5
大図書館の通路で、トルグはばったりとリイシャに出会った。
館の東棟と西棟を結ぶ長い通路だ。石壁の所々には小さな窓が穿たれていて、冬の澄んだ陽光が斜めに射し込んでいたが、光の届かない所はぼんやりと薄暗い。その薄暗さの中でも、リイシャだとすぐわかった。
二人は同時に笑みを浮かべた。男女の寮はそう離れていないものの、行動時間が互いにずれているらしく、本舎に来ても顔を合わせることはほとんどなかったのだ。
「本舎には慣れた? トルグ」
「うん。リイシャは図書館によく来るの?」
「時間の空いた時はね。古い本に囲まれるのは好きよ」
「ぼくは調べもの。鉱物薬のことをもっと知りたくて」
「医療魔法を勉強しているのね」
「そこまではいかないな。本草学、といったところ。〈力〉を使わなくても病気を治す方法を教えてもらっているんだ」
リイシャはあきれたように言った。
「予備舎と変わらないじゃない」
「予備舎よりも専門的だよ。知識が多ければ多いほど魔法を有効に使うことができるってランフェル先生は言ってる」
「ランフェル先生のところにいるのね」
リイシャはちょっと首をかしげた。
「気むずかしい先生だと聞いたわ」
「そんなことはないよ、ぼくは好きだ」
「ならいいけど」
リイシャは、気を取り直したように微笑んだ。
「わたしは今、デュレン先生の所にいるの」
「トーム先生の所じゃなかったの?」
「お天気の魔法はほとんど身につけた。もっと別のことも勉強したいのよ。デュレン先生の教室に入れるのは、先生が認めた〈力〉がある者だけと聞いてね。自分を試してみたかったの」
「リイシャは誰より〈力〉があるよ」
「ありがとう」
リイシャはちらと笑い、ちょっと間を置いてから付け足した。
「ラウド先生は、デュレン先生の教え子なんですって」
トルグは、はっとリイシャを見つめた。
「ラウド先生がどうなったか訊ねてみた」
リイシャもラウドのことは気になっていたのだ。アイン・オソにいるかどうかもわからないなんて、突きはなしたようなことを言っていても。
「それで?」
「〈塔〉に行ったきり、帰って来ないそうよ」
トルグは眉を寄せた。
あの〈穴〉は、生み出したラウドにしか消滅させることはできないものだった。教授たちはそれを待って罰を下したのだろう。
予備舎時代の、ほとんど無意識のうちに犯した罪なのに。
〈塔〉にあるという地下通路から、アイン・オソを追放されてしまったのか。あるいは、もっと厳しい罰が?
「考えてもしかたがないわね」
リイシャはつぶやいた。
「自分の魔法を磨くことにしましょう」
「うん」
「そうだわ」
リイシャの笑顔がひらめいた。
「こんど、わたしたちの教室に来てみない?」
「デュレン先生のところ?」
「そう。指導教師以外の授業に出たってかまわないのよ。かえって違う視点から学べて勉強になるわ」
「でも、先生は〈力〉を認めた者しか……」
「あなたなら、大丈夫よ」
本舎に来がけのころ、トルグも一度だけデュレンの教室を覗いたことがある。銀色に近い白髪を肩の辺りまで垂らした精力的な老魔法使い。顔に刻まれた皺は深かったが昔の美貌を隠してはおらず、眼光も鋭い。背筋がぴんと伸び、言葉使いは歯切れが良かった。ランフェルと変わらぬ歳なのだろうが、どこもかしこも正反対だ。
うまの合う指導者、というリイシャの助言に従って、トルグはランフェルを選んだことになる。デュレンはどうも、近寄りがたかった。
「ありがとう、リイシャ。そのうち、機会があったら」
「待ってるわ」
リイシャはにっこりと笑い、行ってしまった。
トルグは彼女の後ろ姿が通路の陰に消えるまで見送った。
彼女が、そのまま遠くに行ってしまうような気がした。
リイシャは遠からず塔に上り、魔法使いとして巣立って行くのだろう。
待ってるわ、と彼女は言ったが、自分に追いつくことはできるのだろうか。
トルグはちょっとため息をつき、踵をかえして歩き出した。
トルグがランフェルの部屋で中食の支度をしていると、鐘楼の鐘が鳴った。
いつもの鐘とは違う響きだ。深く、長く、一回。さらに間をおいて一回。
トルグは作りかけの詰め物パンを皿に置いて耳を澄ました。
のんびりと揺り椅子に座っていたランフェルも背筋を伸ばす。
トルグはそこにいた仲間たちと顔を見合わせた。
鐘の音は六度続いた。
ランフェルは音をたてて立ち上がった。
「先生?」
「訃報だ。教授の一人が死んだ……誰だ?」
ランフェルは顔をしかめ、髪の毛をかきむしった。
「ムルガイか。病とは聞いていたが」
ランフェルはせわしなく室内を行き来して身繕いをはじめた。室内履きを脱ぎ捨て、靴に履き替える。
「〈塔〉に行かねばならん」
片手をふりまわし、
「おまえたち、ここにあるものは、みんな食って行っていいぞ。喪が明けるまでは、ひもじいことになるからな」
ランフェルは、疾風のように部屋を出て行った。トルグは、あっけにとられて師を見送った。
「教授が亡くなったら、どうするの?」
トルグは、ハルトに訊ねた。リフがいなくなってからは、彼が一番長くランフェルのもとにいる。ランフェルの助手的存在だ。
「教授の死に出くわすのはおれも初めてだ。話に聞いているだけだよ」
ハルトは、神経質そうな長い指で茶色の前髪をかき上げた。
「合議は多数決だ。教授は奇数。欠けた教授の席は、おぎなわなければならない。新しい教授は喪が明けた後に上位教師の中から選ばれるようだ。彼らの投票で」
「もし、ランフェル先生が選ばれたら?」
「うーん」
ハルトは眉を上げた。
「確かに先生は力と歳に不足はない。この教室は解散だな」
「先生は教授職なんて嫌いだと思うわ」
イルーが頬を膨らませた。仲間内で唯一の女性だ。ふっくらとした頬を、ふっくらとした褐色の巻き毛が被っていた。
「断るわよ、きっと」
「それができればな。評決は絶対だ」
「とにかく、先生の言うとおりにしよう」
ひときわ背の高い銀髪のファロムが、ひょいと手を伸ばして作りかけのパンを取った。切った鶏肉を挟み、
「これでよし。持って行ってくれ、ウゲン」
と、ウゲンに大皿を渡す。
トルグ同様小柄なウゲンは、色黒で黒い髪。薄い唇がいつも皮肉っぽく歪んでいる。ファロムは陽気で、ウゲンは無口。好対照をなす二人は、いつもいっしょで仲が良かった。
「先生のお達しだ。残りの肉も出してしまおうか、トルグ」
「そうだね。野菜も傷みそうだから、つけ合わせを作るよ」
「頼む」
菠薐草を洗いながら、トルグは漠然とした不安を感じていた。
ランフェルが教授になり、教室が解散する。それだけでこんなに心が騒ぐのか?
もっと大きなことが起こりそうな気がした。
絵札の同じ絵をひっくり返す時のように、それは確実な予感だった。
弔鐘が打ち鳴らされた夜から、アイン・オソは喪に入った。
学生たちは自分の部屋を出ることなく、与えられた水と六個の黒パンと一摑みの木の実だけで六日間を過ごすのだ。
静まり返った中州に冷たい春の雨が降り続いていた。トルグは寝台の端に座って、窓の外を眺めた。人気のない広場も鐘楼も、篠つく雨に煙るようだった。〈塔〉の灰色の影の尖端は雨雲に隠れて見えなかった。
配給の火鉢の炭も切れそうなので、トルグは毛布にくるまった。こんなことになるとわかっていたら、もう少し節約していたのに。
寒さと不安を追い払おうと、トルグは瞑想の姿勢を保った。しかし、心を澄ますことはなかなか出来なかった。
悶々と六日間が過ぎた。
トルグは朝早く、ランフェルのもとに向かった。新しい教授が選ばれるのは喪明けの日と聞いていたから、その前にランフェルの顔を見たかったのだ。
ランフェルの住居の前でハルトに会った。彼も早くランフェルに会いたかったのだろう。それとも、トルグのようになにか不安を感じていたのか。
鍵も掛けられていないランフェルの家だ。ハルトは、軽く戸を叩いて部屋に入った。トルグも後に続いた。
窓から入る陽の光が部屋の真ん中を横切っていた。
ランフェルは、お気に入りの揺り椅子に座っていた。
身体を前のめりにして、寛衣の中に埋まるようにして。
眠っているのかと思った。
ハルトはランフェルの横に屈み込んで、そっと顔をのぞき込んだ。
「先生」
そして、はっとしたように両肩に手をかける。
「ランフェル先生」
ランフェルの身体はがくりと前に倒れ、ハルトの腕の中にすっぽりと入った。
「ハルトさん!」
トルグは驚いて叫んだ。
ハルトはランフェルの首筋に手を触れた。トルグをに首をめぐらし、ささやいた。
「脈がない」
トルグは息をのんだ。
「蘇生を──」
「だめだ。もう硬直している」
ハルトは声を震わせた。
「おそらく、昨日の夜あたり」
トルグは、呆然とランフェルを見つめた。
不安のもとは、これだったのか。
揺り倚子に戻されたランフェルの顔は、すでに蝋のような白さを帯びていた。眉をよせ、歯を食いしばった苦悶の表情。師に一番似合わない表情だ。
何かの冗談だと言いたかった。蝋の面をはぎ取ってぴょんと起き上がり、笑い飛ばしてくれるなら──。
「致命的なところはどこにもない」
ハルトは顔をこすった。
「脳の血管も異常ないようだ。心臓?」
「先生はどこも悪くなかった。元気だった」
「ああ、そうだ」
ハルトはふりしぼるように息を吐き出した。
「いったい、何が起こったんだ」
その時、ファロムとウゲン、イルーが連れ立ってやってきた。トルグたちを見て立ち尽くす。
ウゲンとファロムが他の教師を呼びに出て行った。イルーが涙を流しながらもランフェルを横にする寝台を整えた。
数人の教師が駆けつけた。彼らが出した答えは同じだった。ランフェルは昨夜、突然の心臓発作におそわれたのだと。
新しい教授決めは〈塔〉で予定通り今日の午後に行われる。ランフェルの葬儀は明日以降になるだろう。
ランフェルの死を知った教師たちが〈塔〉に向かう前に次々に弔問に来た。
「残念だ」
時間まぎわまでいてくれたトームが言った。
リイシャのはじめの師だった人だ。癖のある赤毛は白髪交じりだったが、ランフェルよりは十年若そうだ。小太りで細い目に二重顎、人のよさげな顔を歪めてため息をついた。
「ランフェルを推す者は多かった。まさか、こんなことになろうとは」
「ランフェル先生は、教授になったかもしれないんですね?」
ハルトが訊ねた。
「ああ」
トームは目を伏せた。
「いま言っても詮無いことだ。明日、また来る」




