ディープ・ダンジョン
「ねえこっち!深海コーナーだって!」
先を行く志乃が、興奮した声を上げた。ノースリーブのニットにミモレ丈スカートのお出かけスタイルで、こちらを手招きしている。その勢いに、ハジメは既に疲れを感じつつあった。だが深海コーナーと聞いて、少々テンションが上がるのは否めない。
ハジメはほとんど普段着だ。いつものTシャツにオーバーサイズのパーカー、デニムのショートパンツ。履き古したスニーカーで、深海コーナーへと踏み入る。
「結構広い……」
「ね!ちょっとお化け屋敷みたいじゃない?」
薄暗い中に、水槽の赤い光が不気味だ。ハジメとしてはこの雰囲気がいいのだが、志乃はそうではないらしい。
「うわっ、何この魚、怖あ〜……」
そうではないなりに楽しんでいるのが、志乃という女。そう、ハジメも理解しつつあった。
「カニでっか!……え!?タラバガニって深海にいるの?」
「海底にいるんだから当然でしょ」
「いやまあ、そう言われればそうなんだけど……」
しかし自分といて何が楽しいのだろうか。自分はこんな風に振る舞うことはできない。志乃や、あの子のようには。
ハジメの懊悩を読み取ったかのように、志乃は近くの椅子に座った。膝の上に、がま口のミニショルダーを置き、横の座面を叩く。
「休憩しよっか、ここ座ろ?」
「……」
一人分の距離を開けて座る。志乃が苦笑いした。
「なんか警戒されてる?」
「油断ならない相手だからね」
「失礼だなあ」
正面の大きな水槽を眺める。縦三メートル、横十数メートルはありそうな巨大水槽だ。
色鮮やかなサンゴに、小魚の群れ。悠然と泳ぐ巨大なサメ。ヒラヒラと鰭をたなびかせるエイ。
動画よりも、やっぱり実物がいい。
見入っていると、志乃がこちらを伺う気配がした。
「……ハジメはさ」
切り出す声に、若干の緊張が籠もっていた。
「何で転校してきたの?」
「……家庭の事情」
踏み込ませたくなかった。だから、踏み込むな、という意思を込めて、そう答えた。
「なんで友達作ろうとしないの?」
「……必要ないから」
サメが大きく身体をうねらせ、小魚の群れをざわつかせた。
志乃が軽く息を漏らす。
「……なんかさ、ダンジョンみたい」
「何が?」
「暗くて、先が見えなくて、ちょっと怖い」
深海コーナーのことか、それとも自分のことか。内心の邪推には、気づかないふりをした。
「深海も探索する人がいる。まだ未知の領域も多い。ダンジョンみたいなものかも」
「ふふっ!配信もすることあるもんね!」
「意外。そういうの知らないと思ってた」
「偏見〜」
その時、志乃がふと顔を上げた。
その目線を追う。遠くの客の一人。気の抜けたファッションの若い男性。暗い水族館の中だというのに、サングラスをしている。
志乃が身を乗り出す。
「あの人、もしかして……」
「知り合い?」
「や、私が一方的に知ってるだけ……やっぱりそうだ。ちょっと待ってて!」
志乃が男性に駆け寄り、話しかけている。
ハジメは眉間にシワを寄せた。
もしかして、そうなのか?いや、まだ判断には早い。確かめなければ。
立ち上がり、静かに二人へと近づく。声を掛ける前に、志乃が振り返った。
「あっ、ハジメ!」
「……こんにちは」
自分でも驚くような普通の挨拶。男性は少し戸惑っている様子だ。
「えっ?こ、こんにちは。何?この子もリスナー?」
「ハジメもそうなの?」
なるほど。おそらくこの男性は何らかの配信者。志乃はそのリスナーというわけだ。
「リスナーじゃないです。連れの知り合いなのかなと思って」
「ああ、この子の?ごめんごめん。グラサンしてればバレないと思ったんだけどさ。俺、最近バズってるからかな?」
「はあ……」
やはり配信者だ。だが、ハジメには全く分からない。
「ハジメ、この人はダン攻の有名配信者なんだよ!シノビ攻略配信、知らないの!?」
「いや、知らないし……」
シノビ……そういえば昨日男子たちがそんなことで騒いでいた気がする。どうでもいいが。
「はは、俺の知名度もまだまだってことかな?良かったら見てみてよ。これ名刺。コードからチャンネル飛べるから。良かったらフォローとイイね、よろしくぅ!」
「どうも……」
受け取ったは良いものの、わざわざ見に行く程の興味は持てないだろう。
一方、志乃は真逆の反応を示していた。
「昨日も面白かったです〜!今日も潜るんですか?てか、もしかして住んでるのこの近く!?」
「ちょちょちょ!住所割れは勘弁ね!今日はオフってだけ!むしろ遠いから来てるんだよ」
「なんだぁ……。でもホント、シノビ攻略めっちゃ面白いです!」
「ありがとう!今度は忍法ビルドも試す予定だから、楽しみにしててね!じゃ!」
「頑張ってくださーい!」
やっと邪魔者がいなくなった。
ちょうど、周囲に人もいない。
「ごめんねハジメ〜!でも推しの配信者見つけたらしょうがないでしょ〜?」
「別に、いいけど」
志乃に背を向ける。
実際、どうでもいい。重要なのは、別のことだ。
小さな違和感が点となり、結んだ線が確信という形を成したのだ。
「……シノビ攻略が面白いって言ってたね。意外だった」
「え?なんで?」
「分かるでしょ?だって……」
ハジメは、深く息を吸った。