(55)ようやく見えた、やりたいこと
「……そう、不自由していないのならば結構」
いかなる情報網があるやら、妙にこちらの事情に精通しているらしいミセス・マトローネはしかし、不良娘の家出をたしなめることはしなかった。いかにも厳しげな見た目に反し、若年者にお小言を言うタイプではないのだ。淑女のなんたるかを説くのは自分の仕事ではない、という割り切った態度にはいっそ清々しさすら感じる。
彼女の自負する仕事は、あくまでも手芸の講師である。
「それで、その布ですが」
「はい」
手元に視線が注がれたのを感じて、カトリーヌはしゃんと背筋を伸ばした。本題だ。
カトリーヌは当初、刺繍を始めた動機をミセス・マトローネに明かしていなかったが、付き合いも丸一年に届こうかという最近になって思い切って相談してみたのだ。生徒会所属にサロン通いに公爵家の居候……ここ一年の波乱万丈の因果の原点とも言える、この布地のことを。
この布地に、自分なりの柄を入れる。暇になったり忙しくなったりの波のような日常の中でも、これだけは忘れていなかった。
娯楽の一種だ、優先順位は低い、こんなことをしている場合ではないのかも……と思うこともあるが、どうしてもこれだけは成し遂げたい。まだ自由が自分の手にあるうちに。
ミセス・マトローネは持参した荷物の中から真紅の布地を取り出した。カトリーヌがソキウスにもらったものと同じ布だが、店頭で売り出される商品のように紙管にきちんと巻かれた反物になっている。
「こちらの布で間違いありませんね」
「はい。……あの、これってもう市場に出回っているのですか?」
「いえ、こちらはベルモー商会から提供されたものです。三番目のご子息からの依頼でいくつか活用案を提出しましたので、わたくしもこの布地にはそれなりに触ったつもりです。……なにか?」
「……いえ、なにも」
……当たり前と言えば当たり前だが、カトリーヌ以外にも同じ布を渡した相手がいるわけだ。いや仕事なんだろうけども。わかってはいるけども。
ちょっと拗ねた気分が乗ってしまったカトリーヌの仏頂面を、ミセス・マトローネはわずかに不思議そうに見やりつつも深くは踏み込まず、さらにいくつか小物を取り出し卓の上に広げてみせた。
小さな花飾り、大振りなコサージュ、ふんわり広がるフリルの付け袖。色形は様々だが、全て同種の透ける布地が使われている。
「こちらが商会に提案した活用例の一部です。扱いの難しい素材ですので、まず無難なのはこういった小物類への活用でしょう。衣服に利用する方法もいくつか考えてみましたが……」
新たに取り出されたのは、透ける布地でできたブラウスだった。光に透けて、向こう側の部屋の景色が丸見えだ。
「紗などと比べても露骨に透けますね。下品にならないようインナーを工夫して、何枚か重ねて奥行きを出せば飾り以上の主役にもなれるでしょう。……が、問題はこの強度」
ミセス・マトローネが示したのは、ブラウスの縫い目だ。
さすがプロ、実に美しく整然としたステッチが並んでいる……が、よく見ればところどころ引き攣れてもいる。布のやわさに苦心したであろう如実な痕跡だ。ミセスでこれなら、カトリーヌ程度の腕では大穴を開けてもおかしくない。
「こうした合わせ目ならば補強する方策は多々ありますが、デザインとして刺繍を組み込むとなると表現にかなりの制限がかかるでしょう。現実的なのは、ワンポイントとして小さなモチーフを入れるか、余白を多めにとって細かい花柄を散らすやり方ですね。密度の高い模様は難易度が跳ね上がる上に、布を重くしてせっかくの軽やかな持ち味を殺してしまいかねません」
ミセス・マトローネは長めの端切れを一枚ずつ、左右の手に取った。片方は素地のまま、片方には簡単な刺繍が施されている。
それらを同時に、ゆっくりとしたストロークで空中にそよがせてみると、素地のものはふんわりと空気を孕んで可憐に翻ったが、刺繍のほうは少しばかり動きが重い。大きな図案を入れるとなるともっと野暮ったくなるだろう。
しかしカトリーヌの目は問題点ではなく、軽やかに泳ぐ素地に釘付けになった。
脳裏に清かな白がさらさらと幾重にも広がり、重なり、翻る……
「これ……活かせたら……」
思わず零れた独白を呑み込むように息を詰め、カトリーヌはミセス・マトローネを振り返った。こちらの様子を窺っていたらしい師の瞳と視線が交差する。
カトリーヌは怖じることなく、まっすぐにミセス・マトローネを見つめる。
「やりたいことが、決まりました。──ご指導よろしくお願い致します」
深々と頭を下げると、返ってきたのはしばしの沈黙。真顔のまま押し黙ったミセス・マトローネは、カトリーヌが焦りを覚えそうになる寸前に、感情の読めない吐息を小さくついて頷いた。
「……ならば、よろしゅうございました。もちろん、わたくしが出来うる限りの助力を惜しむつもりはありません。ですが本日は──」
と、ミセス・マトローネが皆まで言うのを許さず、遠くからガヤガヤと近づいてきていた人の気配がついに扉を開け放ち、あっけらかんとした第一声を室内にぶっ放した。
「あらっ、カトリーヌちゃん! よかった、元気そうだわ!」
「あなた家出したんですってねぇ~! 青春! 若いっていいわぁ」
「今どこのおうちにお世話になってらっしゃるの? 行くところに困ったら是非我が家にいらっしゃいね!」
初っ端からテンションの高い老婦人の面々、若者の家出を咎めるどころかノリノリである。
なんとも言えず口元が緩むのを自覚しながらミセス・マトローネを見やれば、彼女はいつもの無表情に若干の呆れを混入させつつゆるやかにかぶりを振った。
「……本日は、皆様の好奇心を満たして差し上げるのが、先決です」
「……みたいですね」
ずいぶん風変わりではあるが、これが今のカトリーヌの社交である。




