レイニー・エンカウンター
教室の窓を叩く雨音を、男子たちの歓声が貫いた。
「うわすっげ!やっば!」
知性の感じられないその声に、久野一は片目を開ける。
せっかくの昼休み、お気に入りのヘッドホンで音楽を嗜んでいるというのに……
〈今のがクラス“シノビ”のメイン火力スキル『不意打ち』ですね。会敵前の一度しか使えないけど、10階くらいまでの雑魚なら全部一撃なんで〜〜……〉
「コスパ良すぎじゃねこれ?」
「ストライダー一強終わったわ」
「いいな~俺もこんな風にダンジョン攻略配信してぇ〜」
ダンジョンの動画を見ているようだ。用語は分からないし、興味もないが……
「……攻略配信?」
こぼれた疑問を、聞きつけた者がいた。
「お、ダンジョン配信に興味ある?」
振り向く。クラスメートの井川志乃だった。背の高い彼女を訝しげに見上げ、ヘッドホンをずらす。
「別に、興味ないけど……」
転校してきて数日。
初日、クラスメートたちをヘッドホンでシャットアウトして以来、ハジメは見事孤立していた。幸いいじめにはなっていない。無愛想な、近寄りがたい女の子という扱い。ハジメとしてはその立ち位置で十分だった。
だから今話しかけてきた井川志乃には、困惑と猜疑の目を向けた。そして逆に、少し興味も引かれた。ダンジョン配信ではなく、この女に。
「まあまあそう言わずに」
志乃はハジメの前の席に腰を下ろした。他人の席だというのにあまりに躊躇のないその動きに、ハジメは眉を動かす。苦手なタイプだ。
「ダンジョン配信ってのはね〜……」
聞いてもいないのに喋りだした。
何なんだこの女は。
ハジメのそんな目も気に留めず、志乃はひたすら喋っている。
「それでね……あ、そもそもダンジョンってのはさ」
「ダンジョンくらいは知ってるよ……」
「ん?」
しまった、と思う間もなく志乃が身を乗り出した。
「なーんだ。浮世離れしてそうな久野っちも、最低限の社会常識は持ち合わせてたんだねっ!」
「普通に、失礼……」
そこまで変人だと思われていたのは心外だった。ダンジョンくらい誰でも知っている。
数年前、世界各地に突如現れた謎の地下迷宮。人が来ることを前提にしたかのような構造に、創作物そのままの怪物たち。
誰が作ったのか、なぜ突然現れたのか、誰にも分からなかった。法律上の所有権がどうだ、国の調査がどうだなどと、数カ月は大騒ぎしていたのをハジメも覚えている。
だが、それだけだ。ハジメにとってそれは、ピラミッドで新発見があったとか、深海で新種の生き物が見つかったとか、そんなニュースと変わらなかった。むしろ深海の生物の方がよほど興味をそそる。
下手な怪物より不気味な造形の深海生物に思いを馳せていると、志乃がずいと顔を寄せてきた。
「でも配信を知らないってことは、ダン攻も知らないと見た」
「ダンコウ?」
断交したいのは今なんだが、と顔に出すが、志乃にさらりと受け流される。
「ダンジョン攻略、略してダン攻。知らないの?許可を得た人ならダンジョンに入って、調査できるの」
「へえ、そう……」
「それだけじゃないんだよ!ゲームみたいに、ダンジョン内だとなんかクラスになれて、スキルとかも使えるんだから。ファイターでしょ、ストライダー、ウィザード……あと最近見つかったシノビとか」
「ふーん……」
正直、それは少しハジメの興味をくすぐった。
一体どういう仕組みなんだろう?本当にゲームみたいだ。
だが今さら手のひらを返すのも、なんだか負けた気がする。なのでそのまま興味ない風を装った。
何もしなくとも、志乃は勝手に喋り続ける。
「まあそれで探索レポートとかは公開されてたんだけど、今みたいになったのは撮影も許可されてからだね。凄いんだよ!?今やダン攻配信戦国時代!普通に攻略する人もいるし、色々面白いこと考える人いるし。私が昨日見たやつはさ、ダンジョンにロボット掃除機持ち込んで……」
「あのさ……!」
「……ん?」
邪魔されても嫌な顔一つしない志乃に、ハジメは逆に気圧されてしまった。
話の腰を折って、気まずくなって、また静かな孤独に戻る。そうなるはずだったのに、調子が狂った。思わず、場を取り繕う。
「……し、死んだりとか、しないの?」
言ってから、しまったと思った。咄嗟に言うにしろ、もう少しいい質問は無かったのだろうか。気まずさに目線を落とす。
「死ぬよ」
思わず顔を上げた。
「死ぬ、の?」
「うん。もちろん配信はすぐ切れるよ。監視されてるから。アーカイブも残らない。でも、そうなったことはすぐ分かる」
「……」
志乃の顔が、別人のように見えた。見慣れてもいないクラスメートの顔だったが、この数分で形成されたイメージが、真逆のそれに上書きされた。
が、その表情はすぐに元に戻った。
「……なーんて、配信者も危ないのは分かってて潜ってるからさ。もうそんな無茶する人いないよ!」
どちらかがウソに思えるほどの表情の変化は、ハジメの心に強く刻まれた。それに、今の言い方も気になった。この志乃という人間は、その瞬間を見たことがあるのだろうか?
寄せられた眉は、しかし別のものへの関心だと誤解された。
「お?久野っちも少しはダン攻配信が気になってきたかな?」
「いや、別に……。なんかそういう……なんていうのかな、人が苦しんだり、一喜一憂するのを娯楽として楽しむのは……あんまり……」
「ふーん……」
ああ、今度こそ終わるだろう。
つまんないヤツ。
そう思われて離れていくはずだ。皆そうだ。別にそれでいい。
ハジメは一人が好きだった。そうあるべきとすら思っている。自分は人とは違う。誰とも仲良くなどなれない。今はいない、あの子以外……
「じゃあ、家で暇な時とか何してるの?」
そう言った志乃の顔を、ハジメはまじまじと眺めてしまった。
「ん?何?」
「いや……」
目を逸らす。心拍が上がった気がする。志乃に、失われた何かを幻視する。気付かれないように息を吸い、吐く。
「読書……とか」
「他には?」
「動画も、見る」
「どんな動画見るの?」
「最近見てるのは、海の中映すだけの動画……三時間くらいの」
「えー何それ。面白いの?」
「面白くはないけど……落ち着く」
「なんか、久野っちっぽいね」
何か勝手なイメージを付けられている。
それに。
「さっきからその“久野っち”って何?」
「え?あだ名だけど。ダメ?」
「……ダメ」
「なんで!?」
「なんか、ヤダ」
駄々をこねてるみたいだ。そう思ったが、嫌なものは嫌だ。理由はたぶん、あの子のせいだ。あの子が付けてくれた名前が上書きされてしまいそうで、嫌なのだ。だがそんなこと、言えるはずもなかった。
だから、引き下がらない志乃に対して防戦一方になってしまう。
「じゃあ久野ちん」
「ほぼ同じ」
「イッチー」
「イチじゃなくてハジメだよ」
「じゃあハジメ」
「……」
追い詰められた。
ため息。
「もうそれでいいよ」
「やった。じゃあハジメね」
「あだ名じゃなくて本名だし……」
「ハジメも私のこと志乃って呼んでいいよ」
「呼ばないけど」
呆れ顔も効果がない。名前呼びのせいか、志乃はさらに距離を詰めてきた。
「んで、ハジメは海の中の動画好きなんだよね?だったらさ……」
■
「水族館……か」
自室のベッドに身体を投げ出し、ハジメは呟いた。制服のまま、ぼんやりと天井を見上げる。
今日も窓を雨が叩いている。この街はだいたいそうだ。まるで全てを溶かし、流してしまいそうな雨。
明日は学校が休み。だが予定が入ってしまった。水族館だ。
「……」
目を閉じて、あの子のことを考えた。そしてその、最後の言葉。
『〜〜……』
あの子はなんと言った?確かに聞いたはずなのに、思い出せない。覚えているのは、腕に感じるあの子の体温だけ。
奥歯を噛む。
……探さなければ。そのためにわざわざ転校までしてきたのに。
でも、もしかしたら水族館で手がかりが見つかるかもしれない。だからハジメは、志乃の誘いを受けた。
のろのろと制服を脱ぐ。シャワーを浴びて、適当な食事を取って、課題を済ませる。
味気ない生活だとは思っていた。
あの子がいれば、こんな日も外に出て楽しく過ごせていたかもしれない。
でも、もうそんな日は来ない。
携帯端末に切り取られた海を見ながら、やがてハジメは眠りについた。