ある到達点(その1)
空海は病気になって自分の死が近いことを知った。背中が膿み始めてそれが次第に広がった。発熱と痛みに悩まされる日々が続いた。仰向けに寝ることができないのも辛いことであった。こんな病気になるのは体力が衰えているからであるのに違いない。空海は病気を理由に当時着いていた大僧都という要職を辞めたいと当局に申し出て、しかし許されなかった。職を辞することはできなかったが、仕事は大分軽くしてもらうことができた。このとき空海は五十八歳であった。空海が大僧都となったのはこの四年前のことであった。前任の大僧都、勤操が亡くなり、その後を継いだ。
病気はやがてよくなった。もう熱に苦しむことはなくなった。痛みはなくなり仰向けになって眠ることができるようになった。よくはなったものの長患いで体力は消耗した。よくはなったものの死期が近い、いよいよ死を見据えて生きねばならぬという空海の思いは変わらなかった。大僧都を辞めたいと言ったのは天長八年の五月であった。翌天長九年の十一月、空海は一種の食餌療法を始めた。穀物を食べるのを止めた。それはつまり野菜や山菜ばかりを食べるということであろう。この食餌療法は「御遺告」(ごゆいごう)において述べられているので、知ることができるのである。これは空海が文章として書いた上で、いよいよ死が近付いてきた時期に、しかしまだしっかりと立ったり座ったりできる体力は残っている時期でなければならず、空海は時期を細心に見計らって決めたのだが、弟子に集まってもらってその書いた文章を読み上げるという形で伝えられた遺言である。遺言らしく箇条書きで教主なき後の教団運営について指定している部分が大半であるが、冒頭の部分は自叙伝風である。空海の伝記的事実として知られていることは大体ここに由来しているのであろう。
この食餌療法は一体何を意図したものであったか。迫る死を意識してのことであるのは間違いないところであるが、しかし食餌の取り方を工夫することで死にいかに働きかけることができるというのか。空海自身の主張によればこれは教団のためひいては民衆一般の救済にもなるのだという。しかしこれは分かり難い説明である。これまでと同様に穀物を食べ続けるのと、穀物を含まぬ粗食をとることと、その結果としてどんな違いがあるだろうか。穀物をとらなければ栄養は不足し寿命は短くなるはずである。しかしすでに衰弱した身体であるならばいずれにせよ死は近いのであって、食餌如何による寿命の長短はごく僅かの差しかないであろう。だからここには空海の意図はないのである。食餌を制限することにより人生があと僅かしかないことを常に意識しながら日々を生きることになる。そして最期まで明晰な意識を保つことができる。教主の痩せ細った身体を教団の人間に示すことにより、教主の死にいかに処すべきか準備を促すこともできよう。教主が突然いなくなって教団の人々が慌てふためくという事態は避けられる。そして空海自身は遺言の執筆に意を凝らすのであった。
このとき空海はいよいよ偉人としての空海となっていた。すでに唐に渡り当代随一の密教の高僧から教えを受けていた。膨大な理論書を唐から日本にまで運んでくることにも成功した。つまり、二十代当時の空海はすでに「三教指帰」を書いて宗教への透徹した認識と文筆の巧みさとを示していたとはいえまだ密教への理解はごく浅いものでしかなかった。何より読んでいる密教関連の書物がごく少なかった。密教の重要性には気付いていたし密教を知るには唐にまで出向かなければならないということも知っていた。四国の山を登って肉体を鍛え、修行に適した場所を見つけてはそこで修行に長い時間を費やして悟りを開くに足るだけの脳力開発をもすでに充分になしていた。そういう点では高僧になるための準備は万端整えていると言えた訳ではあるが、しかし唐にまで渡るという点についてはどうか。まず唐に留学するメンバーに選ばれるのが難しいことである。志願したところで振るい落とされる可能性が大いにあるのだった。留学僧に選ばれたら次に待ち受ける難関は唐へ向けての船旅である。遭難して命を落とすことになるかもしれない。運良く長安にまでたどり着けたとして今度はそこに何が待ち受けているのであろうか。何か学ぶに足る教えと出会えるのかどうかが定かではないと空海は思うのであった。唐で二十年を過ごすことになるのだ。二十年とは一体どんな長さであろうか。異国の食物をとりながら二十年も果たして生き延びられるであろうか。将来の展望は何もなかった。ただ濃い霧に包まれたような未来が前にあるだけであった。だから二十代の空海は偉人としての空海のほんの片鱗を示しているだけであった。
五十四歳にして大僧都という僧侶としての最高の地位を占めたとき、偉人としての空海はほぼ完成の域にまで達した。しかし当時の空海はまだ健康の不安がなくあと十年以上生きられるのではないかと思っていた。まだ死を見据えている訳ではないので特に哲理の研究、そしてその著作においてまだまだ多くの進展があるだろうと踏んでいたのである。しかるに六十歳の空海には最早今以上に認識が進むことはないように思われた。そういう心境で行う講義はまさに集大成であった。これこそが空海その人の思想そのものなのである。これまでの著作、講義は今ここで話すことの言わば準備であった。
これまでに縁の深かった人たちに別れの挨拶をしに行こうと思い立って先ず選んだのが東大寺であった。東大寺を訪れたのは二月のことであった。東大寺には空海は若い時分から縁があった。密教経典に触れてこれを自身の一生の仕事にできるのではないかと思いついたのは東大寺でのことであった。唐に渡り密教と深い縁故を結び、そして日本に急ぎ帰り仏教界における当代の第一人者となってからは東大寺の別当として迎えられた。別当とはこの組織の長を意味する。空海自身は別れの挨拶のために東大寺に行くというつもりであるが、公的な目的は別に立てなければならず、公的な目的として用意したのが仏教哲学の講義に出向くということであった。空海は般若心経と法華経とを講演の題目として選んだ。これはすでに空海にとって何度も論じてきた得意の題目であった。聞き手にはまたこの題目かと思うものがあるだろうが、もう敢えて新味を出そうと努めるべき年齢ではないだろう。外連を演じて人の耳目を集めようとする必要は今の自分にはもうないのだから。それが空海の考えであった。
まあ見ての通り、もう私はこの世での命は長くない訳です。あと半年かあと一年かそれくらいだろうと私は思っております。それで別れの挨拶をして回ろうと思っている訳で、その挨拶行脚の手始めがここなのですね。来月には叡山に登る予定です。まだそれくらいの体力は残っていますから。
挨拶といっても学問僧をもって自ら任じている私のことですから単なる挨拶だけでは自分としては満足する訳にはいかなくてここはやはり密教哲学についての講義をさせていただくのが私にとって最も自然な道であろう。法華経について話します。これを聞くとああまたかと思われる方もあろう。
ここで空海は部屋に詰めている僧たちの顔をひとわたり見回した。以前の自分の講義に出席したことのある人が幾人あるかを確認していたのである。
法華経は講義の題材として空海のお得意のものでこれまでにも度々この経典を題材として講義を行っていた。この経典の内容にまで踏み込んで逐一丁寧に取り上げて解説するのではなくて、この経典を密教的に解釈することができるのだと示すことを主眼とした講義であった。法華経そのものは顕教の経典であると普通は考えられているのである。顕教というのは空海に特有の用語であるが、自身が信奉し布教している宗教のことは密教と呼び、これとの対概念として顕教というものを立てるのである。仏教ではあるが密教には属さないもの一般をさして顕教と空海は呼ぶのであった。つまり顕教とは密教ではない、その他もろもろといったかなり大雑把な言葉である。教理の研究に熱心で高度の知的達成がありながら、修行の実践にはあまり熱心でない他宗といった意味合いは強いであろう。密教の特色というのは、修行の方法論を豊かに持っていることであって、これがあるからこそ即身成仏、速疾成仏という主張もできた訳である。さて、密教の特色としてかなり確実に効果を上げることのできる(とはいえ、やはりそう簡単なことではないであろうが)修行法があるのだが、哲学的な研究もまた疎かにしてはならず、教相と事相との両方をともにしっかりと行いなさいとは空海が頻りに説いたところであった。これは空海自身どこかで書いている筈である。教相とは書物を読んで考えること、事相とは書物を使わない言わば身体的な修行のことである。そして教相において用いられる書物には、所謂顕教のそれも多く含まれるのである。教団という点では密教と顕教とは対立的に立てられる、別個のものとして立てられる訳であるが、教理という点では密教は顕教と別個に立てられるというよりは、密教が顕教を含み込むという形になっているのである。だから顕教の書物は全て、密教の書物として読むことができる。但し読み方、読む観点が密教と顕教とでは異なるのである。