、学ぶ機会を与えるためだったのかもしれない。
パトリックの動きは牽制、バフ、そして必殺の一撃。一つ一つの動作に意味があり、それが勝利へと繋がっている。
(俺も、もっと、考えながら戦わないと……)
「にしても、クマの魔物は珍しいですね」
「まあ確かにな」
パトリックは、話題を変えたケイの話にはあまり興味がなさそうだった。
「まあ、ここって山も近いので、そういったモンスターも出るのかもしません。」
「マルスがサハギンを避けたルートを選定してたから、山の魔物が出やすいのは確かに厄介だな」
パトリックはケイの話を聞きながら、ケイの元へ近づいてきた。
「しかし、硬いぞ少年」
パトリックは顰めっ面のケイに向けてデコピンをした。
「美人なハーピーの1匹でもいりゃあ、ケイも人肌抜けんだろう。くくく、別の意味でも剥けっちまうかもな」
「パトリック、ケイに余計なことを言うな」
パトリックはニヤついた表情でケイの頭をわしゃわしゃと撫でた。
そんなパトリックに、隊長は低い声で咎めるように声をかけた。その声音には、いつもの優しさはなく、わずかに釘を刺すような響きがあった。
「はいはい、隊長。冗談ですよ、冗談。新人の緊張をほぐしてやろうと思っただけですって」
パトリックは、手を止めこそすれ、その軽薄な笑みは崩さない。
「ハーピー、ねぇ……」
ケイは、パトリックの言葉を反芻する。美しい容姿を持ちながらも、人を襲う危険な魔物。図鑑で読んだ知識が、頭の中で映像として蘇る。もし、本当に遭遇したら、自分は冷静に対処できるだろうか。
「ま、ハーピーは滅多にこんな低い場所には降りてこないから心配すんなって。大抵は、もっと高い崖の上とかに巣を作ってる。それに、あんなのに気を取られてたら、足元の擬態モンスターにやられるのがオチだぜ」
パトリックはそう言って、わざとらしく地面を指さした。そこには、周囲の岩肌と見分けがつかない、灰色がかった模様が広がっている。
「……ありがとうございます」
ケイは、改めて礼を言った。パトリックの軽薄な言葉の裏には、新人を気遣う優しさがあることを、彼は感じ取っていた。
(結局、助けられてばかりだ……)
先ほどの上空警戒の指示もそうだ。隊長は、危険な地上戦から自分を遠ざけ、安全な場所で戦い方を学ばせてくれた。パトリックの的確なアドバイスも、経験に裏打ちされたものだろう。
自分は、この小隊の一員として、一体何ができるのだろうか。
「そろそろ行くか」
隊長の号令が、ケイの意識を現実へと呼び戻した。
◇◇◇
かつて湾状になっていたであろう窪地が、長い年月を経て地形の隆起によって陸地となり、海水が干上がって結晶化した、天然の塩の層が広がっている。所々には、まだ水分を含んだ泥のような部分も残っているが、大部分は白銀の絨毯を敷き詰めたように、美しい結晶で覆われていた。
「すごいな……こんな光景、初めて見ました」
ケイが感嘆の声を上げると、隣で同じように周囲を見渡していたパトリックが、ニヤリと笑った。
「初めてっつーかお前、海岸エリア自体初めてだろ?」
「ええ、まあ、そうです」
ケイは頬を指で欠きながら、曖昧にうなづいた。そんな2人を横目に、隊長は、手慣れた様子で背負っていたリュックからスコップと土嚢袋を取り出した。
「よし、始めるか。目標は一トンだ。手分けして、結晶を袋に詰めていくぞ。綺麗なとやつを選んで採取しろよ」
隊長の指示に従い、4人はそれぞれ散らばって塩の採取を始めた。ケイもスコップを手に取り、目の前の白い結晶を掬い上げた。キラキラと光を反射する塩の粒は、まるで宝石のようだ。それを土嚢袋の中に落とすと、サラサラという心地よい音が響いた。
「しかし、本当にすごい場所ですね……まさか、こんな風になっているとは」
再び呟いたケイに、少し離れた場所で作業をしていたパトリックが顔を上げた。
「だろ? 俺も初めて遭遇した時は、結構感動したもんさ。岩塩を取るために、岩をガンガンすることはあっても、塩をかき集めることはねえからな。」
「ええっと、そうではなく、海水がこう勝手に塩になるのが珍しいなと」
「パトリック、お前の感覚とケイを一緒にすんなよ」
土嚢袋にたっぷりと塩を詰め終えたらしい隊長が、こちらに歩きながら言った。スコップを肩に担ぎ、遠くの景色を眺めている。
今更ながら空気がかなりの塩気を帯びていて、いつの間にか喉が渇いていることをケイは自覚した。
「そろそろ、潮が変わる時間だ。あまり長居は無用だな。目標量に達したら、すぐに引き返すぞ」
隊長の言葉に、パトリックもケイも、作業の手を早めた。