(10)ミセス・マトローネ
ミセス・マトローネはブラウンの髪にぽつぽつと白髪の混じり始めた中年女性だった。初老というには少し早そうだが、孫がいてもおかしくない年代だろう。やせ型で、年齢にしては高い背をピンと伸ばしている。厳格な雰囲気。あまり表情豊かでないらしく、不機嫌ではなさそうだが生徒相手ににこりともしない。
(知らないなぁ……)
真面目に講義を受けながら、カトリーヌは内心で首をひねった。
未亡人夫人、という奇妙な名前は、おそらくアーティストとしての芸名のようなものだろう。実際ここまで彼女のファーストネームは一度も出てきていない。
とはいえ講師に招かれるぐらいだから、身許は学園が保証していることになる。となれば、十中八九訳あり貴族夫人といったところか。
現在の侯爵家は外部との関係性が薄弱だが、現在形で関わりがなくとも過去に因縁のある貴族というのは多数いる。不意のトラブルを避けるために、そういった人物の名前や人相などは、カトリーヌも頭に叩き込んである。これらは、今は国外にいる兄の置き土産である。
そのリストの中に、ミセス・マトローネに該当しそうな人物は存在しない。
だが先ほどの、敵愾心ともとれるような視線がどうにも気になる。
可能性が高そうなのは、兄の残したリストにもおそらく網羅しきれていないであろう、父母の愛人事情の周辺関係者。ミセスの見た目は父とは親子ほどの年の差がありそうだから、愛人本人ということはないはず。あの男は、世間一般の男性がおおむねそうであるように、やはり若い女を好む傾向にある。
とすれば、愛人の親類縁者……かなりありそうな線だ。特にカトリーヌの珍しい赤毛は母親譲りだから、一目で娘だと見破られてもおかしくはない……
「カト──いえ失礼、カドレッドさん」
「! はいっ」
唐突に声をかけられてカトリーヌは顔を跳ね上げた。
斜め上から、当のミセス・マトローネが覗き込んでいる。眉間に自己紹介の時にはなかった皺が数本。カトリーヌの背筋に冷たい汗が流れる。
だが、叱責や悪意の類は一切飛んでこなかった。
「そこはもう少し角度を浅く刺したほうが美しい形になります」
「は、はい。ありがとうございます」
ものすごく当たり障りのない指導だけして、ミセス・マトローネは他の生徒の様子を見回りに去っていった。
カトリーヌは隣席の生徒に気づかれぬよう、静かに薄く浅く長ーいため息をついて、知らず知らず強張っていた全身の緊張を解いた。
一瞬、名前を知られているのはやはり遺恨があるからでは、と肝が冷えたが、よくよく見ればミセス・マトローネは手元のメモらしきものと席順とを照合しながら生徒たちに声をかけている。そういえば今回の講義は席を指定されていたのだった。不慣れな外部講師への学園側からの配慮だろう。
その後も、ミセス・マトローネがカトリーヌに対して不穏な気配を見せることは特になかった。
至極真っ当な講師だ。愛想には大いに欠けるが、淡々と明瞭に要点を指摘してくれるため生徒の理解も早い。不出来な生徒を叱責することもなく、かと言って甘やかしもしない。とっつきにくさは確かにあるが、情の繋がりの有無で生徒の扱いに差が出る教師よりはよほどありがたい。
初日の特別講義をなんとか乗りこなした直後、生徒たちが三々五々に講義室を後にする中、カトリーヌは思い切って当初の計画を実行した。
「ミセス・マトローネ」
カトリーヌが声をかけると、ミセス・マトローネはピタリと帰り支度の手を止めて固まった。
そして、ゆるり、とカトリーヌを見る。完全に真顔だが、仕草の端々に微細な警戒感のようなものが滲んでいる。
……やはり、何かしら因縁があるのだろう。
しかしカトリーヌはいっそ開き直って、気づかれないように薄い深呼吸を挟んだ。
ここは当たって砕けろだ。侯爵家に向けられる奇異の目や蔑視に、いちいち傷ついていたら何もできない。そもそも大した内容の相談でもない。駄目だったら駄目で、他を当たればいいのだから。
「質問があるのですが、お時間よろしいでしょうか」
「……ええ、手短に」
ミセス・マトローネは一拍ばかり間を置いて、授業中と変わらぬ、冷淡に聞こえるが突き放してもいるわけでもなさそうな、絶妙な答えを返してきた。……なかなか難しい人物だ。
「あの、刺繍をやる上で、今後目を通しておくべき図案集や画集といったものはありますか?」
言われた通り手短に訊ねると、ミセス・マトローネはあからさまに黙り込んでしまった。カトリーヌの言葉の意味を咀嚼しているかのような、微妙な沈黙。
居心地悪くて、カトリーヌは思わず言葉を重ねてしまう。
「お手本になる図案をもっといろいろ見てみたいのです。今はまだ難しいテーマやデザインでも、今後の指標にできると思うので」
「カト──カドレッドさん」
また言い直された。というか今はもう座席も何もないのに空で言い当てられた。やはり名前を覚えられている……
何を言われても心乱さないようにしっかりとガードを固めながら、カトリーヌはミセス・マトローネの言葉を待った。
「貴女はなぜ、そこまで刺繍を頑張ろうとしているのですか?」
「え……それは……」
用意していなかった方向からの質問に、カトリーヌは思わず戸惑い、視線を彷徨わせてしまう。
家のためとか伝統を守るためとか適当に模範解答で返せばよかったのかもしれないが、生憎と嘘が嫌いなカトリーヌは、咄嗟に嘘をつくのも苦手だ。まして「家のため」だなんて心にもないことをろくな準備もなく言ったところで、確実に見破られる。
「友人からもらった布を綺麗に飾り付けたいから」というのがこの場合正直な答えなのだが……これを言ってしまっていいものなのか。貴族の伝統も義務も関係ない、ただの趣味、子供の遊びだと喝破されてしまったなら……
にわかに、己を恥じ入り、大人の視線に怖じる感情が胸に沸き上がって、カトリーヌは押し黙ってしまった。
ミセス・マトローネはああ、と小さく吐息をつきながらかぶりを振った。そこにカトリーヌを責める色はなく、不思議と申し訳なさそうな響きさえ滲んでいる。
「詮索するつもりではなかったの。ただ純粋に興味深かっただけで」
少し砕けた口調でそう言いながら、ミセス・マトローネは仕立ての良い革鞄から一冊の本を取り出してカトリーヌに手渡してきた。細緻な装丁の、刺繍の図案集だ。
「今持参しているのはこの一冊だけです。カドレッドさんに差し上げます」
「……え!? いえ、頂くわけには……」
「かまいません。わたくしのような老人などより若人が持つべき教本です。来週の講義には他にも数冊見繕って持ってきましょう。ではごきげんよう」
有無を言わさず図案集を押し付けて、ミセス・マトローネはさっさと片づけを終え、退室していってしまう。
「え、あ、あの……ええっと……あ、ありがとうございます!」
そのスピード感についていけずに、カトリーヌは図案集とミセス・マトローネの背を忙しなく見比べて、まごつきながらもなんとか謝辞を投げつけた。
ミセス・マトローネは入り口でカトリーヌを振り返ると、何も言わずに優雅に会釈だけして、あとは颯爽と立ち去っていった。ちなみにここまで、彼女の表情筋は一度たりとも、にこりともしていない。
ミセス・マトローネが軽やかに踵を鳴らして遠ざかっていく音。手元に残された年季の入った図案集。
先ほどまでの想定外の会話を反芻しながら図案集を見下ろして、自分の心臓がドキドキと大きく鼓動しているのを、カトリーヌは久方ぶりに感じていた。