1-01
夜の帳が静かに降りた自室のベッド。
「……眠れない」
精神は肉体に引っ張られるというけれど、今日はお願いだから、そっとしておいてほしかった。頭の中で何度も眠りを乞うたけれど、残念ながら睡魔は一向に訪れる気配がない。
仕方ない――諦めて起きよう。
重い体を起こし、雨戸をガラリと開ける。窓の外は、まだ深い群青色に包まれていた。朝日も昇っていないのか、夜空の隅には、名残惜しそうに星たちが瞬いている。
伊波圭介。西暦19xx年生まれの29歳。システムエンジニア、通称SE。世間一般で言われるようなブラック企業ではないけれど、仕事はまさに脂が乗ってきた時期で、若手から中堅へとステップアップする大事な局面を迎えていた。平社員から役職付きへ。そのために、今は実績作りに奔走する毎日だ。
ふとした瞬間に、昔のことを思い出す。友達や家族の顔、夢中になった漫画やゲームのタイトル。それらは、ぼんやりとした記憶の断片として、もう遠い過去の出来事のように感じられる。
「ケイ様。おはようございます。朝からトレーニングですか?」
低いけれど、どこか温かみのある声が聞こえた。振り返ると、メイドというよりは、昔ながらの女中という言葉がしっくりくる、恰幅の良い女性が湯気を立てる鍋のそばに立っていた。どうやら、寮の炊事場から、廊下を歩く僕の姿が目に入ったらしい。彼女の名前は、エマ。
「おはようございます。エマさん。少し早いのですが、ちょっと目が覚めちゃって。体を動かそうかなと」
「今日は初陣ですからね。ケイ様の武勇伝、楽しみにしておりますよ」
エマは、にこやかにそう言った。その笑顔には、いつもどこか応援するような温かさがある。
「大袈裟ですよ。実地研修みたいなもので、今回は単に荷物持ちだって言われいるので、武勇伝と呼ばれるような活躍は難しいですよ」
「あらあら、またご謙遜を。私なんて、安全な場所から一歩も出たことがございません。ケイ様のような騎士様がいらっしゃるからこそ、私達はこの町で安心して暮らせるのです」
「そう言ってもらえると心強いです」
「ケイ様は、もっと騎士であることに自信を持ってくださいな。それに比べてうちの末っ子ときたら、昨日もずーっとやい同伴の人の話や、他の見習いの皆様と違って自分が如何にすごいだの、本当にもう」
「あはは」
ケイは愛想笑いしつつ、相槌を打った。
「ケイ様を見習って気高く立派な騎士になって欲しいものです。」
エマの言葉は、いつもストレートで、少しこそばゆい。
「僕もまだ、騎士じゃないよ」
そう、僕もまだ、見習いの身だ。温かい寮の中で、毎日勉強と訓練に明け暮れるだけの、まだひよっこ。危険な「外」に行く時だって、先輩騎士達が魔物を倒した後で、安全が確認されてから、護衛付きでほんの少しだけ。
「そんなことを仰いますけどね、私達にとって騎士様とは……」
エマが何かを言いかけた時、僕は言葉を遮った。
「エマさん、そろそろトレーニングにしますね。」
このままエマの話を聞いていたら、本当に日が昇ってしまいそうだ。適当に話を切り上げ、寝具をそのままにして廊下への扉を開けた。
扉の横には、今日履く分の靴下がきちんと揃えて置いてある。誰が用意してくれたんだろう。臭くないことを祈りつつ、そっと鼻に近づけると、微かにツンとした匂いがした。まあ、いっか。
廊下で靴下を履き、足首に銀色のアンクレットを着けた。廊下には、まだ他の見習い騎士たちの気配はない。各部屋の前に、人数分の靴下がきちんと並べて置かれているから、すぐに分かった。朝早くから訓練している人もいるけれど、今日はさすがに、皆まだ夢の中なのだろう。
みんなを起こさないように、足音を忍ばせて廊下を歩き、宿舎の玄関に差し掛かると、エマがすでにそこに立っていた。
「すぐに訓練に行かれると思って、ご用意しましたよ」
エマは、温かいタオルを両手で差し出してきた。
「いつもありがとうございます。」
炊事で使ったお湯の残りを使ってくれたのだろうか、タオルはほんのり温かい。さっきまで少しだけ感じていた眠気が、その温かさで一気に吹き飛んだ。
「朝ごはんは、みんなと一緒に食べますので……」
「承知いたしました」
エマは、一度話し出すと止まらないという欠点はあるけれど、それ以外は本当に気が利くメイドだ。けれど、この寮の若い騎士たちの評判は、あまり良くないらしい。なぜなら、若くて綺麗なメイドたちがたくさんいるこの寮で、エマは年齢が上から数えて四番目だからだ。
結婚していて五人の子供がいると聞いた。確か、そのうちの末っ子は、同期として訓練をしていたはずだ。いや、末っ子が寮に入ったからこそ、エマはまた寮のメイドに戻ってきた、と言うべきか。この間、そんな話を聞いたような気がする。
僕は見た目の年齢は十歳くらいに見えるけれど、精神年齢は四十歳くらいだろうから、僕にとっては非常に話しやすい相手だ。
玄関のすぐ脇には、訓練生用の騎士剣が何本か立てかけられているけれど、先月から、それらはもう使っていない。
心の中で小さく唱える。
『起動』
魔力を靴下の上のアンクレットに流し込むと、足元に黒い革のブーツが、そして右手には、漆黒の刀身を持つ騎士剣が現れた。新しい装備は、いつだって胸を高鳴らせる。軽く騎士剣の表面を撫で、しっかりと右手に握った。
さて、いつものように、まずはランニングから始めようか。遠くの空は、ゆっくりと白み始めている。
◇◇◇
「隊長、準備できました!」
朝の鍛錬を終え、腹ごしらえも済ませたケイは、今日から配属されたばかりの小隊へと急いだ。
「おう、来たかケイ!」
屈託のない笑顔で迎えたのは、この小隊の隊長を務める、歴戦の騎士といった風貌の男だった。
「お前らも知っての通り、一ヶ月の研修を終えたケイが、今日から俺たちの仲間入りだ! ま、顔見知りだろうから改めて自己紹介はいいよな?」
隊長の言葉に、ケイは少しだけ口角を上げて答えた。
「はい、不要です」
「なんだよ、つまんねーの。もっとこう、「今日から皆さんと力を合わせて頑張ります!」とか言ってみろよ!」
軽薄そうな男はニヤニヤしながらそう言ったが、ケイは真面目な顔で眉をひそめた。
「あははっ、冗談だって、ケイ。そんな怖い顔すんなって」
小隊のムードメーカーらしい、明るい茶髪の男――パトリックが、からかうように笑った。
「パトリックめ、余計なことを言うな」
隊長の言葉には、新人のケイを面白がっているような、どこか温かい響きがあった。
「ま、冗談はさておき、ブリーフィングを始めるぞ。今回のミッションは、塩の採取だ。量は一部隊あたり、大体一トンくらい集めたいらしい。都市の備蓄はまだあるんだが、念の為に増やしておきたいってな。ルートの説明は、マルス、頼む」
隊長はそう言って、そばに立つ、地図士のマルスに視線を送った。
丸眼鏡をかけた、少し神経質そうなマルスは、手に持っていた小さな黒板をテーブルに置いた。
「都市から目標の海岸エリアまでは、およそ30キロメートルです。道中は渓谷エリアとなっており、道幅が非常に狭くなっています。分岐点は六ヶ所。詳細なマップは私が所持していますが、万が一、迷ってしまった場合は、ダンジョンの壁面にチョークで記されたサインを参照してください。海岸エリアとの境界は、安全地帯となっています」
「ケイ、海岸エリアでの注意点は?」
隊長は、新人のケイに指名した。小隊の四人全員の視線が、一斉にケイに集まる。
「はい。天候の変化、空を飛ぶモンスター、そして、地面に擬態するモンスターの三点です」
「教科書通りだな。だが、実際に気をつけるべきことは、まだある。何か思いつくか?」
少し考え込んだが、ケイの頭には何も浮かんでこなかった。
「渓谷エリアは通路型のエリアだが、海岸エリアは開けた広い場所だ」
隊長のその一言で、ケイはすぐに意図を理解した。隊長は、ケイの表情が変化したのを見て、満足そうに頷いた。
「つまり、安全地帯のすぐ近くが、モンスターの巣窟モンスターハウスになっている可能性があるってことだ。それに、目に見えない壁や罠があるかもしれん。広範囲のエリア全般に言える注意点も、頭に入れておけよ」
「了解しました」
「今回は心配ないと思うが、潮の満ち引きで道が消えることもあるから、覚えておけよ」
基本的な確認事項ではあったけれど、改めて、この隊長は信頼できる人物だとケイは感じた。隊長の優しい眼差しを受け止めながら、マルスは再び地図の説明に戻った。
「海岸エリアの目的地は、西側にある天然の塩田です。可能な限り、不純物の少ない綺麗な結晶が欲しいですが、結晶であれば、特に問題ありません」
マルスはそう言いながら、手持ちの黒板の左上を指さした。
「今回は通過する予定はありませんが、砂浜には絶対に立ち入らないでください」
「マルス。水用の特別な装備はいらないのか?」
パトリックが、少し不思議そうに尋ねた。
「今回はその想定です。基本的には、岩肌の上を歩きます」
マルスはそう言って、簡易的な地図のいくつかのポイントを指で示した。
「なるほどな」
隊長が納得したように頷いた。
「特に質問がなければ、説明は以上となります」
「んじゃ、十時の鐘が鳴ったら出発するぞ。お前ら、遅れるなよー」
そう言い残して、隊長はポケットからタバコを取り出し、ブリーフィングルームを出て行った。
◇◇◇
左右に切り立つ崖が、空を細長く切り取っている渓谷エリア。足元はゴツゴツとした岩場で歩きにくいが、特に危険な魔物モンスターに遭遇することもなく、小隊は順調に進んでいた。
「シールド展開! ケイ、交代だ!」
先頭を歩いていた隊長の、低いけれどよく響く声が飛んだ。
「了解!」
ケイは黒い刀身に淡い光の刃を帯びた騎士剣を構え、目の前のモンスターへ向き合った。
向かうは、所謂リザードマンと呼ばれる、二足歩行のトカゲの魔物。鋭い爪のついた両手には、湾曲した刀――シャムシールが握られ、太く長い尻尾が不気味に揺れている。
隊長は、リザードマンの繰り出すシャムシールの攻撃を、巧みな剣捌きでいなしながら、相手の動きを誘っていた。リザードマンが剣を振るった後には、必ずと言っていいほど、尻尾による攻撃が来る――それは、この手の魔物との戦いにおける基本だった。
「はっ!」
隊長の合図と同時に、ケイは上から下へと騎士剣を振り下ろした。狙い違わず、リザードマンの太い尻尾は、鮮やかに切断された。
「アギャ」
(よし!)
内心で小さくガッツポーズを取ったが、ケイは決して油断しなかった。すぐに距離を取り、隊長の展開した盾シールドの背後に身を隠す。
リザードマンの尻尾は爬虫類の例に漏れず、ビクビクと動いているものの、人間相手には何の役にも立たない擬態である。
「ケイ、いい感じだ。リザードマンは尻尾から落とすと、その後バランスが狂う。間合いが若干変わるからそこは気をつけつつ、押し倒すと簡単に倒せる。覚えておけ」
隊長の冷静な声が、ケイの耳に届く。
「了解!」
「じゃあ、次は足を切りに行くが、気取られるなよ」
尻尾を斬られて苛立っているのだろう、リザードマンは拾い上げた岩をこちらに投げつけて牽制しながら、次の行動を窺っている。しかし、岩を拾い上げるその一瞬、リザードマンの視線は、わずかに下を向いた。
「くらえ!」
その一瞬の隙を見逃さず、隊長は巨大な盾を構え、リザードマンに勢いよく体当たりを仕掛けた。体格ではリザードマンの方が勝っているが、尻尾を切られバランスが悪い上に、油断している状態では、その力も十分に発揮できない。
『生成』
隊長は、さらに手持ち用の小型の盾を展開し、上からリザードマンの顔を殴りつけた。身動きを封じられたリザードマンは、もがくことしかできない。
「ケイ、足を落とせ!」
「しっ!」
隊長の指示を受け、ケイは盾からわずかに突き出たリザードマンの足に向けて、騎士剣を振り下ろした。
リザードマンは身じろぎをして交わそうとするが、上から隊長に抑えられているため、身動きができない。
「グギャアアアアアア!」
尻尾を切られた時とあからさまに違う、痛みを伴う叫び声だった。押さえ込んでいる隊長から視線を移し、怒りで血走った目でケイを見ている。
(クソッ)
ケイは若干怯みつつも、リザードマンが動けない状態であることに変わりはないことを冷静に、客観的に捉えていた。
だからこそ続けて、切断された足に目もくれず、ケイは隊長の持つ盾の隙間から、リザードマンの腹部へと騎士剣を深々と突き刺した。
「トドメだ!」
「アギャャャャャ!」
鱗の間をするりと抜け、肉や臓物を突き刺す剣の感覚に、ケイはわずかに顔を顰めた。けたたましいトカゲの断末魔が、狭い渓谷に反響した。
しかし、リザードマンの目はまだ死んでいない。
最後の力を振り絞るように、リザードマンは馬鹿力で盾を持つ隊長を払い除け、ケイに向かって鋭い爪を伸ばした。
騎士剣はまだ、リザードマンの腹に深く突き刺さったままだ。
(ちっ!)
マルスが小さく舌打ちをしたと同時に、愛用の小型の盾を投げつけた。大きく弧を描くように飛来した盾が、リザードマンの伸びてきた爪を弾いた。
「マルス、よくやった!」
『解除』、『生成』
隊長はマルスに声を飛ばしつつ、リザードマンを押さえつけていた小盾を解除した。間髪入れず、大盾の内部にしまっていた騎士剣に淡く光る刀身を展開すると、大きく振りかぶった。
片足立ちで、ケイへの攻撃を防がれたリザードマンはもはや避けることはできない。
「失せろ!」
独楽のように体を回転させながら、隊長はリザードマンの体を、真っ二つに切り裂いた。
リザードマンの上半身が少しの間、宙を舞い、下半身と別々のタイミングで大地に転がった。
最後まで殺意を宿していたリザードマンの瞳は、光を失う瞬間まで、ケイをじっと見つめていた。ケイは、地面に転がったリザードマンの、濁った瞳から目を逸らすことができなかった。
ほんの数秒の沈黙だったはずなのに、ケイにとっては、まるで十分、あるいは二十分もの長い時間に感じられた。
「ケイ。最後まで油断するな」
隊長は、先ほどまでの激しい戦闘とは打って変わって、優しい声色でケイに話しかけた。
「すみません……」
「なぁに。新人はミスをするもんだ。最初から完璧にこなせなんて、そんな無理なことは言わねぇよ。大事なのは、都市に帰る為に、無駄な体力を消耗しないことだ」
「承知しました。」
「反省会は後だ。すぐに気持ちを切り替えるのは難しいと思うが、ここは安全地帯じゃない。すぐに次の魔物が来ると思って、しっかり気を引き締めろよ」
「頑張ります」
「今回は、ケイの成長が一番の収穫だからな。失敗するなとは言わん。次に活かせ。」
ケイは、力強く頷いた。隊長の言葉で、ようやくリザードマンの死体から目を離すことができた。改めて見ると、それはただの、動かなくなったトカゲの死骸だった。
一瞥した後、ケイはリザードマンの下半身の死体から、自分の騎士剣を引き抜いた。
流れ出る血は、まるで魔力を嫌うかのように、刀身から逃げるように滴り落ちていった。
何度か見たことがある現象だったが、やはり不思議な光景だった。
綺麗になった騎士剣を、腰の鞘に静かに仕舞った。
【迷宮都市概論】
迷宮都市。それは、二〇〇年前に発生した変遷によって、各地の地形が不連続に接続された結果として生まれた特異な空間である。都市機能は、コアと呼ばれる中心領域に集中しており、そこは比較的安定した安全地帯として機能している。しかし、コアの外縁から一歩踏み出せば、あらゆる場所が即座に迷宮と化す。
この都市においては、「街のどこかに迷宮がある」という認識は誤りである。「迷宮の中に街がある」というのが、より正確な表現となる。日常生活圏の隣接地に、いかなる危険な迷宮が存在するかは予測不可能であり、住民は常に閉鎖的な環境下での生存を強いられている。
このような状況下において、人々の生活を支えるのが、変遷に適応した魔法的超能力(魔力)を持つ者たち、いわゆる「騎士」である。彼らは、迷宮の探索、安全確保、そして何よりも、この異常な環境下で人々が生き延びるための基盤を形成している。
この世界で生きるということは、常に危険と隣り合わせであることを意味する。日常は、薄氷の上を歩くようなものだと言えるだろう。