13
彼は振り返った。
そこにいるのはウゲンではなかった。
振り向いた一瞬で背が伸び、黒い短髪は銀色の長髪に変わった。眼光鋭くトルグを見下ろし、にやりと笑った。
「デュレン教授……」
トルグがつぶやく間もなく、デュレンは両手を伸ばし、トルグを抱え込んだ。
トルグはもがき、デュレンを振り払おうとしたが、彼の力は強かった。ますます強く押さえつけられてしまう。
リイシャのことに気をとられて、デュレンがウゲンに化けているとは考えもしなかった。トルグは自分のうかつさを後悔した。
〈力〉でデュレンを払いのけようとしたが、デュレンの〈力〉の方が勝っていた。扉を開けるために、トルグは〈力〉を使い果たしていたのだ。〈力〉が甦るには時間が必要だ。デュレンはそれを見越してトルグを利用したにちがいない。
デュレンはトルグを仰向けに組み伏せた。トルグの胸に尖った膝を押しつけ、喉元に手をかける。
「リイシャ」
デュレンは呼びかけるように言った。
「我々がここに来たのは知っているはずだ。出てきなさい」
トルグの肺はデュレンの膝に押しつぶされて、咳き込むのがやっとだった。
「さもなければ、トルグを殺す。このまま首を絞めても、心臓を止めてもいい」
デュレンは本気のようだ。彼の骨張って長い指がトルグの首にしっかりと絡まり、じわじわと締め付けてくる。
気が遠くなりかけた。
「やめてください、デュレン先生」
りんと冷たい声が響いた。
まぎれもなくリイシャの声だ。
トルグは意識をふりしぼった。
「トルグを放して」
「だめだ。きみたちがこちらへ来なければ」
きみたち?
トルグは、はっとした。リイシャは一人ではなかったのか。
デュレンが膝に力を込めたので、トルグは苦痛にのけぞった。
「教授」
押し殺したリイシャの声。
「トルグに何かあったら、わたしは決してあなたを許しません」
「わたしを許さないだけの〈力〉を手に入れたのかね、リイシャ」
リイシャは答えなかった。
「まだのようだな」
デュレンの言葉は笑みを含んでいた。
「きみ自身の力も、扉を開けるためにだいぶ消耗したはずだ」
「卑怯者です、あなたは」
「愛弟子の言葉とは思えんな」
トルグの横に影が射した。
視線を動かすと、リイシャの姿があった。幾度も胸に描いた柔らかな髪の毛が、いくぶん窶れ、青ざめた顔を光のように覆っていた。その目は、怒りを込めてデュレンに向けられていた。
デュレンはトルグから膝を外して立ち上がった。片手はトルグの首に回したままだ。トルグも、引きずられるようにしてなんとか足を地につける。
「きみは、わたしを裏切った」
「裏切りなど」
リイシャは悲しげにため息をついた。
「わたしに、人を見る眼がなかっただけです。尊敬していました。教授になる前のあなたを。自分の野望をかなえるためなら平気でランフェル先生の命を奪える人だったとは考えもしなかった。それどころかあなたは、アンシュの呪いに囚われてさらに多くの罪を犯している」
アンシュの呪い?
デュレンに抱え込まれたまま、トルグは、はっと彼の顔を仰ぎ見た。
デュレンの眼は、こんな色だったろうか。瞳も虹彩も漆黒だ。まるで、うがたれた穴のように。
アンシュの穴をのぞき込んだ者は、その呪いに囚われるという。
だが、アイン・オソのどこに〈穴〉があるのか。
「呪いではない」
デュレンは言った。
「わたしは、自分のすべきことを確信したまでだ。ヴェズを再び魔法使いの世界にする」
「そう。あなたには呪いをそのまま受け入れる資質がありましたものね」
リイシャの言葉は辛辣だった。
「きみがどう思おうとトルグはわたしの手の中にある。従った方が賢明ではないかね」
デュレンは再びトルグの首を締め付けた。トルグは身をふりほどこうとしたが、動くことも、声を出すこともできなかった。デュレンの魔法に絡み取られているのだ。
リイシャに申し訳なく思う。今の自分がリイシャの足手まといになっていることはまちがいない。しかし、今は抵抗せず〈力〉をいくらかでも蓄えなければ。たぶんリイシャも、デュレンに抗する〈力〉が回復する時を待っている。
「ラウド」
デュレンは言った。
「隠れていないで、出てきたらどうだ」
ラウド?
その名を聞いて驚いた。かつて、トルグたちの舎監だった人物だ。若い時、彼の内奥の暗い心がアンシュの穴の欠片に結びつき、人を取り込む空間を作り出した。
彼は空間の素である〈穴〉を自分の中に封じ込め、予備舎を去った。アイン・オソでなんらかの罰を受けたはずだ。
彼がなぜリイシャと。
「ここにいますよ」
リイシャの後に人影が現れた。
「あなたを見るのが辛いだけです、デュレン先生。隠れているわけでは」
トルグは彼を見つめた。トルグが知っている昔のラウドも痩せてひょろ長い体躯をしていたが、今はそれ以上に痩せ、寛衣の下は骨ばかりではないかと思える。頬のこけた顔は暗い影をやどし、悲しげにデュレンに向けられていた。
「あなたをそうしてしまったのは、わたしですから」
ラウドの声はほとんど聞き取れなかった。
「わたしさえいなければ……」
「思い上がったことを言うな、ラウド」
デュレンがぴしゃりと言った。
「わたしはわたしだ。おまえに関係はない」
ラウドは口をつぐみ、リイシャが力づけるように彼の手を握った。リイシャの白い手のひらめきを見たトルグは、わけもなく胸苦しさをおぼえた。
「それにしても、興味深い空間だな」
デュレンは満足げにあたりを見まわした。
「このどこかにアンシュの〈力〉が秘められているわけだ」
「デュレン先生」
リイシャは静かに言った。
「ここの存在を知ったのはわたしです。大図書館の夥しい古文書のひとつに記されていました」
「そうだったな」
デュレンはうなずいた。
「きみはよくやった」
「でも、わたし以前にも、知ってしまった魔法使いがいたはずです。あなたのように〈力〉を求めた魔法使いが。彼らは〈力〉を得ていない。どうしてだと思います」
「扉を開けられなかったのだろう」
「いえ。彼らはこの空間に入っています。鍾乳石の間に、古い白骨を見つけました。別々の場所で、三体。それぞれ時代が違います。もっとあるかもしれません。〈力〉を求めた魔法使いのなれの果てではないでしょうか。彼らは〈力〉を手に入れることも、この空間を出ることもできなかった」
「要領が悪かったのだ」
「そうでしょうか。この空間は、はじめから心得違いの魔法使いをおびきよせるためのものではないでしょうか。ヴェズの禍を摘み取るために、古の魔法使いがつくった罠なのかもしれません、ここは」
デュレンの身体が強ばった。
「入った者は出られないということか」
「ええ」
リイシャはうなずいた。
「ヴェズのためにはいいことです。あなたが二度と戻れないのは」
「きみたちも同様だ」
「わたしとあなただけならよかった」
ラウドがつぶやくように言った。
「リイシャとトルグまで巻き込んでしまいました」
「ここに来たのはわたしが望んだこと」
リイシャはラウドを見上げた。
「謝るのは、トルグにだけにしてください」
ラウドは辛そうに目をそらした。
こんな時でありながら、トルグは先ほどからの胸のうずきをどうすることもできなかった。リイシャのラウドへのまなざしは、自分には決して向けられたことがないものだ。
リイシャはラウドといつ再会したのだろう。彼らの間に、何があったのだろう。
「違うな」
デュレンは押し殺した声できっぱりと言った。
「ここは、確かにアンシュのなにかがある。わたしは、感じる。それさえ手に入れば、この空間もなんなく抜け出すことができるはずだ」
デュレンは、トルグの首に回した腕に力をこめた。
一瞬息ができなくなったトルグを、リイシャの方に突き飛ばす。うずくまったトルグは、自分の首をさすった。重苦しい感覚が喉元にまとわりついている。
デュレンはにやりと笑った。
「わたしの目のとどかないところには行くな。直ちにそれを締め付ける」
見ると、リイシャも眉を寄せ、両手で首を押さえていた。デュレンがリイシャにまで魔法の首枷をつけたのだ。
「それは、きみたちの〈力〉にも反応する。ほんの少しでも魔法を使おうとすれば、残念なことになる。心しておくように」
デュレンはラウドに向き直った。
「きみには何をしても無駄だったな。だが、わたしに従ってもらおうか。このふたりのために」
ラウドはうなだれていた。
「ここには間違いなくアンシュの存在がひそんでいるぞ。我々なら、探し出せる。なにしろ、きみはアンシュに一番近い者だ。たとえ魔法が使えなくても」
ラウドは魔法を使えない。〈力〉を奪うことが、彼に対するアイン・オソの罰だったのか?
ラウドがアンシュと結びついていることは確かだ。彼はアンシュの呪いの欠片を自分の中に引き込んでしまった。
だが、デュレンとどんな関係が。デュレンをこうしたのは自分だと言っていたが。
トルグがめぐるましく考えている間に、デュレンはぐいとラウドの腕をつかんだ。
「ほう」
デュレンは目を細めた。
「感じられる。アンシュの存在がさらに強く。きみもそうだろう、ラウド。ここで死んだ魔法使いに、アンシュとの結びつきはなかった。だが、我々はちがう。こうして触れ合っていれば、アンシュの〈力〉に辿り着くことも容易だ」
リイシャが、問いかけるようにラウドを見た。
「そうだ」
ラウドはうなずいた。
「さっきとは違う。アンシュが強く感じられる。そして」
ラウドは胸元を押さえ、顔を歪めた。
「〈穴〉がうずいている」