天国の妻からのメッセージ
『コーヒーのドリップ、一番右の引き出し』
僕は机に貼られた付箋を見ながら引き出しを開け、インスタントのドリップを取り出した。
その引き出しの中には、『美味しいコーヒーの入れ方』など書かれたメモが添付されていた。
「…馬鹿にすんな…大人だぞ…」
そう呟きながら、『ああ…そう言えば、彼女が生きていた頃は、自分で入れた事無かったか…』と思い出した。
この大きな鳥籠に一人になって数ヶ月経った。
もう数ヶ月と言うのに、妻を失った悲しみから立ち直れず、家から出られない。
鳥籠の鍵も扉も開いているのに。
「その原因は、これなんだよなぁ…」
僕は、家中のそこかしこに貼られた付箋を見る。
硬筆資格所持者であった妻の綺麗な字が、大量のメッセージを遺していた。
『掃除機は階段下物入れの中。掃除機の予備パックは横のケースの中。パックの入れ方』
『洗濯機の水はたっぷり。糸くず掃除は最低でも週一回』
『洗濯槽の洗い方。粉石鹸、重曹、酸素系漂白剤』
…ほうほう成る程、確かに必要な知識だな。
『台所のシンクは毎晩掃除。三角コーナーと排水の網は交換。水気を切った後で塩素系漂白剤を排水に数滴』
…面倒くさい。でも、毎日やっていたんだな。あいつ。
『グリルとコンロは使用後に、油を綺麗に拭き上げる事』
…油汚れなんて、どうやって落とすんだ?
『一番下の棚に、油汚れ専用洗剤』
…考えを見透かしてやがる…。
『ゴミ捨てはゴミ出しのみに非ず。家中のゴミを集める事からがゴミ捨て』
家中のゴミ箱…一体幾つあるんだ?
あ…こんな廊下の隅や洗濯機の横にも…
全部覚えないと捨て忘れるな…
『ゴミ袋の口は匂いが漏れない様に、空気を抜いてしっかり縛る!』
…しっかりって…具体的じゃないと判りにくいなぁ…
この程度か?
「ちょっと!隣の者ですけど。
オタクのゴミだけ散らかってますよ!
酷い匂いですから、早く片付けて下さい!」
ゴミ捨て場を見たら、今朝出した僕のゴミだけがカラスに荒らされていて散乱していた。
当然、収集車は持って行ってくれていない。
「すみません…。
…もっと強く縛らないと駄目だったか…」
僕はため息をつきながら、ゴミ捨て場の後片付けを行った。
『ひげ剃りの換えは、洗面台左の二番目引き出し』
…ああ、あった。
刃がボロボロだったから使いにくかったんだよな…
本当に…都合の良い時に、丁度良い場所に貼ってあるなぁ…。
◆◆◆
妻は末期のガンだった。
仕事を辞め、延命治療も断って、すぐに家で終活を始めた。
要らないものは、写真でも貴金属でも、全て処分していた。
僕は妻を見て、『あんなに思い切り良かったか…?』と、驚いたものだった。
『棺に入れる物』
そう書かれたメモが、寝たきりになった彼女の枕元に置いてあった。
デイケアの人は、『お辛いでしょうが…出来るだけ希望に沿う様に、見送ってあげて下さい…』
そう言って、涙を溜めた目で僕を見た。
妻が亡くなり彼女が棺に入れられる時、メモの事を思い出して、入れる物を探した。
流石、彼女は準備万端。
入れる物は、既に一纏めにして置いてあった。
『彼女の七五三の時の着物』
『中学時代の学生服』
『ボロボロで年季の入った熊のぬいぐるみ』
3つも入れると、妻の小さな棺はいっぱいになった。
後は、彼女が好きだったマリーゴールドを敷き詰める。
「マリーゴールドは聖母マリア様のお花なのよ」
妻の言葉をふと思い出し、忘れていた涙が溢れ出した。
荼毘に付した後、僕は抜け殻の様になっていた。
そんなある日、ふと、妻の貼った付箋が目に入った。
『棚下のインスタント麺、賞味期限間近』
それを見て、ふっと笑みが溢れた。
「こんな時に迄、食べ物の管理か…」
僕は、彼女と会話をしている様な気になった。
それから僕は、毎日彼女と会話した。
「はいはい…お風呂は掃除したらすぐに乾燥ね。わかってますよ〜」
脱衣所に貼られた付箋に返事する僕。
少しづつ、普段の日常が戻って来た。
そんな、ある夜のことだった。
◆◆◆
『こんばんわ〜起きてらっしゃいます?』
真夜中過ぎ、いきなり見知らぬ女性に声を掛けられた。
だが不思議な事に、僕はさして驚いてはいなかった。
何故か僕は、彼女がそこに在る事に疑問を持たなかった。
外見は見えてないのに、美しい女性なのだと分かっていた。
目は閉じたまま。
身体はベッドに横たえたまま。
僕は夢と現実の狭間に居た。
身体が完全に寝ている事を、頭では理解していた。
金縛りとは全く違う。
身体を動かそうとする気力が全く湧かない。
声を掛けてきた相手が、僕のすぐ側にいる事も分かっていた。
なのに起きない。
それで良いのだと、感覚が訴えかけてくる。
『不思議な…いや…奇妙か…?
これが夢現というのか…?』
誰かの返事を期待せず、僕は頭の中で疑問を口にした。
『そうですねぇ〜。そちらの世界では、その様な表現が正しいかも知れませんねぇ』
間延びした彼女の声が、疑問に応えた。
『そちらの…?君は誰だ?』
『私は〜、そちらが天国…と呼ぶ場所から来ました〜。
来た…というか、呼び掛けていると言うか…?』
彼女は、自分の口元に指を当てながら首をひねった。
『でもまぁ…どちらでも良い事です〜。
大切なのは、貴方に私の声が届いている…と言う事ですので〜』
『君は…天使か?僕は死んだのか?』
僕がそう言うと、彼女は慌てて首と手を振った。
『そ、そそ…そんな事ないですよ?ちゃんと生きてます!
ええ!もう!バッチシ!』
そう言いながら、親指を立ててウインクした。
…天使というのは…こんな…なんて言うか…。
こんな…なのか?
僕がキョトンとして見ていると、彼女は慌てて、一つ咳払いをしてからゆっくりと口を開いた。
『…美しい天使様でも、可愛く完璧な女神様でも、どちらで呼んで頂いても構いません。
え〜…私がわざわざ貴方に声を掛けたのには、理由があります』
そう言うと、彼女は身振り手振りで説明し出した。
彼女は、天国に行った妻の友達だと言う。
ある日の午後、仲の良い女性達でお茶会を開いていたら、妻が暗い顔をしていた。
聴くと、この世界に残してきた夫が心配だと言う。
天国に来る前に、彼が生活に困らない様にはして来た。
だけれども、一人では何も出来ない人だから、とても心配なのだそうだ。
だから妻に替わって、彼女が様子を見に来たそうだ。
僕は、死んだ後まで僕の事を心配する妻を想い、涙を流した。
『大丈夫…君のお陰で、僕は問題無く生活出来てるよ…。
…その様に、妻に伝えてくれないか?』
僕は、嗚咽を我慢しながら彼女に伝えた。
彼女は満足気に頷くと、ニッコリと笑った。
『貴方の寿命は、まだ30年以上あります〜。
彼女の努力を無碍にしないで、頑張って寿命まで生きて下さいね〜。
無碍にしたら、地獄に落ちちゃうぞ?』
そう戯けながら言うと、彼女はスッと消えた。
身体が動かせる様になり、僕はベッドから跳ね起きると、布団に顔を埋めて泣いた。
妻の想いに応えないといけない…という気持ちと、淋しいという気持ちが入り混じって、頭の中がグチャグチャになって朝まで泣いた。
◆◆◆
「ふぅ…言ってきたわよ〜」
彼女は、お茶会のテーブルで待っていた友人達に向かって手を振った。
ゆっくりと歩み寄り、椅子を引いて席に着くと、片手でスコーンを掴み口に放り込んだ。
「ごめんなさい…。手間を掛けさせたわね…」
妻は、しょぼんとした顔で申し訳無さそうに彼女を見た。
「気にしないで!私と貴女の仲じゃないの!」
そう言いながら、冷めたお茶をがぶ飲みした。
「あ…、お茶を淹れてくるね…」
そう言って、抱いていた熊のぬいぐるみを机に置き、席を立った。
床には結婚指輪が落ちていた。
「あの子も大変ね…。
天使達の手違いで、次の転生まで、まだ30年以上も掛かるなんて…ねぇ…。
亡くなる前に伝えられたから、まだ良かったけど」
横で見ていた友人の一人が、呟いた。
推理物とは言えない?
いいえ、遺された物から故人の気持ちを推理する推理モノです。
…はぃ…ジョーク物ですね。否定はしない。
推理モノ読み過ぎて頭が疲れたでしょ?
箸休めみたいなモノだと思いねぇ。
悪意も邪推も好物です。